第8話『変遷探偵』
「……変遷探偵」
久瀬黎司はその言葉を反芻した。
資料室の空気が重い。
古い紙の匂い。
蛍光灯の微かな駆動音。
雨音。
全部が妙に遠い。
白鐘雨音は、
床に散らばった資料を見ながら続けた。
「正式な呼び名じゃありません。ネットの都市伝説みたいなものです」
「都市伝説?」
「未解決事件を異常な精度で解決する探偵たちがいる。でもその周辺では、“犯人や証拠が変わる”って噂されてた」
有馬が苦笑する。
「いやいや……オカルトっすか?」
白鐘は答えない。
代わりに、
久瀬を見た。
「でも、あなたは見た」
沈黙。
久瀬は否定できなかった。
取調室で、
確かに世界は変わった。
女の記憶。
証拠。
ニュース。
人格。
全部。
「……俺だけじゃなかったのか」
白鐘が小さく頷く。
「多分」
「多分?」
「情報が少なすぎるんです」
白鐘は疲れたように息を吐いた。
「変遷探偵について調べてた人たち、みんな途中で消える」
久瀬の目が止まる。
「消える?」
「事故死。失踪。自殺。記録抹消」
白鐘の声は低かった。
「まるで、“知りすぎた人間”を世界が消してるみたいに」
有馬が苦笑いする。
「流石に陰謀論すぎません?」
その時だった。
――ピシッ。
資料室の壁時計に、
小さな亀裂が走った。
全員が顔を向ける。
秒針が止まっている。
午後一時十七分。
だが。
久瀬は違和感を覚えた。
「……今、深夜だよな?」
有馬が頷く。
「ええ」
なのに時計は昼を示している。
白鐘の顔色が変わった。
「まずい」
「何がだ」
「現実の整合性が崩れてる」
久瀬は眉をひそめる。
白鐘は早口になっていた。
「改変が重なりすぎると、世界が矛盾を起こすことがあるんです」
「……そんな話、どこで知った」
「昔、記録を読んだ」
白鐘は言う。
「大規模改変が起きた事件の」
その瞬間。
――ガガッ。
資料室の照明が激しく明滅した。
有馬が顔を上げる。
「停電?」
違う。
久瀬は直感する。
空気がおかしい。
音が歪んでいる。
まるで世界そのものが、
軋んでいるみたいに。
そして。
「……あれ?」
有馬の声。
彼は棚を見ていた。
「ファイル、減ってません?」
全員が振り向く。
古い事件ファイル棚。
そこにあったはずの資料が、
ごっそり消えている。
床にもない。
最初から存在しなかったみたいに。
白鐘が息を呑む。
「始まってる……」
「何が」
「整合処理」
久瀬の背筋に寒気が走る。
白鐘は震える声で言った。
「矛盾した情報を、世界が消し始めてるんです」
有馬が笑う。
「いや、誰か移動しただけじゃ――」
言葉が止まる。
棚のラベル。
そこに貼られていた事件名が、
途中から消えていた。
『練馬区一家――』
そこから先が、
黒く塗り潰されたみたいに読めない。
有馬の顔色が変わる。
「……なんだこれ」
久瀬はゆっくり近づいた。
指で触れる。
インクじゃない。
紙そのものが、
欠けている。
世界が、
矛盾を消している。
その時。
――ブツン。
照明が落ちた。
完全な暗闇。
有馬が舌打ちする。
「停電かよ……!」
白鐘が鋭く言う。
「動かないでください」
「は?」
「今、“ズレ”が起きてる」
暗闇の中。
久瀬は息を止めた。
聞こえる。
誰かの足音。
コツ。
コツ。
資料室の奥。
誰もいないはずの場所。
有馬も気づいたのか、
懐中電灯を向ける。
細い光が棚を照らす。
そして。
そこに、
女が立っていた。
黒いコート。
長い髪。
血の付いた赤いヒール。
十五年前の写真にいた、
あの女だった。
有馬が息を呑む。
「……誰だ、お前」
女は答えない。
ただ。
ゆっくりと。
久瀬を見た。
そして、
笑った。
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