第77話『もう一人の観測者』
深海水槽の前で、久瀬黎司は足を止めた。
巨大なエイが暗い海を滑るように泳いでいる。
館内は静かだった。
静かすぎた。
まるで音そのものが深海に沈められているような感覚。
「……なあ」
隣で有馬が首を傾げた。
「どうした」
「人数、合わなくないか?」
またか。
久瀬は眉をひそめる。
もう何度目だろう。
誰かが消える。
記録が変わる。
それなのに世界は何事もなかったように続いていく。
「今度は何人だ」
「さっき十一人だったよな?」
「ああ」
「今十人しかいない」
白鐘も小さく手を挙げた。
「私もそう思います」
「ほらな!」
有馬が勢いよく指を差す。
「俺だけじゃないだろ!」
「じゃあ誰がいない?」
久瀬が尋ねる。
有馬は口を開いた。
しかし止まった。
「……あれ?」
白鐘も固まる。
「誰でしたっけ」
三人とも黙る。
分からない。
人数は減っている。
だが減った人物だけが認識できない。
世界が修正した。
そう理解している。
理解していても気味が悪い。
「ほんとに嫌な現象だな……」
有馬が頭を掻いた。
「毎回毎回、答えだけ消される」
「まだ答えが残るだけましです」
白鐘が呟く。
「そのうち質問まで消えるかもしれません」
「やめろ」
「冗談です」
「目が笑ってねえんだよ」
少しだけ空気が緩んだ。
その直後だった。
久瀬の視界の端。
深海水槽の暗闇。
そこに何かがいた。
魚ではない。
人影。
黒い影が、水槽の向こう側からこちらを見ている。
瞬きをした。
消えた。
「……」
嫌な予感が走る。
振り返った。
通路の先。
そこに男が立っていた。
黒いコート。
長身。
無表情。
見覚えがある。
いや、そんなはずはない。
会ったことなどない。
なのに知っている気がした。
「誰だ?」
有馬が警戒する。
男はゆっくり歩いてきた。
一歩。
また一歩。
足音だけが異様に大きく響く。
周囲の客は誰も気にしていない。
まるで最初からそこにいたように。
男は久瀬の前で止まった。
そして静かに笑った。
「久しぶりだな」
久瀬の背筋が凍る。
「……誰だ」
「覚えていないのか」
その声。
その言い方。
知らない。
知らないはずだ。
それなのに胸の奥がざわつく。
どこかで聞いたことがある。
そんな感覚だけが残る。
「おい」
有馬が前へ出た。
「誰だよあんた」
男は有馬を見ない。
視線は最初から最後まで久瀬だけに向いていた。
「前回より早いな」
空気が止まった。
「……前回?」
久瀬が聞き返す。
男は答えない。
代わりに深海水槽を見上げた。
「今回はここか」
「何の話をしている」
「お前は本当に変わらないな」
「質問に答えろ」
「答えても思い出せない」
男は苦笑した。
どこか諦めたような笑みだった。
「毎回そうだ」
「毎回?」
「忘れる」
久瀬の拳が僅かに握られる。
嫌な言葉だった。
まるで自分だけが知らない過去があるような。
「会ったことがあるのか」
「ある」
即答だった。
「俺はない」
「そうだろうな」
男は頷く。
「お前は忘れる側だ」
「何をだ」
「全部だ」
その瞬間だった。
「……え?」
白鐘が小さく声を漏らした。
顔色が変わっている。
「白鐘?」
久瀬が振り向く。
彼女は男の後ろを見ていた。
真っ青な顔で。
「そこ……」
震える指先が何もない空間を指している。
「誰かいます」
有馬が振り返る。
「どこだよ」
「そこです」
「誰もいねえぞ」
「います」
白鐘の声は震えていた。
「黒い影が」
男の表情が初めて変わった。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ険しくなる。
「見えているのか」
白鐘は頷いた。
「ずっといます」
沈黙。
男は小さく目を閉じた。
「早すぎる……」
「何がだ」
久瀬が問い詰める。
しかし男は答えない。
代わりに白鐘を見た。
「君まで巻き込まれたか」
その言葉に白鐘の肩が震えた。
次の瞬間。
彼女は無意識に久瀬の腕を掴んでいた。
強く。
離さないように。
久瀬は少し驚く。
白鐘が自分から触れてくることは珍しい。
「……大丈夫だ」
自然とそう言っていた。
本当は何も分からない。
何も解決していない。
それでも。
怖がっている彼女を放っておけなかった。
白鐘は小さく頷く。
その手はまだ震えていた。
「いや待て」
有馬が頭を抱える。
「ちょっと整理させろ」
「無理だろ」
久瀬が即答する。
「無理だけど頑張るんだよ!」
有馬は指を折り始めた。
「人数減りました」
「減ったな」
「知らない男が出ました」
「ああ」
「その男は久瀬を知ってます」
「らしい」
「白鐘だけ影が見えてます」
「そうだな」
「情報量多すぎるだろ!」
白鐘が思わず吹き出した。
久瀬も苦笑する。
だが男だけは笑わない。
深海水槽の暗闇を見つめている。
まるで何かを警戒しているように。
「時間がない」
男が呟いた。
「何の時間だ」
「もう始まっている」
「だから何がだ」
男は久瀬を見る。
真っ直ぐ。
逃げ場を許さない目だった。
そして静かに言った。
「また救えなかったな」
心臓が止まりそうになった。
また。
その言葉。
知らないはずなのに。
胸が痛い。
理由もなく。
どうしようもなく。
「待て!」
久瀬が叫ぶ。
男は背を向けた。
「思い出せ」
それだけ残して歩き出す。
「待て!」
追いかけようとした。
だがその瞬間。
白鐘が息を呑んだ。
「久瀬さん」
声が震えている。
「どうした」
白鐘は深海水槽を指差した。
青ざめた顔のまま。
「今……」
その先を見る。
暗い海。
何もいない。
そう思った。
だが。
一瞬だけ。
巨大な黒い影が動いた気がした。
魚ではない。
人でもない。
何か。
それは深海の奥でゆっくり向きを変える。
そして。
白鐘だけを見た。
「……っ」
白鐘が久瀬の腕を強く掴む。
「見ました」
かすれた声。
「今、こっちを見ました」
久瀬には見えなかった。
何も。
だが。
背筋だけが凍りついている。
男の言葉が頭から離れない。
――また救えなかったな。
その意味を知らない。
それなのに。
なぜか、取り返しのつかない喪失感だけが胸に残っていた。
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