第39話『覚えている異常者』
資料室の空気が、明らかに変わっていた。
白鐘雨音は久瀬黎司を見て、言葉を選ぶように口を開く。
「久瀬さん……少し、いいですか」
久瀬は視線だけを向ける。
「何だ」
白鐘は一瞬ためらってから続ける。
「あなた、ずっと“いない人”の話をしてます」
沈黙。
有馬がすぐに反応する。
「は? 何それ」
白鐘は続ける。
「共犯者Aとか、証拠の写真とか……」
「でも私たち、そんな人物見た記憶がありません」
有馬がうなずく。
「そうだな」
久瀬は黙っている。
白鐘は一歩踏み込む。
「なのに久瀬さんだけが、全部“ある前提”で話している」
沈黙。
空気が一段冷える。
有馬が眉をひそめる。
「お前さ、それマジで大丈夫か?」
久瀬は静かに答える。
「何がだ」
白鐘は目を逸らさずに言う。
「あなたのほうが、間違っている可能性です」
その言葉で空気が止まる。
有馬が小さく息を吐く。
「言っちゃったなそれ」
白鐘は続ける。
「私たちの記録にも、証言にも、その人たちはいません」
「でも久瀬さんだけが“覚えている”」
久瀬は少しだけ目を細める。
「それが異常だと言いたいのか」
白鐘は即答しない。
だが、静かに頷く。
沈黙。
有馬が呟く。
「正直、俺もちょっとおかしいと思ってた」
久瀬は有馬を見る。
有馬は肩をすくめる。
「だってよ、誰も知らねぇ話をずっとされてんだぜ?」
白鐘が小さく言う。
「でも久瀬さんは“確信”しているように見えます」
久瀬は答えない。
その沈黙が、逆に重い。
白鐘は続ける。
「その確信って……どこから来てるんですか」
久瀬はゆっくりと資料室を見渡す。
消えた証拠。
欠けた記録。
曖昧になる写真。
そして言う。
「記録だ」
白鐘が首を振る。
「でも記録は消えてます」
久瀬は静かに言う。
「俺の中には残っている」
その一言で空気が変わる。
有馬が小さく笑う。
「それさ、逆に怖いんだよ」
白鐘も視線を落とす。
「……もし、それが全部“思い込み”だったら?」
沈黙。
久瀬は即答しない。
だが、否定もしない。
その代わりに言う。
「それでも構わない」
白鐘が顔を上げる。
「構わないって……」
久瀬は静かに続ける。
「この事件は、誰が正しいかでは成立しない」
「何が残るかで決まる」
その瞬間、ホワイトボードの文字が一瞬だけ揺れる。
有馬が目を見開く。
「また動いた!」
白鐘も見える。
だが今度は、何も残らない。
“揺れた痕跡だけ”が残る。
白鐘が呟く。
「……今のも、私たちで見え方違いましたよね」
有馬は黙る。
久瀬は静かに確信する。
この事件はまだ壊れていない。
だがすでに――
「“覚えている者”が異常として扱われ始めている」
読んでいただきありがとうございます。
感想・評価励みになります。




