第68話『七人目』
巨大水槽のガラスに浮かんだ数字。
8
そして。
7
館内から音が消えた。
誰も動かない。
誰も呼吸をしていないように見える。
白鐘雨音が最初に声を出した。
「今……」
掠れた声だった。
「数字が変わりました」
有馬が首を振る。
「見間違いだ」
だが。
その否定には力がなかった。
有馬自身も見ている。
確かに見た。
巨大水槽のガラスに浮かぶ数字を。
大学生の男が後ずさる。
「ふざけるなよ……」
顔が真っ青だった。
「なんなんだよここ」
誰も答えない。
答えられない。
その時。
館内放送が流れる。
『人数確認を行います』
静かな女性の声。
感情のない声。
『現在の参加者は七名です』
沈黙。
有馬が叫ぶ。
「まだ八人いるだろ!」
その瞬間だった。
大学生の男の表情が固まる。
全員が振り向く。
彼は何かを思い出そうとしていた。
必死に。
だが。
できない。
「俺……」
声が震える。
「誰を忘れたんだ?」
沈黙。
「誰が消えた?」
答えられない。
そして。
久瀬は見た。
男の輪郭が。
わずかに揺れた。
白鐘も気づく。
「久瀬さん」
久瀬は頷く。
有馬だけがまだ理解できていない。
大学生の男は続ける。
「さっきから変なんだ」
「自分の記憶が……」
言葉が途切れる。
輪郭が薄くなる。
まるで存在そのものが不安定になっているように。
若い女性参加者が悲鳴を上げる。
「顔!」
全員が見る。
大学生の男の顔が。
ぼやけている。
写真のピントがずれるように。
輪郭だけが揺らいでいる。
有馬が息を呑む。
「おい……」
大学生の男は自分の手を見る。
「なんだよ」
「なんだよこれ」
恐怖。
混乱。
理解不能。
白鐘が小さく言う。
「違う」
有馬が振り向く。
「何がだ」
白鐘は震える声で答えた。
「消えるんじゃない」
沈黙。
「最初から存在できなくなってる」
久瀬の視線が鋭くなる。
その表現は正しい。
第2編では消失だった。
だが今回は違う。
現実の方が先に修正される。
だから。
存在が消えるのではない。
存在できなくなる。
館内放送が続く。
『認識不良を確認』
『対象を修正します』
大学生の男が顔を上げる。
「対象?」
その瞬間。
照明が落ちた。
完全な暗闇。
誰かが叫ぶ。
誰かが息を呑む。
数秒。
いや。
体感ではもっと長かった。
そして。
照明が戻る。
静寂。
有馬が周囲を見る。
白鐘。
久瀬。
老夫婦。
若い女性。
スーツ姿の男。
中年男性。
七人。
沈黙。
有馬の顔色が変わる。
「……どこだ」
誰も答えない。
大学生の男がいない。
だが。
もっと恐ろしいことに。
誰も彼の名前を知らない。
白鐘が額を押さえる。
「思い出せない」
有馬が震える。
「俺、さっきまで話してたよな」
久瀬は静かだった。
彼だけが覚えている。
大学生の男がいたことを。
だが。
名前は思い出せない。
顔も曖昧になっている。
記憶そのものが侵食されている。
その時。
巨大水槽の向こう側。
深海展示の闇の中。
また人影が現れる。
今度は五人。
全員こちらを見ている。
動かない。
ただ見ている。
まるで。
参加者の減少を待っているように。
白鐘が呟く。
「久瀬さん」
「なんだ」
「もし最後まで減ったら」
沈黙。
久瀬は答えない。
答えは分かっている。
だからこそ言えない。
館内放送が最後に告げた。
『観測は正常に進行しています』
『次の確認を開始します』
そして。
巨大水槽のガラスに。
新しい数字が浮かび上がる。
7
その数字の下に。
初めて文字が現れた。
――不足1名
久瀬の瞳が細くなる。
七人なのに。
不足一名。
つまり。
この空間はまだ。
八人を前提にしている。
誰かが消えたのではない。
まだ消える予定の誰かがいる。
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