第91話『残された言葉』
雨が降っていた。
六月の終わりを告げるような冷たい雨だった。
探偵事務所の窓ガラスを叩く雨粒が、一定のリズムで音を刻む。
その音だけが妙に耳に残る。
机の上には施設関連の資料が山積みになっていた。
久瀬黎司は腕を組み、その資料を見つめている。
対面のソファでは白鐘紗雪が温かい紅茶のカップを両手で包み込んでいた。
しかし、その指先は小さく震えている。
「また……夢を見ました」
紗雪がぽつりと呟いた。
黎司は顔を上げる。
「施設の夢か」
「はい」
紗雪は俯く。
長い睫毛が影を落とした。
「最近、少しずつ思い出してきてるんです」
その声には恐怖と期待が混じっていた。
「怖い記憶か?」
「違います」
首を横に振る。
「むしろ……温かい記憶なんです」
紗雪の唇が震えた。
「なのに起きると涙が出てるんです」
静寂が落ちた。
雨音だけが聞こえる。
有馬が頭を掻いた。
「それさ」
「え?」
「忘れたい記憶じゃなくて、忘れたくなかった記憶なんじゃね?」
紗雪が目を見開く。
「……」
「大事なものほど、失くした時に痛いからな」
有馬にしては珍しく真面目な言葉だった。
紗雪は小さく笑った。
「そうかもしれません」
黎司は資料を閉じる。
「思い出せるところまででいい」
紗雪は頷いた。
そしてゆっくりと目を閉じる。
雨音が遠ざかる。
代わりに聞こえてきたのは子供たちの笑い声だった。
◇
施設の中庭。
幼い紗雪は一人でベンチに座っていた。
遠くでは子供たちが遊んでいる。
誰も近寄ってこない。
誰とも話さない。
それが当たり前だった。
空を見上げていると影が差した。
「また一人か」
顔を上げる。
神崎修司だった。
まだ若い。
だが、その優しい目は今と変わらない。
紗雪は警戒して黙り込む。
神崎は隣へ座った。
「友達いないのか?」
「……」
「俺もいない」
紗雪が怪訝そうに見る。
「うそ」
「本当だ」
「おとななのに?」
「大人だからだ」
神崎は肩を竦めた。
その姿がおかしくて。
紗雪は思わず吹き出した。
神崎は満足そうに笑う。
「やっと笑ったな」
ポケットから飴を取り出す。
「ほら」
「いいの?」
「笑った子供への報酬だ」
その日からだった。
神崎は時々現れるようになった。
誰も気づかない小さな変化にも気づいてくれた。
熱を出した日。
転んだ日。
眠れなかった夜。
必ず神崎が来た。
幼い紗雪にとって。
神崎は世界でたった一人の味方だった。
◇
雷鳴が響く夜。
幼い紗雪はベッドの隅で震えていた。
雷が怖かった。
窓の外で光る稲妻が怖かった。
そして何より。
一人なのが怖かった。
扉が開く。
神崎だった。
「また雷か」
紗雪は頷く。
涙が滲んでいる。
神崎はしゃがみ込んだ。
「怖いか?」
「……うん」
小さな返事。
神崎は少し考えた。
そして言った。
「大丈夫だ」
「でも……」
「俺がいる」
たった四文字。
それだけだった。
だが。
それだけで安心できた。
我慢していた涙が溢れる。
神崎は何も言わない。
ただ隣に座っていた。
朝までずっと。
◇
記憶が揺らぐ。
場面が変わる。
施設の廊下だった。
神崎が誰かと話している。
相手の顔は見えない。
だが神崎の表情だけは見えた。
険しい。
怒りとも恐怖とも違う。
覚悟を決めた人間の顔だった。
やがて相手が去る。
神崎は深く息を吐く。
その瞬間。
神崎がこちらを見る。
幼い紗雪に気づいた。
一瞬だけ驚く。
そして無理やり笑顔を作った。
「見なかったことにしろ」
冗談めかした口調。
だが。
その目だけは笑っていなかった。
何かに怯えていた。
何かから守ろうとしていた。
そんな目だった。
◇
紗雪は目を開いた。
涙が頬を伝っていた。
「思い出しました……」
震える声。
「神崎さん……ずっと私を守ってくれてた」
ぽろぽろと涙が落ちる。
「なのに私……忘れてた」
拳を握る。
「忘れちゃいけなかったのに」
黎司は何も言わない。
慰めの言葉では届かない。
今必要なのは事実だった。
有馬も黙っていた。
しばらくして。
黎司が資料を広げる。
「有馬」
「おう」
「施設事故の日付を出してくれ」
数枚の資料が並ぶ。
勤務記録。
施設見取り図。
事故報告書。
神崎の行動記録。
黎司は順番に確認する。
そして。
確信した。
「やはりそうだ」
「何がだ?」
「神崎は事故以前から何かを知っていた」
有馬が眉を寄せる。
「根拠は?」
「事故の一週間前から行動が変わっている」
資料を示す。
「特定区域への立ち入りが急増している」
「偶然じゃ?」
「偶然なら」
黎司の指が資料の空白部分を叩く。
「記録が消される理由がない」
有馬が息を呑んだ。
紗雪も顔を上げる。
神崎は知っていた。
事故を。
危険を。
そして――。
◇
図書館。
閉館十分前。
三人は最後の資料確認を続けていた。
「もう何も出ねぇだろ」
有馬が段ボールを漁りながらぼやく。
「全部確認しろ」
「鬼かお前」
「探偵だ」
「ブラック企業だろ」
紗雪が思わず笑う。
久しぶりだった。
自然に笑えたのは。
その時だった。
「……ん?」
有馬の手が止まる。
本の裏表紙。
破れた部分に紙片が挟まっていた。
「黎司」
受け取る。
古いメモだった。
黄ばんでいる。
だが筆跡は読めた。
神崎修司。
紗雪の呼吸が止まる。
黎司は静かに読み上げた。
『紗雪を守れ』
紗雪の目から再び涙が溢れた。
神崎は最後まで。
自分のことを気にかけていた。
さらに下を見る。
続きがあった。
『奴らに見つかる前に』
空気が凍った。
有馬が声を失う。
紗雪も動けない。
黎司だけが紙を見つめていた。
思考が加速する。
神崎は知っていた。
紗雪が狙われる可能性を。
事故の真相を。
そして。
自分自身の運命すら。
黎司はゆっくり呟いた。
「違う……」
有馬が顔を上げる。
「何がだ?」
黎司は震える文字を見つめた。
この筆跡は。
追い詰められた人間の筆跡だ。
警告。
遺言。
覚悟。
全てが混ざっている。
そして。
ひとつの結論へ辿り着く。
「神崎は」
静かな声だった。
「自分が殺される未来を知った上で、このメモを残したのかもしれない」
雨が窓を叩く。
誰も言葉を返せなかった。
神崎修司は被害者ではない。
真実を守ろうとしていた。
その可能性が。
今、現実になろうとしていた。
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