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お前が犯人だ、その推理で世界が変わる -変遷探偵・久瀬黎司の記録-  作者: 未確定ログ
第1部 『犯人変遷篇』第3編『零和水族館』
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第78話『観測される白鐘』

――また救えなかったな。


 黒コート男の言葉が、耳の奥にこびりついていた。


 久瀬黎司は深海水槽の前で立ち尽くしていた。


 青黒い海。


 ゆっくり泳ぐ巨大なエイ。


 静かな館内。


 だが、その静けさが逆に不気味だった。


 隣では白鐘雨音がまだ久瀬の袖を掴んでいる。


 気付いているのかいないのか。


 指先に力が入っていた。


「白鐘」


「……はい」


「もう見えないか」


 白鐘は深海水槽を見つめた。


 数秒。


 首を横に振る。


「今は」


 その答えに、有馬が即座に反応した。


「今はって何だよ今はって」


「今は見えません」


「だからその含みのある言い方やめろ!」


「事実です」


「事実が一番怖いんだよ!」


 白鐘が少しだけ笑った。


 だがその笑みは長続きしない。


 急に視線が止まった。


 まるで何かを見つけたように。


「……あ」


 小さな声。


 顔色が変わる。


「どうした」


 久瀬が聞く。


 白鐘は通路の先を見ていた。


 売店の方向。


「います」


「何が」


「影が」


 久瀬も振り返る。


 有馬も見る。


 だが何もない。


 土産売り場には観光客が数人いるだけだった。


「どこだ」


「売店の前です」


 有馬が目を細める。


「ペンギン饅頭しか見えねえぞ」


「なんで分かるんですか」


「四個食ったからだ」


「増えてるじゃないですか」


「三個じゃ足りなかった」


「堂々と言うな」


 少しだけ空気が緩む。


 だが白鐘だけは笑えなかった。


 見えている。


 本当に。


 誰にも見えない何かが。


 久瀬は考えた。


 自分には見えない。


 有馬にも見えない。


 白鐘だけが見ている。


 ならば。


「近付こう」


「は?」


 有馬が素っ頓狂な声を出した。


「正気か?」


「確認が必要だ」


「ホラー映画で真っ先に死ぬやつの発想だぞ」


「死んだら反省する」


「だから反省できねえって!」


 有馬の悲鳴じみたツッコミに、白鐘が思わず吹き出した。


 その笑顔を見て、久瀬は少しだけ安心する。


 怖がっている。


 だが壊れてはいない。


「……行きます」


 白鐘が言った。


 久瀬は彼女を見る。


「無理しなくていい」


「無理はしてます」


 即答だった。


「でも」


 白鐘は前を向く。


「逃げても見えるんです」


 その言葉には重みがあった。


「なら、確かめたいです」


 怖い。


 それでも進む。


 その姿に、久瀬は黒コート男の言葉を思い出した。


 ――君まで巻き込まれたか。


 あの男は何を知っていた。


「分かった」


 久瀬は頷く。


「俺も行く」


 白鐘の表情が少しだけ和らいだ。


「はい」


 その返事は妙に嬉しそうだった。


「俺も行くしかないのか……」


 有馬が肩を落とす。


「残るか?」


「一人で残る方が怖いわ!」


 三人は売店へ向かった。


 ペンギン饅頭。


 イルカのストラップ。


 シャチのぬいぐるみ。


 どこにでもある土産コーナー。


 だが白鐘の目には違う景色が映っていた。


「あそこです」


 彼女が指差す。


 水槽前のベンチ。


「立っています」


 久瀬には見えない。


 有馬にも見えない。


 白鐘だけが見ている。


「どんな姿だ」


 白鐘は目を凝らした。


「……分かりません」


「分からない?」


「黒いんです」


 彼女は首を振る。


「人みたいなのに」


「人じゃない?」


「輪郭がぼやけてて……」


 言葉を探すように続ける。


「見てると頭が痛くなります」


 久瀬はメモ帳を取り出した。


「位置は変わるか」


「変わります」


「どこへ」


 白鐘は躊躇した。


 そして言う。


「私の方へ」


 空気が冷えた。


「近付いてきます」


 久瀬は何も見えない。


 だが白鐘の恐怖だけは本物だった。


「大丈夫だ」


 自然と言葉が出た。


「一人にはしない」


 白鐘が目を見開く。


 数秒。


 それから小さく頷いた。


「……ありがとうございます」


 その声はどこか柔らかかった。


「お前らさ」


 有馬が腕を組む。


「何だ」


「もう付き合ってるだろ」


「違います!」


 白鐘が即答した。


 顔が真っ赤になる。


「違うのか?」


「違います!」


「じゃあ何でそんな近いんだよ」


 白鐘はようやく自分が久瀬のすぐ隣に立っていることに気付いた。


 一歩離れる。


 だが。


 二秒後にはまた戻っていた。


「……」


「……」


「怖いんだから仕方ないじゃないですか」


 白鐘は顔を逸らした。


 有馬は大きなため息をついた。


「はいはい」


 その瞬間だった。


 白鐘の表情が凍り付く。


「……え」


 声が止まる。


「どうした」


 久瀬が聞く。


 返事がない。


 ただ前を見ている。


「今」


 唇が震える。


「笑いました」


 背筋が冷えた。


「影が?」


 白鐘は頷く。


「顔なんてないのに」


 かすれた声。


「笑ったって分かるんです」


 有馬も黙った。


 冗談ではない。


 本当に何かが起きている。


 久瀬はふと別のことを思い出した。


「白鐘」


「はい」


「さっき消えた人間」


 白鐘の瞳が揺れる。


「覚えてるか」


 沈黙。


 数秒後。


 白鐘は小さく頷いた。


「覚えています」


 久瀬の心臓が跳ねた。


「名前も?」


「顔も名前も」


「……本当に?」


「はい」


 有馬が叫ぶ。


「ちょっと待て!」


 三人の中で一番動揺していた。


「覚えてるのか!?」


「覚えてます」


「俺全然分からないんだけど!?」


「私も昨日までは分かりませんでした」


 昨日までは。


 その言葉が引っ掛かった。


 変化している。


 白鐘の中で何かが。


 黒コート男の言葉が脳裏をよぎる。


 ――君まで巻き込まれたか。


 まさか。


 本当に。


 白鐘も。


 その時だった。


「来ます」


 白鐘が呟く。


「何が」


「影が」


 彼女の顔から血の気が引いていく。


 一歩。


 また一歩。


 見えない何かが近付いてくる。


 白鐘の視線が追う。


「白鐘」


 久瀬が呼ぶ。


 返事がない。


 彼女は何かを見ていた。


 目の前の。


 誰にも見えない存在を。


 そして。


 ゆっくりと口を開く。


「今……」


 館内の音が遠ざかった気がした。


 有馬も息を呑む。


 白鐘は震える声で続けた。


「私の名前を」


 久瀬の鼓動が速くなる。


「呼びました」


 沈黙。


 白鐘の瞳が大きく見開かれる。


 まるで目の前で信じられないものを見たように。


 そして。


 誰にも聞こえなかった言葉を告げた。


「白鐘雨音」


 かすれた声で。


「やっと見つけた――って」


 その瞬間。


 白鐘の背後のガラスに、一瞬だけ黒い人影が映った気がした。

読んでいただきありがとうございます。

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