第9話 出会い
季節は三月。
小林家に桜子が来てから、早くも八ヶ月が経っていた。
初めての子育てに浩司と楓子は最初こそ右往左往したものの、絹江の経験豊かなサポートのおかげで、総じて順調だった。
桜子の誕生日は五月一日だ。
保護された子供たちは正確な出生日がわからない場合、任意で誕生日を決められる。桜子の場合は病院に保護された日がそのまま誕生日になった。だから現在は生後十ヶ月を少し過ぎたところだ。
この八ヶ月を振り返ると——なかなかにワイルドな乳児だった。
生後七ヶ月でズリ這いを開始。その腕力はほぼ匍匐前進の域で、まるでお掃除ロボットのごとく床の埃を集めながら突進していった。
八ヶ月でハイハイに移行すると、その速度はさらに増した。猪突猛進という言葉がこれほど似合う赤ん坊もそうはいないだろう。
和室の襖には彼女の頭突きによる大きな穴が今も残っている。浩司は「修繕する気が失せた」と言っていた。
そして十ヶ月。つかまり立ちに成功——したと思ったら後頭部から盛大に倒れ、救急病院のお世話になった。幸い大事には至らず、その後もケロッとした顔で壁に突進し続けている。
元気すぎるくらい、元気だった。
◇
晴れた暖かな昼下がり、楓子は桜子をカートに乗せて近所のスーパーへ出かけた。
白人の特徴を持つ桜子には、どこへ行っても視線が集まる。楓子と二人でいると外国人とのハーフだと思われるらしく、向けられる目はたいてい好意的だった。
通りすがりの女子高生が「きゃー可愛い!」と騒ぎ、遠くから子供が指を差す。そんな光景はもう見慣れたものだ。
親の贔屓目を抜きにしても、桜子は飛び抜けて可愛らしい。
いつも冷静な楓子でさえそう思うのだから、父親の浩司が溺愛するのは無理もない。
もっとも浩司の可愛がり方は周囲から「やや過剰」と思われているらしく、商店街のお母さんたちの間では「小林さん、また桜子ちゃんに鼻の下伸ばしてる」と密かに言われているのだが、本人はまったく気づいていなかった。
総菜売り場に差しかかったところで、カートの中の桜子がじたばたし始めた。床に降りたいらしい。楓子はため息をひとつついてから桜子を地面に立たせ、ワゴンの端を掴ませた。
桜子がよちよちと歩き始める。
その様子を微笑ましく眺めていると——反対方向から、同じようによちよちと歩いてくる男の子の姿が見えた。月齢は桜子と同じくらいだろうか。このまま進めば、二人は通路の真ん中あたりで出会うはずだ。
さて、どんな反応を見せるか——楓子が見守っていると。
二人が至近距離で向き合った。じっと見つめ合って、止まる。
数秒の沈黙。
パシンッ!
「……え」
桜子が男の子の横顔をビンタした。
楓子が言葉を失った次の瞬間、男の子が即座に桜子の横顔を叩き返した。そのまま二人同時に尻もちをついて、声を揃えて泣き始める。
楓子が慌てて駆け寄ると、横からもう一人の女性が飛び込んできた。男の子の母親らしい。
「ごめんね、痛かったね」
「あちゃー、ごめんねぇ」
二人の母親が子供をなだめながら顔を見合わせた。そして——なぜかほぼ同時に、吹き出した。
「うちの子が先に手を出しました、本当にすみません」
「いえいえ、お互い様ですよ。うちも女の子に手を上げたんですから」
「でも、まさかいきなり叩くなんて……」
「本当にお互い様ですから、気にしないでください」
子供たちの小さな衝突は、こうして新たな出会いのきっかけになった。
◇
会計を終えて出口へ向かうと、先ほどの親子と再び顔が合った。男の子の母親が近づいてくる。
「さっきは本当に申し訳なかったです」
「いえ、こちらこそ。——ところで、本当に可愛らしいお嬢さんですね。まるでお人形さんみたい。ご主人は外国の方ですか?」
楓子が少し答えを探していると、相手がすぐに察して慌てた。
「すみません、余計なことを……!」
「大丈夫ですよ、よく訊かれますから」
楓子が柔らかく笑うと、女性は少しほっとした顔になった。
「私、木村幸と言います。この子は健斗、去年の四月生まれです」
「小林楓子です。こちらは桜子。五月生まれなので健斗くんと同じ学年になりますね。お家は近くですか?」
「歩いて三分ほどです」
「あら、うちは五分ですよ。小学校、一緒になりますね」
「まあ! もしかしたらクラスも一緒になるかも。——ねえ桜子ちゃん、健斗と仲良くしてね」
幸がしゃがみ込んで桜子の金色の髪をそっと撫でる。桜子は不思議そうに見つめ返した後——にこっと笑った。その笑顔に、幸はしばらく動けなくなった。
「うふふ……桜子ちゃん、かぁ。古風な名前が素敵ですね。将来は絶対美人さんになるわ。うちの健斗も好きになっちゃうかもしれませんねぇ」
「健斗くんも凛々しいですよ。将来はイケメン間違いなし」
「いやいや、それはないでしょう」
幸が笑いながら手を振る。そんな会話をしている間に、カートの中の桜子がいつの間にか眠っていた。健斗がじっとその寝顔を見つめている。
「それでは、そろそろ失礼します。今日はありがとうございました」
「こちらこそ。——あの、毎週水曜の午後にあすなろ公園にいるんです。雨の日はいませんけど、ほかにも何人かのママ友が集まってますので、よかったら顔を出してみませんか?」
あすなろ公園は家から歩いて五分。桜子の散歩コースにも入っている場所だ。
「水曜の午後ですね。時間が合えばぜひ」
「お待ちしてますね」
二人は笑顔で手を振り合って別れた。
帰り道、楓子はぼんやりと考えた。
幸はたぶん自分より十歳くらい年下だ。ママ友の輪に後から加わって、話が合うだろうか。
——でも、大切なのは桜子のことだ。
この子にはまだ同い年の友達が一人もいない。生後十ヶ月の桜子に「友達」という概念はまだないだろうけれど、同じ年頃の子と触れ合う経験は、きっと桜子にとって大切なものになる。
楓子は心を決めた。
水曜日、あすなろ公園へ行こう。
カートの中で桜子が寝息を立てている。
その寝顔を横目に見ながら、楓子は少しだけ足を速めた。




