第8話 名前
ベビーベッドに赤ん坊を寝かせた後、浩司と楓子は高倉から書類の記入方法、注意事項、これからの手続きについて説明を受けた。
そして最後に、高倉がビニール袋に包まれた何かを手渡した。
「それは保護された時に赤ちゃんが握り締めていたものです。よっぽど大切だったんでしょうねぇ」
楓子がそっと袋を手に取る。中には——桜の花びらが一枚、入っていた。
保護されてからかなりの時間が経っているはずなのに、その色は少しも褪せていない。まるで摘んだばかりのように、鮮やかなままだった。
「慈英病院の桜でしょうか」
「恐らくそうだと思いますが、はっきりとは。——ともかく、この子の持ち物はこれ一つだけだったそうですよ」
この子の親は、何も残してくれなかった。
手元にあるのは、自ら握り締めてきた桜の花びらと、一枚のお包みだけ。
「ありがとうございます。大切に保管します」
浩司と楓子は顔を見合わせた。この子が大人になるまで、ずっと取っておこう。言葉にしなくても、二人の気持ちは同じだった。
高倉はいくつかの注意事項を伝えた後、眠る赤ん坊の柔らかな髪をそっと撫でて、静かに家を後にした。
◇
リビングに集まった浩司、楓子、絹江の三人は、ベビーベッドを囲んでじっと赤ん坊を見守っていた。
どれくらいそうしていたのか、誰も気にしない。一階の店舗が無人なのが少し気になりはしたが——今はこの子以上に大切なことなど、何もなかった。
「あぁ、本当に天使みたいだな」
「そうね。こんなに可愛らしいなんて……そうだ、名前を決めなくちゃ」
「候補はあるんだろう? どれにするか決めたか?」
「候補はどれもイメージじゃなかったから、別の名前を思いついたんだけど」
「聞かせてくれ」
「……桜子。桜子はどうかしら」
浩司が少し考えて、それからにっこり笑った。
「いい。すごくいい名前だ。五月生まれの桜子か」
「いい名前だねぇ、桜子。うんうん、ぴったりだよ」
絹江も嬉しそうに頷く。楓子は眠る赤ん坊へ、そっと語りかけた。
「決まりね。——ようこそ、桜子ちゃん。私たちがお父さんとお母さんとお婆ちゃんだよ。これからよろしくね」
こうして、桜子は小林家の長女になった。
◇
喜びに浸っていた小林家だったが、本当の挑戦はその後にやってきた。
桜子が少しぐずっただけで、浩司と楓子は完全にパニックになる。
「オムツか? 腹が減ってるのか? どこか痛いのか?」
普段は落ち着いている浩司が右往左往し、楓子も同じくパニックで、もはや二人で顔を見合わせることしかできない。
そんな二人を、絹江がやや厳しい目で見た。
「しっかりしんさい。赤ん坊は泣くのが仕事でしょうが。いちいち狼狽えるじゃないよ、まったく」
三人の子を育て上げた絹江の落ち着きは、この上なく頼もしかった。普段しっかり者の楓子でさえ、この時ばかりは義母に心から感謝した。
桜子の泣き声は小さくて細い。でもその声さえも愛らしい。ミルクを飲む姿は豪快で、「ガブガブ」という表現がそのままぴったりだった。
不遇な生まれを思うと胸は痛む。でもとにかく食欲があるのはいいことだ——三人は顔を見合わせて、そう思うことにした。
◇
小林家に赤ん坊がやってきたニュースは、あっという間に近所中へ広まった。
最初に訪れたのは、約束どおり高橋親子だった。
「おおい、赤ん坊を——って、店に誰もいないじゃないか。大丈夫か?」
無人の酒屋を見回す喜美治の呆れ顔。二階から声がかかって、二人はそのままリビングへ上がった。
「全員ここにいて店は大丈夫なのか? まあ、気持ちはわかるけどよ」
「おじさん、赤ちゃんどこにいるの?」
喜美治の後ろから飛び出した和泉が、目を輝かせながら部屋を見回す。
「ああ、いらっしゃい。桜子は今寝てるから静かにな」
浩司に案内されてベビーベッドを覗き込んだ瞬間——和泉が小さく歓声を上げた。
「わあ、かわいい!!」
一方の喜美治は、驚きと困惑の入り混じった顔で固まっていた。
その反応は予想していたが、それでも浩司は少しだけ胸が痛んだ。
「お、おう……桜子ちゃん、こんにちは。近所のおじさん、高橋だよ。よろしくな」
「わたしは和泉だよ。お姉ちゃんって呼んでいいからね」
和泉が満面の笑みで宣言する。浩司は喜美治へ静かに声をかけた。
「何を言いたいかはわかるよ。追々説明するから、今は少し待ってくれな」
「あ、あぁ……すまんな。悪い意味じゃないんだが。——それにしても、本当に天使みたいだな」
ようやく笑顔を取り戻した喜美治が、和泉の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「うちの天使も最高だけど、こっちの天使も可愛いな」
「もう、やめてよお父さん!」
和泉が頬を膨らませながら父親の手を振り払う。でもその顔は、どこか嬉しそうだった。
その後も桜子を一目見ようと、近所の人々が次々と小林家を訪れた。
事情を知らない者は最初、その光景に困惑した。日本人の両親に、白人の赤ん坊。どう反応すべきか悩む顔が並んだ。
でも最終的には、全員が同じ言葉を口にした。
「可愛い」
それだけで、十分だった。
最初は珍しさから向けられた視線も、気づけばいつの間にか消えていた。残ったのはただ一つの事実——小林家に、とびきり可愛い赤ちゃんがやってきた、ということだけだ。
桜子はいつしか、この町の小さなアイドルになっていた。




