第73話『第一観測』
死体の顔が固定され始める。
輪郭の揺らぎが止まる。
曖昧だった特徴が定着する。
胸元の名札も少しずつ形を持ち始めた。
だが。
まだ読めない。
まるで現実そのものが迷っているようだった。
館内放送が流れる。
『第一観測を記録』
『被害者候補A』
『館員』
沈黙。
有馬が舌打ちする。
「館員なんて見た覚えねぇぞ」
若い女性が反論する。
「受付にいた人じゃないですか?」
老夫婦も頷く。
「いたような気がする」
有馬は顔をしかめる。
「気がする、ばっかりだな」
誰も返せない。
久瀬は死体を見ていた。
館員。
その仮説は危険だ。
なぜなら。
すでに現実が寄り始めている。
白鐘が死体のポケットを調べる。
職員証。
鍵束。
館内地図。
どれも館員らしい。
だが。
さっきまではなかった。
白鐘が低く言う。
「増えてます」
有馬が振り向く。
「何が」
「持ち物です」
沈黙。
全員が気づく。
職員証はなかった。
鍵束もなかった。
だが今はある。
現実が補強されている。
久瀬は静かに言う。
「観測が証拠を生んでいる」
誰も否定できない。
その時。
館内放送が再び流れた。
『第二観測を募集します』
空気が凍る。
有馬が叫ぶ。
「募集って何だよ!」
放送は無視する。
『被害者の特定を進めてください』
『観測が不足しています』
白鐘の顔色が変わる。
「不足……」
その単語。
第68話で見た。
不足一名。
今度は。
不足観測。
久瀬は理解する。
この事件は推理を要求している。
考察を。
仮説を。
認識を。
そして。
それを与えるほど現実が固定される。
若い女性参加者が恐る恐る言う。
「館員じゃないかもしれません」
全員が振り向く。
「どういう意味ですか」
女性は死体を見る。
「この人」
「招待客だった気がする」
沈黙。
その瞬間。
死体が揺れた。
全員が息を呑む。
職員証の文字が滲む。
鍵束が消えかける。
代わりに。
胸ポケットから招待状が覗いた。
有馬が後退る。
「おい……」
館内放送が反応する。
『第二候補を確認』
『被害者候補B』
『参加者』
死体の顔が変わる。
今度は少し若く見える。
三十代。
館員には見えない。
だが。
参加者には見える。
白鐘が唇を噛む。
「変わった」
有馬も見ている。
確実に。
変わった。
その時だった。
老夫婦の夫が言った。
「違う」
全員が振り向く。
老人は震える声で続ける。
「この人は」
「最初から死んでいた」
沈黙。
館内の空気が止まる。
白鐘が顔を上げる。
「何を言ってるんですか」
老人は額を押さえる。
苦しそうだった。
「思い出した」
「入口で見た」
「水槽の中にいた」
誰も理解できない。
だが。
老人だけは本気だった。
館内放送が流れる。
今度は少し速い。
『第三候補を確認』
『被害者候補C』
沈黙。
そして。
死体の顔が完全に崩れた。
職員証も。
招待状も。
すべて消える。
代わりに。
濡れていた。
まるで。
最初から水槽の中にいたように。
白鐘が息を呑む。
「そんな……」
有馬が後退る。
「なんだよこれ」
館内放送が告げる。
『観測回数三回』
『確定処理へ移行します』
その瞬間。
久瀬の脳裏に。
黒いコートの男の言葉が蘇る。
「三回だ」
沈黙。
三回。
仮説は三回。
そして。
その後に確定する。
久瀬は初めて理解する。
この事件のルールを。
被害者は最初から存在しない。
観測によって候補が生まれる。
三回観測される。
そして。
世界が最も整合的な死を選ぶ。
館内放送が静かに告げた。
『被害者を確定します』
全員が息を止める。
その瞬間。
死体がゆっくり目を開いた。
読んでいただきありがとうございます。
感想・評価励みになります。




