表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
お前が犯人だ、その推理で世界が変わる -変遷探偵・久瀬黎司の記録-  作者: 未確定ログ
第1部 『犯人変遷篇』第3編『零和水族館』
PR
77/91

第77話『もう一人の観測者』

深海水槽の前で、久瀬黎司は足を止めた。


 巨大なエイが暗い海を滑るように泳いでいる。


 館内は静かだった。


 静かすぎた。


 まるで音そのものが深海に沈められているような感覚。


「……なあ」


 隣で有馬が首を傾げた。


「どうした」


「人数、合わなくないか?」


 またか。


 久瀬は眉をひそめる。


 もう何度目だろう。


 誰かが消える。


 記録が変わる。


 それなのに世界は何事もなかったように続いていく。


「今度は何人だ」


「さっき十一人だったよな?」


「ああ」


「今十人しかいない」


 白鐘も小さく手を挙げた。


「私もそう思います」


「ほらな!」


 有馬が勢いよく指を差す。


「俺だけじゃないだろ!」


「じゃあ誰がいない?」


 久瀬が尋ねる。


 有馬は口を開いた。


 しかし止まった。


「……あれ?」


 白鐘も固まる。


「誰でしたっけ」


 三人とも黙る。


 分からない。


 人数は減っている。


 だが減った人物だけが認識できない。


 世界が修正した。


 そう理解している。


 理解していても気味が悪い。


「ほんとに嫌な現象だな……」


 有馬が頭を掻いた。


「毎回毎回、答えだけ消される」


「まだ答えが残るだけましです」


 白鐘が呟く。


「そのうち質問まで消えるかもしれません」


「やめろ」


「冗談です」


「目が笑ってねえんだよ」


 少しだけ空気が緩んだ。


 その直後だった。


 久瀬の視界の端。


 深海水槽の暗闇。


 そこに何かがいた。


 魚ではない。


 人影。


 黒い影が、水槽の向こう側からこちらを見ている。


 瞬きをした。


 消えた。


「……」


 嫌な予感が走る。


 振り返った。


 通路の先。


 そこに男が立っていた。


 黒いコート。


 長身。


 無表情。


 見覚えがある。


 いや、そんなはずはない。


 会ったことなどない。


 なのに知っている気がした。


「誰だ?」


 有馬が警戒する。


 男はゆっくり歩いてきた。


 一歩。


 また一歩。


 足音だけが異様に大きく響く。


 周囲の客は誰も気にしていない。


 まるで最初からそこにいたように。


 男は久瀬の前で止まった。


 そして静かに笑った。


「久しぶりだな」


 久瀬の背筋が凍る。


「……誰だ」


「覚えていないのか」


 その声。


 その言い方。


 知らない。


 知らないはずだ。


 それなのに胸の奥がざわつく。


 どこかで聞いたことがある。


 そんな感覚だけが残る。


「おい」


 有馬が前へ出た。


「誰だよあんた」


 男は有馬を見ない。


 視線は最初から最後まで久瀬だけに向いていた。


「前回より早いな」


 空気が止まった。


「……前回?」


 久瀬が聞き返す。


 男は答えない。


 代わりに深海水槽を見上げた。


「今回はここか」


「何の話をしている」


「お前は本当に変わらないな」


「質問に答えろ」


「答えても思い出せない」


 男は苦笑した。


 どこか諦めたような笑みだった。


「毎回そうだ」


「毎回?」


「忘れる」


 久瀬の拳が僅かに握られる。


 嫌な言葉だった。


 まるで自分だけが知らない過去があるような。


「会ったことがあるのか」


「ある」


 即答だった。


「俺はない」


「そうだろうな」


 男は頷く。


「お前は忘れる側だ」


「何をだ」


「全部だ」


 その瞬間だった。


「……え?」


 白鐘が小さく声を漏らした。


 顔色が変わっている。


「白鐘?」


 久瀬が振り向く。


 彼女は男の後ろを見ていた。


 真っ青な顔で。


「そこ……」


 震える指先が何もない空間を指している。


「誰かいます」


 有馬が振り返る。


「どこだよ」


「そこです」


「誰もいねえぞ」


「います」


 白鐘の声は震えていた。


「黒い影が」


 男の表情が初めて変わった。


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ険しくなる。


「見えているのか」


 白鐘は頷いた。


「ずっといます」


 沈黙。


 男は小さく目を閉じた。


「早すぎる……」


「何がだ」


 久瀬が問い詰める。


 しかし男は答えない。


 代わりに白鐘を見た。


「君まで巻き込まれたか」


 その言葉に白鐘の肩が震えた。


 次の瞬間。


 彼女は無意識に久瀬の腕を掴んでいた。


 強く。


 離さないように。


 久瀬は少し驚く。


 白鐘が自分から触れてくることは珍しい。


「……大丈夫だ」


 自然とそう言っていた。


 本当は何も分からない。


 何も解決していない。


 それでも。


 怖がっている彼女を放っておけなかった。


 白鐘は小さく頷く。


 その手はまだ震えていた。


「いや待て」


 有馬が頭を抱える。


「ちょっと整理させろ」


「無理だろ」


 久瀬が即答する。


「無理だけど頑張るんだよ!」


 有馬は指を折り始めた。


「人数減りました」


「減ったな」


「知らない男が出ました」


「ああ」


「その男は久瀬を知ってます」


「らしい」


「白鐘だけ影が見えてます」


「そうだな」


「情報量多すぎるだろ!」


 白鐘が思わず吹き出した。


 久瀬も苦笑する。


 だが男だけは笑わない。


 深海水槽の暗闇を見つめている。


 まるで何かを警戒しているように。


「時間がない」


 男が呟いた。


「何の時間だ」


「もう始まっている」


「だから何がだ」


 男は久瀬を見る。


 真っ直ぐ。


 逃げ場を許さない目だった。


 そして静かに言った。


「また救えなかったな」


 心臓が止まりそうになった。


 また。


 その言葉。


 知らないはずなのに。


 胸が痛い。


 理由もなく。


 どうしようもなく。


「待て!」


 久瀬が叫ぶ。


 男は背を向けた。


「思い出せ」


 それだけ残して歩き出す。


「待て!」


 追いかけようとした。


 だがその瞬間。


 白鐘が息を呑んだ。


「久瀬さん」


 声が震えている。


「どうした」


 白鐘は深海水槽を指差した。


 青ざめた顔のまま。


「今……」


 その先を見る。


 暗い海。


 何もいない。


 そう思った。


 だが。


 一瞬だけ。


 巨大な黒い影が動いた気がした。


 魚ではない。


 人でもない。


 何か。


 それは深海の奥でゆっくり向きを変える。


 そして。


 白鐘だけを見た。


「……っ」


 白鐘が久瀬の腕を強く掴む。


「見ました」


 かすれた声。


「今、こっちを見ました」


 久瀬には見えなかった。


 何も。


 だが。


 背筋だけが凍りついている。


 男の言葉が頭から離れない。


 ――また救えなかったな。


 その意味を知らない。


 それなのに。


 なぜか、取り返しのつかない喪失感だけが胸に残っていた。

読んでいただきありがとうございます。

感想・評価励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ