第72話『存在しない被害者』
死体はそこにあった。
誰が見ても明らかな死体。
スーツ姿の男性。
四十代前後。
目を見開いたまま絶命している。
それなのに。
館内放送は告げた。
『被害者は存在しません』
有馬が怒鳴る。
「目の前にいるだろうが!」
声が館内に響く。
だが放送は反応しない。
白鐘雨音は死体を見つめていた。
違和感。
強烈な違和感。
「久瀬さん」
「なんだ」
「この人」
白鐘は言葉を探す。
「顔が変わってませんか」
沈黙。
有馬が振り向く。
「は?」
久瀬は死体を見る。
そして。
息を止めた。
変わっている。
さっきまで四十代に見えていた。
今は三十代に見える。
髪型も違う。
輪郭も違う。
まるで。
見るたびに別人になっている。
有馬も気づいた。
「おい……」
白鐘の声が震える。
「固定されてない」
久瀬は静かに理解する。
被害者が存在しない。
その意味が。
この死体には。
まだ誰の死体かが割り当てられていない。
その時だった。
館内放送が流れる。
『事件説明を開始します』
全員が顔を上げる。
『被害者未確定』
『犯人未確定』
『事件未確定』
沈黙。
誰も理解できない。
放送は続く。
『観測により確定します』
その言葉に。
久瀬の表情が変わる。
白鐘も気づく。
観測。
まただ。
第1編では推理が犯人を変えた。
第2編では役割が人間を消した。
そして第3編。
観測が被害者を作る。
有馬が吐き捨てる。
「ふざけんな」
その時。
中年男性参加者が言った。
「待ってください」
全員が振り向く。
男は死体を指差していた。
「この人」
「館員じゃありませんか?」
沈黙。
若い女性が頷く。
「そうかも」
老夫婦も顔を見合わせる。
「そんな気がする」
空気が変わる。
久瀬は気づく。
危険だ。
今。
全員が一つの認識に寄り始めている。
そして。
死体の顔が変化した。
スーツが制服に見える。
胸元に職員証のようなものが見える。
有馬が息を呑む。
「おい」
白鐘の顔色が変わる。
今まではなかった。
だが。
確かにある。
まるで。
現実の方が認識に合わせて修正されたように。
館内放送が告げる。
『仮説を確認』
沈黙。
『被害者候補A』
『館員』
その瞬間。
死体の胸ポケットに名札が現れた。
全員が凍る。
さっきまで存在しなかった。
それなのに。
今はある。
名前が書かれている。
だが。
読めない。
文字が揺れている。
定まらない。
久瀬は理解した。
推理が進むほど。
現実が変わる。
そして。
被害者が確定した瞬間。
犯人も生まれる。
有馬が一歩後退る。
「じゃあ」
声が震える。
「俺たちが考えるから」
誰も続きを言えない。
だが全員分かっている。
考えるから。
世界が決まる。
その時。
深海展示のガラス越し。
黒いコートの男がまた現れる。
今度は久瀬だけに見えた。
男は笑う。
そして。
ゆっくりと指を一本立てる。
一。
次に。
二。
そして。
三。
久瀬の瞳が細くなる。
カウントダウンだ。
何かの。
男は最後に口を動かした。
「三回だ」
その意味を考える間もなく。
館内放送が響く。
『第一観測を受理しました』
『被害者候補Aを登録』
沈黙。
死体の顔が。
ゆっくりと固定され始める。
そして久瀬は悟る。
この事件の本当の恐怖は殺人ではない。
犯人探しでもない。
誰が死んだことになるのか。
それを決めるたびに。
世界が書き換わる。
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