第83話『写真の中の少女』
午後十一時過ぎ。
資料室の窓を叩く雨音だけが、静まり返った校舎に響いていた。
古い蛍光灯の白い光が机の上を照らしている。
段ボール箱が三つ。
中には十年前の事件資料が無造作に詰め込まれていた。
「なあ黎司」
有馬がカップ麺をすすりながら言った。
「探偵ってもっと華やかな仕事だと思ってた」
「例えば?」
「美女と高級ホテルで極秘会談とか」
「それ探偵じゃなくて詐欺師だろ」
「夢を壊された」
「最初から壊れてる」
白鐘が小さく吹き出した。
その笑顔を見て、黎司は少しだけ肩の力を抜く。
最近の白鐘は以前より表情を見せるようになった。
だが、それは安心できる変化ではない。
失われた記憶に近づいているからだ。
真実は希望になることもある。
だが同時に、人を壊す刃にもなる。
黎司はそのことを嫌というほど知っていた。
「遊んでる場合じゃない」
机に資料を広げる。
「三件目の失踪事件だ」
有馬が身を乗り出した。
「共通点あったのか?」
「あった」
地図を机の中央へ滑らせる。
赤い線で囲まれた場所が幾つも重なっていた。
「被害者の生活圏が全部重なってる」
「偶然じゃなく?」
「三件続けば偶然じゃない」
有馬の顔から笑みが消える。
「……全部繋がってるのか」
「ああ」
黎司は頷いた。
十年前。
半年間に起きた連続失踪。
一見すると無関係。
だが資料を積み上げるほど、ひとつの輪郭が浮かび上がってくる。
誰かが意図的に隠した真実。
その存在を感じていた。
ページをめくる音。
雨音。
時計の秒針。
その時だった。
「……え?」
白鐘の声が震えた。
黎司は顔を上げる。
彼女は一枚の名簿を見つめていた。
血の気が引いている。
「どうした」
「わからない……」
指先が震えている。
視線は名簿の一点に固定されたままだ。
「白鐘?」
呼びかけた瞬間だった。
彼女の身体が大きく揺れた。
「っ……!」
頭を押さえる。
呼吸が乱れる。
椅子が軋んだ。
「おい!」
黎司は咄嗟に立ち上がった。
倒れそうになる身体を支える。
細い肩が震えていた。
「しっかりしろ」
「……あ……」
焦点の合わない瞳。
まるで別の景色を見ているようだった。
数秒。
いや、もっと長く感じた。
白鐘はゆっくりと瞬きをする。
「何を見た」
震える声で問う。
彼女は小さく息を吐いた。
「暗い場所」
「……」
「寒かった」
白鐘の瞳が揺れる。
「誰かが泣いてた」
資料室の空気が重くなる。
「男?」
有馬が聞く。
白鐘は首を振った。
「わからない」
「子供か?」
「それも……」
答えながら、自分自身を疑うように眉を寄せる。
「でも怖かった」
その言葉だけは断言した。
怖かった。
それだけは確かな記憶らしい。
黎司は机の上のペットボトルを差し出した。
「飲め」
「ありがとう」
受け取る時だった。
白鐘の手が無意識に黎司の袖を掴む。
本人は気付いていない。
だが離さない。
まるで溺れる人間が浮き輪を掴むように。
「……」
「……」
「おお」
有馬がニヤリと笑った。
「青春」
「黙れ」
「付き合ってる?」
「違う」
「違います」
完全に重なった。
「息ぴったりじゃねえか」
「だから違う」
「むしろ怪しい」
白鐘の耳が赤くなる。
黎司は視線を逸らした。
有馬だけが楽しそうだった。
数分後。
再び資料整理が始まる。
古い証言記録。
新聞記事。
目撃情報。
その中に一枚の供述書があった。
「これだ」
黎司は紙を持ち上げた。
「夜の公園で黒い人影を見た」
有馬が眉をひそめる。
「黒い人影?」
「続きがある」
黎司は読み進めた。
「人影の後ろに少女がいた」
空気が止まる。
白鐘の肩が小さく震えた。
「年齢は十歳前後」
「顔は見えない」
「ただ黙って後をついて歩いていた」
誰も言葉を発しない。
十年前。
失踪事件。
黒い人影。
少女。
偶然では片付けられない。
そして。
段ボールの底から一枚の封筒が見つかった。
「なんだこれ」
有馬が取り出す。
古びた茶封筒。
中には一枚の写真が入っていた。
色褪せている。
端は擦り切れている。
黎司は慎重に写真を取り出した。
写っていたのは古い施設。
廃墟のような建物の前で並ぶ人々。
十年以上前の写真だろう。
画質も悪い。
顔もほとんど判別できない。
だが。
「……待て」
黎司は写真を顔に近づけた。
右端。
隅の方。
ひとりの少女が立っている。
長い黒髪。
小柄な体格。
伏せられた顔。
不鮮明なのに。
なぜか目が離せなかった。
白鐘も同じだった。
彼女は写真を凝視している。
呼吸すら忘れたように。
「白鐘?」
反応がない。
写真を持つ指が震えている。
今にも落としそうだった。
「おい」
黎司が呼ぶ。
ゆっくり。
白鐘が顔を上げた。
瞳の奥に恐怖が浮かんでいた。
だがそれ以上に。
確信があった。
「この場所……」
掠れた声。
「知ってるのか?」
白鐘は写真を見つめたまま呟く。
「私……」
喉が震える。
息が詰まる。
黎司も有馬も言葉を失った。
次の一言を待つ。
そして。
白鐘は震える唇を開いた。
「思い出した」
雨音が大きく聞こえた。
「私――」
握り締めた写真の端が折れる。
「ここにいた」
その瞬間。
黎司の背筋を冷たいものが駆け上がった。
十年前の失踪事件。
黒い人影。
記憶を失った少女。
散らばっていた欠片が、ひとつの形になろうとしている。
だが。
写真を見つめる白鐘の顔は、再会の喜びではなかった。
まるで。
思い出してはいけない何かを思い出した人間の顔だった。
「……あの場所に」
白鐘が震える。
「まだいる」
「誰が?」
黎司が問う。
白鐘はゆっくりと顔を上げた。
青ざめた唇が動く。
「――あの人が」
その言葉と同時に。
資料室の照明が一瞬だけ明滅した。
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