第9話『現れるはずのない証人』
懐中電灯の光が揺れている。
資料室の闇の中で、
黒いコートの女だけが異様に“浮いて”見えた。
有馬が声を荒げる。
「おい……出てこい! 何してんだ!」
だが女は動かない。
ただ久瀬黎司を見ている。
まるで最初から、
そこに立つ理由が“久瀬にしかない”みたいに。
白鐘雨音が小さく呟いた。
「……やっぱり」
久瀬は横目で彼女を見る。
「知ってるのか」
白鐘は答えない。
その代わり、
ゆっくりと前に出た。
「あなた……“残響”ですね」
その言葉に、
女の笑みがわずかに深くなる。
有馬が困惑する。
「残響? なんだそれ」
白鐘は目を離さずに言う。
「改変が繰り返された事件にだけ残る、“矛盾の痕跡”です」
久瀬の眉が動く。
「痕跡……?」
「完全に上書きできない情報があるんです」
白鐘は続ける。
「何度世界が変わっても、“そこにいたことになる存在”」
女が初めて口を開いた。
声は静かだった。
「久しぶりですね」
有馬が一歩引く。
「喋った……」
女は有馬を見ない。
久瀬だけを見ている。
「黎司くん」
その呼び方に、
久瀬の脳が反応する。
知らない。
だが。
どこかで聞いたことがある。
いや。
“知っているはずのない記憶”の奥で。
白鐘が鋭く言う。
「久瀬さん、その人に近づかないでください」
「理由は」
「それは“元の事件の中心”です」
空気が凍る。
有馬が叫ぶ。
「は? 元の事件って何だよ!」
白鐘は答えない。
ただ、
女を睨み続ける。
女はゆっくり一歩前に出た。
ヒールの音が、
静かな資料室に響く。
コツ。
コツ。
「あなたは覚えていない」
女は言う。
「でも私は覚えている」
久瀬の視界が揺れる。
頭痛。
まただ。
記憶の奥が、
何かを引きずり出してくる。
女の声が続く。
「あなたが最初に“推理”した日」
久瀬の息が止まる。
――推理?
白鐘が息を呑む。
「……やめて」
女は止まらない。
「あなたは言ったんです」
静かに。
淡々と。
「“この事件の犯人は、まだ世界に定義されていない”って」
その瞬間。
久瀬の頭の奥で、
何かが弾けた。
視界が一気に白くなる。
――暗い部屋。
――子供の声。
――泣き声。
――崩れた壁。
そして。
誰かの声。
『じゃあ、決めようか』
久瀬の膝が崩れかける。
「……違う」
掠れた声。
「そんなこと……言ってない」
だが。
女は静かに言う。
「言いましたよ」
その瞬間。
資料室の壁が、
ミシリと音を立てた。
有馬が叫ぶ。
「な、なんだこれ!」
壁の一部が“ズレる”。
そこにあったはずの窓が、
一瞬だけ消える。
次の瞬間には戻る。
白鐘が震える声で言った。
「ダメ……ここ、干渉されてる」
「干渉?」
「強い起点が出てる」
女が久瀬に近づく。
久瀬は動けない。
体が重い。
思考がまとまらない。
「あなたが始めたんです」
女は優しく言う。
「“推理で世界が変わる”なんて、気づいてしまったから」
久瀬の喉が鳴る。
「……俺は」
女は微笑む。
「最初の“変遷探偵”です」
その言葉が落ちた瞬間。
世界が一瞬、静止した。
音が消える。
雨も止む。
有馬の動きも固まる。
白鐘の呼吸だけが、
かすかに震えている。
そして。
久瀬だけが動ける。
いや。
“動けてしまう”。
女が静かに言った。
「あなたが推理した瞬間、世界は最初に壊れた」
久瀬の視界に、
別の映像が重なる。
――黒い部屋。
――机の上の事件資料。
――自分の声。
『犯人は、まだ決まっていない』
次の瞬間。
資料室の時間が再び動き出した。
有馬が叫ぶ。
「うわっ……今の何だ!?」
壁は元に戻っている。
時計も正常。
全てが“何も起きていない”状態。
だが。
そこにいた女だけが、
消えていた。
白鐘が呟く。
「……また、戻された」
有馬が混乱する。
「え? 何が?」
久瀬は答えない。
ただ、
手の震えだけが止まらなかった。
そして気づく。
さっきの女の言葉だけが、
頭から離れない。
『あなたが最初の変遷探偵です』
久瀬はゆっくりと目を閉じた。
雨音が、
再び世界に戻ってくる。




