第10話 はじめてのお喋り
五月一日、桜子は一歳の誕生日を迎えた。
小林家のリビングに小さなケーキが用意されて、浩司、楓子、絹江の三人で桜子を囲んだ。盛大とは言えないが、温かくて、それで十分だった。
桜子はまだ何が起きているのかよくわかっていない。でもケーキは気に入ったらしく、両手でわしづかみにして口へ運んでいた。クリームが鼻についても、頬についてもお構いなしだ。
その姿を浩司がカメラで撮りまくっていた。
「ちょっとお父さん、もう百枚は撮ったでしょう」
「うるさい、天使の記録に多すぎるということはないんだ」
楓子と絹江が苦笑いを交わした。
青いリボンでツインテールにした短い髪は、リボンの結び目が小さな角のように斜め上を向いていて、それがまたなんとも言えず可愛らしい。浩司はその角度にも感動して、また十枚撮った。
こうして桜子の最初の誕生日は、家族の記憶に深く刻まれた。
◇
歩けるようになると、桜子の行動範囲は一気に広がった。
とはいえまだよちよち歩きなので、小さな段差につまずいては転ぶ。転んでは泣いて、泣いてはまた立ち上がって歩き出す。そのたびに浩司が飛んでくるので、楓子は「あなたが過保護だから転び方を覚えられないのよ」と言っているのだが、浩司の耳にはまったく届いていない。
「なぁ、うちの桜子って可愛いだろう? なんてったって天使だからな。あんたもそう思うだろ?」
店に来た客に向かって浩司が言う。
「お、おう……」
愛想笑いで答える客たちを見て、楓子と絹江は奥でため息をついた。でも浩司は気にしない。娘の可愛さを一人で抱えているのがもったいないのだ。分かち合いたいのだ。たとえ相手が困惑していても。
桜子はそんな父親の膝の上で、自分が何かの話題になっているとも知らず、ご機嫌にぱたぱたと足を振っていた。
祖母の絹江にも、桜子はよく懐いた。
浩司が配達や仕入れで出かけている間、楓子が店番をする。そうなると桜子の面倒は絹江の担当だ。
桜子が歩けるようになってからは、晴れた日には二人で散歩に出るのが習慣になった。近所の花を眺めたり、公園の小道をゆっくり歩いたり。絹江が桜子の小さな手を握ると、桜子は嬉しそうにきゅっと握り返した。
絹江にとっても、それは何物にも代えがたい時間だった。
◇
六月になると、楓子と桜子は毎週水曜の午後をあすなろ公園で過ごすようになった。
幸が声をかけてくれたママ友の輪だ。最初は年齢差を心配していた楓子だったが、子育ての話題に年の差は関係がなく、気づけばすっかり馴染んでいた。
桜子が白人であることを誰も話題にしなかったのは、きっと幸が事前に話を通してくれていたからだろう。
楓子も自分からその話を切り出すことはしなかった。桜子は外見以外、他の子供たちと何も変わらない。それだけで十分だった。
ほぼ同月齢の健斗とは特に仲が良くなった。といっても一歳そこそこの「仲良し」など、隣でそれぞれ砂をつかんでいるだけだったりするのだが、それでも二人が並んでいる姿は何ともほほえましい。
幸はその光景を見て「スーパーでの初対面がビンタだったとは思えないわね」と笑っていた。
◇
七月。桜子は一歳二ヶ月になった。
配達から戻った浩司が二階へ上がると、桜子がリビングの奥から全速力でよちよちと駆けてきた。転びそうなほどの速度で、でも転ばないギリギリのところで浩司の足元まで辿り着く。
「おー! 天使ちゃん、ただいま! パパお仕事から戻ったよ、会いたかったぞ!」
「きゃはははは!」
抱き上げると桜子が全力で喜んだ。その屈託のない笑顔に浩司の疲れが一瞬で溶けていく。頬と頬をくっつけて幸せを噛みしめていると——
「うー! ぱーぱー!」
浩司の動きが止まった。
……今、なんて言った?
聞き間違いかもしれない。でも確かに聞こえた。「ぱーぱー」と。
「桜子、もう一回言ってくれるかい?」
腕の中の桜子をじっと見つめて、やさしく問いかける。桜子は少し首を傾げた。はにかんだような、考えているような、不思議な顔をして——
「あうっ、ぱーぱ」
浩司の涙腺が、盛大に決壊した。
声を上げそうになるのをなんとか堪えて、桜子をそっと抱きしめる。こんなに小さな存在が、自分をパパと呼んでくれた。それだけのことなのに、どうしてこんなに胸がいっぱいになるのだろう。
「そうだよ、パパだよ。すごいね桜子、もうお話できるんだね。パパ、とっても嬉しいよ。ありがとう……ありがとうな」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔のまま桜子の背中越しに顔を上げると——絹江と目が合った。
絹江は何も言わなかった。ただ視線をすっと外して、一階へ降りていく。
浩司は立ち尽くした。娘への愛情と感動と、それからなんとも言えないバツの悪さが胸の中でぐるぐると混ざり合っていた。
その夜、浩司は楓子に勝ち誇った。
「天使ちゃんが俺をパパって呼んだぞ。ふはははー!」
「……はいはい、よかったわね」
楓子は苦笑いしながら洗い物を続けた。
しかしその二日後、今度は楓子が桜子から「まーま」と呼ばれた。最初は聞き間違いかと思ったが、桜子は何度も何度も繰り返している。間違いない。
楓子はしばらくの間、桜子をぎゅっと抱きしめたまま動かなかった。
一方の浩司は——あの感動の日以来、桜子から一度も「パパ」と呼ばれていなかった。
「ぱーぱ」はあの一回きりだ。
なぜだ。なぜなんだ桜子。パパはここにいるぞ。
浩司がそわそわしながら桜子の前にしゃがんで「パパだよ、パパ!」と呼びかけると、桜子はにこっと笑って「まーま!」と元気よく答えた。
「……そっちじゃないんだよなぁ」
リビングの隅でうな垂れる浩司を、楓子と絹江が生暖かい目で眺めていた。
それでも浩司は、懲りずに明日もまた桜子の前にしゃがむだろう。それが、この家の日常だった。




