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第8話 天使の名前

 自宅の居間に設えられたベビーベッドに赤ん坊を優しく寝かせた後、浩司と楓子は高倉の指導のもとに書類の記入方法、注意事項、これからの手続きについての説明を受けた。

 そして最後にビニール袋に包まれた何かを手渡された浩司は、それを不思議そうにじっと見つめる。その彼へ高倉が言った。


「それは保護された時に赤ちゃんが握り締めていたものです。恐らく桜の花びらだと思いますが、よっぽど大切だったんでしょうねぇ……」


 楓子がそっと袋を手に取る。すると中には確かに桜の花びらが入っていた。それは拾われてから相当の時間が経っているはずだが、不思議なことにその色は褪せることなく、今もなお鮮やかな色彩を保っていた。


「これはこの子が保護されたという慈英病院の桜でしょうか?」


「恐らくそうだと思いますが、はっきりとはわかりません。ともかく、この子の持ち物はたったそれ一つだけだったそうですよ」

 

「そうですか……。ありがとうございます、これは我々が大切に保管しておきますね」 


 この子の親は彼女に何も残してくれなかった。手元にあるのは、彼女が自ら持ち込んだ桜の花びらと一枚のお包みだけ。

 この花びらは彼女の唯一の持ち物なのだ。浩司と楓子は、この子が大人になるまでこれを大切に保管することを決めた。


 それから高倉はさらにいくつかの説明と注意事項を伝えた後、眠る赤ん坊の柔らかな髪を優しく撫でて静かに家を後にした。



 自宅のリビングに集まった浩司、楓子、そして絹江の三人は、静かに眠る赤ん坊をやさしく見守っていた。どれほどの時間が経過したのかも分からないほど長く、この平和な瞬間に没頭し続ける。今や無人となった一階の店舗のことが気になりつつも、今はこの子以上に大切なことは何もないと感じていた。


 赤ん坊を見つめる三人の顔から自然と笑みがこぼれる。これからもこの幸福な気持ちでいられることを心から願い、このうえない幸せを感じながら彼らはその瞬間を大切に過ごしていた。


「あぁ、本当に天使みたいだな」


「そうね。こんなに可愛らしいなんて……。そうだ、この子の名前を決めなくちゃ」


「あぁ。でももう候補はあるんだろう? どれにするか決めたか?」


「そうねぇ――ううん、候補はどれもイメージじゃなかったから、別の名前を思いついたんだけどいいかしら?」


「もちろんだ。それでどんな?」


「さくら……桜……桜子(さくらこ)がいいと思うのだけれど、どう?」


「あぁ、それはいい。とってもいい名前だ。五月生まれの桜子か。うんうん」


「いい名前だねぇ。桜子、いいんじゃないかねぇ」


 浩司と絹江の顔に笑みが広がる。それを見た楓子は眠る赤ん坊へ優しく話しかけた。


「じゃあ決まりね。――ようこそ桜子ちゃん。私達がお父さんとお母さんとお婆ちゃんだよ。これから末永くよろしくね」


 こうして桜子は小林家の長女になった。




 ――――




 家族が増えた喜びにしばらく浸っていた小林家だが、本当の挑戦はその後に待っていた。子育て未経験の浩司と楓子は、桜子が少しぐずっただけでどう対応していいのか分からず右往左往してしまう。


「オムツか?  腹が減ってるのか?  どこか痛いのか?」


 と、普段は落ち着き払った浩司も桜子の前では狼狽を隠せない。楓子も同じくパニックに陥ってしまい、もはや他人(ひと)のことを気にする余裕などなかった。

 その光景を前にして、絹江はやや厳しい目で二人を見つめる。


「しっかりしんさい!  赤ん坊は泣くのが仕事じゃろが。いちいち狼狽えるじゃないよ、まったく」


 三人の子を育て上げた絹江の落ち着きは、浮足立つ二人にとって頼もしいものである。普段しっかりしている楓子でさえ、この時ばかりは義母の存在に心から感謝していた。


 桜子の泣き声は小さくて細いが、その声さえも愛らしい。ミルクを飲む姿は驚くほどで、文字通り「ガブガブ」という表現がぴったりだった。

 不遇な生まれやこれからの苦労を思うと胸は痛むが、なにはともあれ、とにかく食欲があることは良いことだと皆は思った。



 小林家に赤ん坊がやって来たニュースは、あっという間に近所中へ広まった。そして最初に訪れたのは、約束どおり和菓子屋の高橋親子だった。


「おおい、赤ん坊を見に来たぞ……って、店に誰もいないのか。おいおい大丈夫か?」


 呆れ顔の喜美治(きみはる)が無人の酒屋の店舗を見回していると、二階の住居へと続く階段から声がかかる。その声は彼らを上へと招いているらしい。

 誰からの出迎えもないまま二人が小林家のリビングへと入る。するとそこには家族三人が肩を並べて何かに集中している姿が見えた。


「全員ここにいて店は大丈夫なのか? まあ、気持ちはわかるけどよ」


「おじさん、赤ちゃん見に来たよ! どこにいるの?」


 喜美治の後ろから姿を現した娘の和泉(いずみ)が期待に瞳を輝かせる。桜子に会うのをとても楽しみにしていたらしい。


「ああ、いらっしゃい。桜子は今寝ているから、静かにしてくれな」


 浩司が応答し、ベビーベッドへ高橋親子を案内する。


「こちらが我が家の新しい家族、長女の桜子だ。よろしく」


 一同は言葉を失い、次いで和泉が歓声を上げた。


「わあ、かわいい!」


 桜子を前にした高橋親子の反応は、まるで昼と夜のように対照的だった。桜子の愛らしい容姿に釘付けになった和泉が満面の笑みとともに「かわいい」と繰り返す一方で、父親の喜美治は驚きと困惑の表情を隠そうとしない。

 それを目の当たりにした浩司は、予想していたとはいえ、どこか心が痛んでしまった。


「お、おう……桜子ちゃん、こんにちは。近所のおじさん、高橋だよ。よろしくな」


 喜美治が挨拶する。


「わたしは和泉だよ、よろしくね。お姉ちゃんって呼んでもいいよ」


 和泉が嬉しそうに言うと、反応に悩んでいると思しき喜美治へ浩司が声をかけた。


「喜美治さん、何を言いたいのかはわかるよ。追々説明するから少し待ってくれな」


「あ、あぁ、すまんな。決して悪い意味ではなかったのだが……それにしても、本当に天使みたいだ。うちの天使も最高だけど、こっちの天使も可愛いな」


 ようやく喜美治が笑顔を取り戻し、和泉の頭をわしゃわしゃと撫でながら笑う。その父親の手を振り払った和泉は、少し頬を膨らませながらも嬉しそうにしていた。



 桜子は地元の人々の注目の的となり、彼女を一目見ようと多くが小林家を訪れた。事情を知らない者が初めて桜子に会うとほとんどが困惑する表情を浮かべたが、それは無理もないことだった。


 両親は日本人なのに子供が白人。その事実にどのように反応すべきか人々は悩んだのだが、最終的には全員が「可愛い」と口を揃えてくれた。実際、誰が見ても桜子の可愛らしさは明らかだった。


 最初は珍しさから奇異な目で見られることもあったが、すぐに桜子の容姿について気にする者はいなくなった。そしてただ一つの事実が残る。それは小林家にとても可愛い赤ちゃんがやってきたということだった。


 気がつくと桜子は地域のアイドルになっていた。彼女の愛らしさは近所の人々の心を温かくしたのだった。

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