第80話『観測されない名前』
管理室の空気は、凍りついていた。
「その人……昨日、亡くなっています」
責任者の震える声が、静まり返った部屋に落ちる。
誰も言葉を返せなかった。
俺は手元の名簿へ視線を落とした。
そこには確かに名前がある。
住所もある。
年齢もある。
入館記録も残っている。
だが、その人物は昨日死亡している。
あり得ない。
そんな結論だけが先に浮かぶ。
「確認ミスじゃないのか?」
最初に口を開いたのは有馬だった。
いつもの軽い調子ではない。
責任者は首を横に振る。
「警察発表も確認しました。ご遺族にも問い合わせています」
「……本人で間違いない?」
「はい」
沈黙。
窓の外では水槽の青い光が揺れている。
その穏やかな光景が、今だけは妙に不気味だった。
「黎司くん」
白鐘が小さく俺を呼ぶ。
振り返ると、彼女は名簿を見つめていた。
「どうした?」
「この名前……」
白鐘の指先が止まる。
「私、見た気がするんです」
「見た?」
「でも思い出せない」
苦しそうに眉を寄せる。
「知っているはずなのに、思い出そうとすると霧がかかるみたいで……」
その言葉に、俺の胸の奥がざわついた。
白鐘は今までにも何度か説明できない違和感を感じ取っていた。
そして、その違和感は一度も外れていない。
「無理に思い出さなくていい」
俺が言うと、彼女は少しだけ安心したように頷いた。
だが、その表情には不安が残っていた。
「……いるんです」
「何がだ?」
「誰かが」
管理室の空気がまた重くなる。
有馬がため息を吐いた。
「幽霊とか言うなよ」
「言ってません」
「言いかけてただろ」
「言ってません」
「今の間は怪しい」
「有馬さん失礼です」
「お前も結構失礼だぞ」
少しだけ笑いが生まれる。
張り詰めていた空気が緩んだ。
だが次の瞬間。
監視担当の職員が声を上げた。
「あっ!」
全員が振り返る。
大型モニター。
監視映像。
水槽前を映した画面だった。
「今、映った!」
職員が慌てて巻き戻す。
再生。
青い照明の中。
家族連れが歩いている。
カップルが立ち止まる。
子供が走る。
そして――
一瞬だけ。
誰かがいた。
確かに。
そこに。
人影が映っていた。
「止めろ!」
俺が叫ぶ。
映像が停止する。
全員が画面を見つめる。
輪郭は曖昧だった。
男か女かも分からない。
だが確実に誰かがいる。
「拡大できますか」
「やってみます」
職員が操作する。
画面が拡大される。
ノイズが走る。
そして。
人影が消えた。
「は?」
有馬が素っ頓狂な声を上げた。
再生。
もう一度。
最初から。
しかし今度は何も映っていない。
誰もいない。
ただの通路だけだった。
「おい……」
有馬の顔から血の気が引いていく。
「今の見ただろ」
「見ました」
白鐘も頷く。
俺も見た。
確かに見た。
なのに映像には残っていない。
論理が追いつかない。
そんな感覚は初めてだった。
管理室の時計が音を立てる。
カチ。
カチ。
カチ。
その音だけが妙に大きく聞こえた。
俺は再び名簿へ目を落とす。
死亡した人物。
存在する記録。
存在しない記憶。
映ったはずの人影。
消えた映像。
バラバラの情報。
だが一つだけ共通点がある。
「観測された瞬間だけ存在する……?」
無意識に呟いていた。
「黎司?」
白鐘がこちらを見る。
俺は首を振った。
「まだ分からない」
本当に分からない。
だが。
これは単なる人数ズレじゃない。
もっと根本的な何かだ。
存在そのものに関わる異常。
そんな予感がしていた。
その時だった。
責任者が震える声で言う。
「もう一つ、報告があります」
全員の視線が集まる。
「その亡くなった方ですが……」
責任者は唾を飲み込んだ。
「死亡前日に残した日記が見つかりました」
「日記?」
「最後のページに一文だけ書かれていたそうです」
嫌な予感がした。
責任者は青ざめたまま読み上げる。
『明日、また水族館へ行く』
沈黙。
誰も言葉を発しない。
俺は名簿を握り締めた。
そして確信する。
この事件は始まったばかりだと。
――死者は、本当に来場したのか。
それとも。
誰かが、死者を観測したのか。
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