第71話『最初の死体』
悲鳴は一度だけだった。
短く。
喉を裂くような悲鳴。
そして静寂。
完全な暗闇の中で、有馬が叫ぶ。
「おい!」
返事はない。
白鐘の声が聞こえる。
「久瀬さん!」
「いる」
「有馬さんは」
「ここだ!」
少し離れた場所から声が返る。
全員無事。
少なくとも今は。
その時。
非常灯が点灯した。
赤い光。
館内が薄暗く照らされる。
巨大水槽の青と。
非常灯の赤。
異様な色彩だった。
有馬が辺りを見回す。
「今の悲鳴……」
そこで止まる。
全員が同じ方向を見ていた。
深海展示へ続く通路。
その途中。
何かが倒れている。
人間だ。
白鐘の顔色が変わる。
「まさか……」
久瀬は無言で歩き出す。
有馬と白鐘が続く。
近づく。
一歩。
また一歩。
そして。
倒れている人物が見えた。
スーツ姿の男だった。
参加者の一人。
四十代くらい。
名前は知らない。
だが確かにいた。
さっきまで。
有馬が息を呑む。
「死んでる……」
男は仰向けだった。
目を見開いている。
顔には強烈な恐怖が刻まれていた。
だが。
外傷がない。
血もない。
首も絞められていない。
毒の痕跡も見当たらない。
ただ。
死んでいる。
久瀬がしゃがみ込む。
脈はない。
体温も急速に失われている。
白鐘が震える声で言う。
「どうして……」
有馬が周囲を見る。
「誰かいたのか!?」
返事はない。
参加者たちも混乱していた。
老夫婦。
若い女性。
中年男性。
全員が怯えている。
その時だった。
館内放送が流れる。
『人数確認を行います』
全員が凍る。
有馬が怒鳴る。
「ふざけんな!」
だが放送は続く。
『現在の参加者は七名です』
沈黙。
白鐘の顔が強張る。
死体が一体ある。
生存者が七人。
なら。
合計八人。
だが。
放送は七人と言った。
有馬も気づく。
「おかしい」
久瀬は死体を見る。
違和感。
決定的な違和感。
死体があるのに。
人数に含まれていない。
いや。
もっと根本的なことだ。
白鐘が呟く。
「この人……」
久瀬が振り向く。
白鐘は男の顔を見つめている。
「誰でしたっけ」
沈黙。
有馬も固まる。
思い出せない。
確かに参加者だった。
だが。
名前が出てこない。
職業も。
経歴も。
どこで会ったのかも。
何もない。
死体だけがある。
存在の情報が消えている。
久瀬の背筋に冷たいものが走る。
第2編では消えたら痕跡も消えた。
だが今回は違う。
死体だけが残っている。
その時。
死体の胸元から紙が落ちた。
ひらり。
白鐘が拾う。
折り畳まれたメモだった。
そこには震える文字でこう書かれている。
「数えた」
沈黙。
その下にはさらに続きがあった。
「だから見つかった」
有馬が顔をしかめる。
「何だよこれ」
久瀬はメモを受け取る。
裏返す。
そこにはもう一行。
短い文。
だが。
全員の血の気を引かせるには十分だった。
「次は観測者」
館内放送が流れる。
『死体を確認しました』
初めてだった。
放送が死体を認識した。
『事件を開始します』
白鐘が息を呑む。
有馬が振り向く。
「事件……?」
放送は続く。
『参加者の皆様へ』
『犯人を見つけてください』
沈黙。
久瀬の瞳が細くなる。
今までの異常とは違う。
これは。
完全に。
ミステリーの形式だ。
だが。
一つだけ決定的におかしい。
犯人を探す事件なのに。
死体の正体が分からない。
被害者が誰なのかすら確定していない。
館内放送が最後に告げる。
『被害者は存在しません』
沈黙。
全員が凍りつく。
死体は目の前にある。
それなのに。
放送は言った。
被害者は存在しません。
その瞬間。
久瀬は理解した。
この事件は普通の殺人事件ではない。
「誰が殺したか」
ではなく。
「誰が死んだことになるか」
を巡る事件だ。
そして。
深海展示の奥。
ガラスの向こう。
あの黒いコートの男が再び立っていた。
彼は静かに笑う。
そして口だけを動かした。
声は聞こえない。
だが久瀬には読めた。
「ようやく始まったな」
読んでいただきありがとうございます。
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