第81話『観測されない存在』
閉館後の零和水族館は、海の底のように静まり返っていた。
巨大水槽の青い光だけが暗闇を照らし、ゆっくりと泳ぐ魚影が壁や天井に揺らめく影を落としている。
その幻想的な景色の中で、久瀬黎司だけは現実に引き戻されていた。
目の前の日記帳が、あまりにも異常だったからだ。
「……やっぱり、おかしい」
ページをめくる指先が止まる。
死亡したはずの人物の日記。
死亡後の日付。
そして、水族館への来館記録。
あり得ない。
あり得ないはずなのに、記録はそこにある。
「その台詞、今日だけで十三回目だ」
椅子にもたれた有馬が言った。
「十二回じゃなかったか?」
「更新された」
「暇なのか」
「暇じゃない」
「数えてる時点で暇だろ」
「事件解決のための重要な観測だ」
「絶対違う」
黎司は即座に切り捨てた。
その横で白鐘が小さく肩を震わせる。
「ふふっ……」
「笑ったな?」
「少しだけです」
「少しだけじゃないだろ」
有馬が抗議する。
白鐘は慌てて口元を隠した。
最近になって分かったことだが、彼女は意外と笑い上戸だった。
それを見ていると、張り詰めていた神経が少しだけ緩む。
だが。
事件はそんな余裕を許してくれない。
「死亡日時は確定している」
黎司は資料を叩いた。
「病院の記録も警察の記録も一致してる」
「つまり本人は死んでる」
「ああ」
「でも来館記録がある」
「ある」
「監視映像もある」
「ある」
「じゃあ生きてるじゃねぇか」
「死んでる」
「どっちなんだよ!」
有馬が頭を抱えた。
その反応に白鐘がまた吹き出す。
「探偵が一番混乱してる……」
「誰が探偵だ」
「え?」
「俺は助手だ」
「じゃあ探偵は?」
「黎司」
「違う」
即答だった。
「じゃあ誰だ」
「知らない」
「知らないのかよ!」
有馬のツッコミが映像室に響く。
だが笑いは一瞬で消えた。
黎司の視線が、ある一点で止まったからだ。
日記の最後のページ。
そこに書かれた一文。
――今日は誰も僕を見ていなかった。
ぞくり、と背筋が冷える。
「……なあ」
有馬の声も低くなる。
「これって偶然か?」
「分からない」
「嫌な予感しかしないんだけど」
「同感だ」
その時だった。
白鐘が小さく息を呑んだ。
「この字……」
「ん?」
「見たことがあります」
黎司と有馬が同時に振り返る。
白鐘は日記を見つめたまま固まっていた。
「どこで?」
「それが……」
彼女は目を閉じる。
記憶を探るように。
何かが引っかかっている。
あと少しで届きそうなのに。
届かない。
「思い出せない……」
悔しそうな声だった。
その表情を見ていると、無理をさせたくなくなる。
「大丈夫だ」
黎司は静かに言った。
「焦る必要はない」
「でも……」
「思い出せる時は来る」
白鐘は少しだけ目を見開いた。
そして。
「……ありがとうございます」
小さく微笑んだ。
その笑顔に、黎司は一瞬だけ視線を逸らした。
なぜか胸が落ち着かない。
すると。
「ほう」
有馬がにやりと笑った。
「何だ」
「いや別に」
「顔がうるさい」
「顔がうるさいって何だよ」
「その顔です」
白鐘まで参加する。
「お前まで!?」
「事実なので」
「裏切り者!」
有馬が机に突っ伏した。
その時。
映像室のドアが勢いよく開いた。
「見つかりました!」
職員が飛び込んでくる。
全員の空気が変わった。
「何がですか?」
白鐘が立ち上がる。
職員は一枚の写真を差し出した。
「整理中のデータから出てきました」
黎司が受け取る。
そして。
息を止めた。
そこには死亡したはずの男が写っていた。
間違いない。
監視映像の人物だ。
「本当にいた……」
有馬が呟く。
だが。
黎司は別の違和感を見つけていた。
「待て」
「どうした」
「周りを見ろ」
写真を拡大する。
家族連れ。
学生。
カップル。
大勢の来館者。
しかし。
誰一人として男を見ていない。
誰の視線も向いていない。
避けているわけではない。
認識していない。
まるで。
そこに存在していないかのように。
「気味悪ぃ……」
有馬の声が掠れた。
「何だよこれ」
「確認する」
黎司は立ち上がった。
「監視映像だ」
数分後。
映像室。
暗いモニターの光が全員の顔を照らしている。
再生開始。
男が現れる。
歩く。
立ち止まる。
水槽を見る。
振り返る。
しかし。
誰も反応しない。
肩もぶつからない。
視線も向かない。
近くを通る人間がいても存在を認識していない。
異常だった。
映像が終わりに近づく。
その時。
「止めてください」
黎司が言った。
映像が停止する。
最後のフレーム。
そこを見た瞬間。
全員の呼吸が止まった。
「……は?」
有馬が呟く。
男の背後。
本来誰もいないはずの場所。
黒い人影が立っていた。
輪郭が曖昧だ。
だが確かにいる。
そして。
その顔だけが。
こちらを見ていた。
モニター越しに。
まるで画面の外を認識しているように。
白鐘が黎司の袖を掴んだ。
無意識だったのだろう。
指先が震えている。
「黎司さん……」
「大丈夫だ」
そう言いながら、自分自身に言い聞かせていた。
背筋を冷たい汗が流れる。
嫌な予感が形になろうとしていた。
死亡後の来館記録。
誰にも認識されない男。
監視映像。
写真。
そして最後の人影。
点だった違和感が一本の線になる。
「違う」
黎司は呟いた。
有馬が振り返る。
「何がだ」
「俺たちは勘違いしていた」
静寂。
水槽の水音だけが響く。
黎司は画面を見つめたまま続けた。
「誰も見ていなかったんじゃない」
一拍。
白鐘が息を呑む。
有馬が眉をひそめる。
そして黎司は確信を持って言った。
「この人物は――」
全員の視線が集まる。
「誰にも観測されていなかったんだ」
沈黙。
その言葉が部屋の空気を凍らせた。
そして。
停止した映像の中で。
男の背後に立つ人影だけが。
まるで黎司の結論を肯定するように。
ゆっくりと。
笑っているように見えた。
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