第78話『観測される白鐘』
――また救えなかったな。
黒コート男の言葉が、耳の奥にこびりついていた。
久瀬黎司は深海水槽の前で立ち尽くしていた。
青黒い海。
ゆっくり泳ぐ巨大なエイ。
静かな館内。
だが、その静けさが逆に不気味だった。
隣では白鐘雨音がまだ久瀬の袖を掴んでいる。
気付いているのかいないのか。
指先に力が入っていた。
「白鐘」
「……はい」
「もう見えないか」
白鐘は深海水槽を見つめた。
数秒。
首を横に振る。
「今は」
その答えに、有馬が即座に反応した。
「今はって何だよ今はって」
「今は見えません」
「だからその含みのある言い方やめろ!」
「事実です」
「事実が一番怖いんだよ!」
白鐘が少しだけ笑った。
だがその笑みは長続きしない。
急に視線が止まった。
まるで何かを見つけたように。
「……あ」
小さな声。
顔色が変わる。
「どうした」
久瀬が聞く。
白鐘は通路の先を見ていた。
売店の方向。
「います」
「何が」
「影が」
久瀬も振り返る。
有馬も見る。
だが何もない。
土産売り場には観光客が数人いるだけだった。
「どこだ」
「売店の前です」
有馬が目を細める。
「ペンギン饅頭しか見えねえぞ」
「なんで分かるんですか」
「四個食ったからだ」
「増えてるじゃないですか」
「三個じゃ足りなかった」
「堂々と言うな」
少しだけ空気が緩む。
だが白鐘だけは笑えなかった。
見えている。
本当に。
誰にも見えない何かが。
久瀬は考えた。
自分には見えない。
有馬にも見えない。
白鐘だけが見ている。
ならば。
「近付こう」
「は?」
有馬が素っ頓狂な声を出した。
「正気か?」
「確認が必要だ」
「ホラー映画で真っ先に死ぬやつの発想だぞ」
「死んだら反省する」
「だから反省できねえって!」
有馬の悲鳴じみたツッコミに、白鐘が思わず吹き出した。
その笑顔を見て、久瀬は少しだけ安心する。
怖がっている。
だが壊れてはいない。
「……行きます」
白鐘が言った。
久瀬は彼女を見る。
「無理しなくていい」
「無理はしてます」
即答だった。
「でも」
白鐘は前を向く。
「逃げても見えるんです」
その言葉には重みがあった。
「なら、確かめたいです」
怖い。
それでも進む。
その姿に、久瀬は黒コート男の言葉を思い出した。
――君まで巻き込まれたか。
あの男は何を知っていた。
「分かった」
久瀬は頷く。
「俺も行く」
白鐘の表情が少しだけ和らいだ。
「はい」
その返事は妙に嬉しそうだった。
「俺も行くしかないのか……」
有馬が肩を落とす。
「残るか?」
「一人で残る方が怖いわ!」
三人は売店へ向かった。
ペンギン饅頭。
イルカのストラップ。
シャチのぬいぐるみ。
どこにでもある土産コーナー。
だが白鐘の目には違う景色が映っていた。
「あそこです」
彼女が指差す。
水槽前のベンチ。
「立っています」
久瀬には見えない。
有馬にも見えない。
白鐘だけが見ている。
「どんな姿だ」
白鐘は目を凝らした。
「……分かりません」
「分からない?」
「黒いんです」
彼女は首を振る。
「人みたいなのに」
「人じゃない?」
「輪郭がぼやけてて……」
言葉を探すように続ける。
「見てると頭が痛くなります」
久瀬はメモ帳を取り出した。
「位置は変わるか」
「変わります」
「どこへ」
白鐘は躊躇した。
そして言う。
「私の方へ」
空気が冷えた。
「近付いてきます」
久瀬は何も見えない。
だが白鐘の恐怖だけは本物だった。
「大丈夫だ」
自然と言葉が出た。
「一人にはしない」
白鐘が目を見開く。
数秒。
それから小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
その声はどこか柔らかかった。
「お前らさ」
有馬が腕を組む。
「何だ」
「もう付き合ってるだろ」
「違います!」
白鐘が即答した。
顔が真っ赤になる。
「違うのか?」
「違います!」
「じゃあ何でそんな近いんだよ」
白鐘はようやく自分が久瀬のすぐ隣に立っていることに気付いた。
一歩離れる。
だが。
二秒後にはまた戻っていた。
「……」
「……」
「怖いんだから仕方ないじゃないですか」
白鐘は顔を逸らした。
有馬は大きなため息をついた。
「はいはい」
その瞬間だった。
白鐘の表情が凍り付く。
「……え」
声が止まる。
「どうした」
久瀬が聞く。
返事がない。
ただ前を見ている。
「今」
唇が震える。
「笑いました」
背筋が冷えた。
「影が?」
白鐘は頷く。
「顔なんてないのに」
かすれた声。
「笑ったって分かるんです」
有馬も黙った。
冗談ではない。
本当に何かが起きている。
久瀬はふと別のことを思い出した。
「白鐘」
「はい」
「さっき消えた人間」
白鐘の瞳が揺れる。
「覚えてるか」
沈黙。
数秒後。
白鐘は小さく頷いた。
「覚えています」
久瀬の心臓が跳ねた。
「名前も?」
「顔も名前も」
「……本当に?」
「はい」
有馬が叫ぶ。
「ちょっと待て!」
三人の中で一番動揺していた。
「覚えてるのか!?」
「覚えてます」
「俺全然分からないんだけど!?」
「私も昨日までは分かりませんでした」
昨日までは。
その言葉が引っ掛かった。
変化している。
白鐘の中で何かが。
黒コート男の言葉が脳裏をよぎる。
――君まで巻き込まれたか。
まさか。
本当に。
白鐘も。
その時だった。
「来ます」
白鐘が呟く。
「何が」
「影が」
彼女の顔から血の気が引いていく。
一歩。
また一歩。
見えない何かが近付いてくる。
白鐘の視線が追う。
「白鐘」
久瀬が呼ぶ。
返事がない。
彼女は何かを見ていた。
目の前の。
誰にも見えない存在を。
そして。
ゆっくりと口を開く。
「今……」
館内の音が遠ざかった気がした。
有馬も息を呑む。
白鐘は震える声で続けた。
「私の名前を」
久瀬の鼓動が速くなる。
「呼びました」
沈黙。
白鐘の瞳が大きく見開かれる。
まるで目の前で信じられないものを見たように。
そして。
誰にも聞こえなかった言葉を告げた。
「白鐘雨音」
かすれた声で。
「やっと見つけた――って」
その瞬間。
白鐘の背後のガラスに、一瞬だけ黒い人影が映った気がした。
読んでいただきありがとうございます。
感想・評価励みになります。




