第82話『観測されなかった記録』
「……つまり、お前はこう言いたいんだな」
有馬が乾いた声を出した。
「この写真に写ってる奴は、最初から消えてたんじゃない」
黎司は静かに頷く。
「違う」
水族館の事務室。
古い資料と写真が机いっぱいに並べられていた。
閉館後の館内は静まり返っている。
遠くから聞こえるポンプの低い振動音だけが、この場所がまだ生きていることを教えていた。
黎司は一枚の写真を机へ置く。
「存在していた」
そして別の写真。
さらにもう一枚。
「だが誰も認識していなかった」
有馬が顔をしかめる。
「いやいやいや。怖い怖い怖い」
「怖いか?」
「普通に怖いわ!」
机を叩く。
「存在してるのに認識されないとかホラー映画だろ!」
白鐘が小さく吹き出した。
有馬は即座に指を差す。
「今笑ったな?」
「少しだけ」
「ひどい!」
張り詰めた空気がわずかに緩む。
しかし黎司の視線は写真から離れない。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
どれも同じだった。
違和感がある。
だが、それは写っている人物ではない。
周囲だ。
「見ろ」
黎司が写真を指差した。
「全員の視線だ」
有馬が身を乗り出す。
「視線?」
「この位置に人がいたと仮定する」
写真中央を指でなぞる。
「だが誰一人として見ていない」
有馬の眉が上がった。
確かにそうだった。
写真の中には十人以上の人間がいる。
だが誰も中央を見ていない。
偶然と言うには不自然すぎる。
「一枚だけじゃない」
黎司は写真を並べた。
「全部同じだ」
事務室に沈黙が落ちる。
有馬が喉を鳴らした。
「マジかよ……」
白鐘も写真を見つめていた。
その瞳が少し揺れる。
まるで何かを思い出しかけるように。
黎司は気付いた。
「白鐘?」
「え?」
「何か思い出したか」
白鐘は少し迷った。
それからゆっくり首を振る。
「わからない」
だが表情は違った。
本当にわからない顔ではない。
思い出せそうで思い出せない顔だ。
黎司は追及しなかった。
今はまだ早い。
代わりに別の資料を取り出す。
来館者アンケート。
スタッフ記録。
日誌。
その中の一冊。
古びた手帳だった。
白鐘の指先が止まる。
「これ……」
「どうした?」
「この字」
彼女の呼吸がわずかに乱れた。
震える指でページをなぞる。
「見覚えがある」
黎司と有馬が同時に顔を上げる。
「本当か?」
「うん……でも……」
白鐘は額に手を当てた。
苦しそうだった。
霧の向こうに何かがある。
だが届かない。
「誰の字だ?」
「わからない」
それでも彼女はページを離さなかった。
「でも……知ってる」
次の瞬間。
白鐘の身体がふらついた。
「っ!」
黎司が反射的に腕を掴む。
細い肩が震える。
白鐘は驚いたように黎司を見上げた。
距離が近い。
思ったより近い。
互いに一瞬だけ固まる。
「……大丈夫か」
「う、うん」
白鐘は慌てて視線を逸らした。
耳が赤い。
有馬がニヤニヤする。
「おー」
「何だ」
「いや別に」
「殴るぞ」
「理不尽!」
白鐘が小さく笑う。
ほんの少しだけ空気が柔らかくなった。
だが次の瞬間。
黎司の視線が止まった。
机の端。
資料の束。
その中の一枚。
「これは……」
古い新聞記事だった。
十年前。
別の失踪事件。
水族館とは無関係。
場所も違う。
被害者も違う。
だが。
写真が掲載されていた。
黎司は記事を広げる。
有馬が覗き込む。
「何かあったか?」
返事はない。
黎司は写真を凝視していた。
そして。
ゆっくりと指を伸ばす。
写真の端。
人混みの奥。
ぼやけた黒い影。
「嘘だろ……」
有馬の声が震えた。
白鐘も息を呑む。
そこにいた。
間違いない。
黒い人影。
今回の事件で目撃された存在。
同じ輪郭。
同じ不自然さ。
同じ存在感。
十年前の写真にも映っていた。
「偶然じゃない」
黎司が呟く。
「ありえない」
有馬が首を振る。
「十年前だぞ」
「だからだ」
黎司は記事を見つめる。
冷たいものが背筋を這い上がる。
事件は一つではない。
水族館だけではない。
もっと前から。
もっと広く。
何かが続いている。
白鐘が小さな声を漏らした。
「待って」
「どうした」
「これ……」
彼女は別の資料を引き抜く。
監視映像の記録一覧。
最近起きた別件の失踪事件。
そこに添付された静止画像。
黎司の目が細くなる。
有馬の顔色が変わった。
映っていた。
まただ。
別の場所。
別の事件。
別の日付。
だが。
同じ黒い人影。
誰も見ていない場所に立っている。
まるで。
最初からそこにいたかのように。
事務室の時計が時を刻む。
誰も喋れなかった。
静寂だけが広がる。
黎司はゆっくり息を吐いた。
観測外存在。
仮説ではない。
現実だ。
そして。
それは一つの事件では終わらない。
もっと大きな何かが動いている。
白鐘が震える声で言った。
「黎司……」
「ああ」
「これ……」
言葉が続かない。
黎司は静かに答えた。
「追うしかない」
黒い人影。
観測されない存在。
その正体を。
そして。
机の上に並んだ写真を見つめながら、黎司は確信した。
次の事件は、もう始まっている。
その瞬間。
別事件の静止画像の端に映る黒い人影が。
こちらを見ているように見えた。
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