第20話『存在する条件』
資料室の空気は、これまでで一番“軽く”なっていた。
軽いのに、息がしづらい。
そんな矛盾した感覚だけが残っている。
白鐘雨音は、白板を見ていた。
そこには事件の整理図がある。
だが、中心がない。
「久瀬さん……これ」
有馬が覗き込む。
「なんか図の真ん中空いてね?」
白鐘は頷く。
「“犯人の位置”がありません」
有馬が呆れる。
「いやそれはまだ決まってないだけだろ」
白鐘は首を振る。
「違います」
「“存在するはずの場所ごと消えてます”」
沈黙。
久瀬が静かに近づく。
白板を見る。
確かにそこには“中心がない構造”がある。
普通の事件図なら、必ず存在する一点。
それが、ない。
久瀬は言う。
「犯人がいない構造ではない」
白鐘が顔を上げる。
「じゃあ……何なんですか」
久瀬は続ける。
「犯人が“まだ成立していない構造”だ」
有馬が眉をひそめる。
「成立してないってどういう意味だよ」
久瀬は答える。
「条件が揃っていない」
白鐘が小さく呟く。
「条件……」
久瀬は資料を指す。
「犯人とは本来、“観測によって確定する存在”だ」
「だがこの事件は違う」
有馬が嫌そうに言う。
「またその話かよ」
久瀬は無視して続ける。
「観測しても確定しない」
「観測の結果が、次の観測に影響する」
白鐘の顔が強張る。
「じゃあ……どうすれば確定するんですか」
久瀬は少し間を置く。
そして言う。
「一つだけ方法がある」
空気が止まる。
有馬が聞き返す。
「何だよそれ」
久瀬は静かに答える。
「観測者を減らす」
沈黙。
白鐘が息を呑む。
「減らす……?」
有馬が即座に反応する。
「それつまり、見てる人いなくすればいいってこと?」
久瀬は否定しない。
その代わり静かに言う。
「そうすれば、ひとつに収束する可能性がある」
白鐘が震える声で言う。
「でもそれって……」
久瀬は遮るように言う。
「現実は成立するために“観測者”を必要としない」
「ただし“複数いると揺れる”」
有馬が頭をかく。
「いやもう哲学じゃん」
久瀬は窓を見る。
雨は変わらない。
だがその雨の粒が、数えようとするたびに増えたり減ったりする。
白鐘が小さく言う。
「じゃあ今の状態って……」
久瀬は答える。
「複数の現実が同時に重なっている」
その瞬間、資料室の時計が一瞬だけ止まる。
すぐに動き出す。
だが針の位置が、わずかにズレている。
有馬が叫ぶ。
「今のズレただろ!」
白鐘は答えない。
見えていたからだ。
久瀬は静かに確信する。
この事件はまだ壊れていない。
だがすでに――
「犯人が存在するための“条件そのもの”が揺れている」。
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