第40話 血だまりと覚醒
3階建てのS中学校の校舎は、建物全体がL字型になっている。1階と2階のL字部分の末端はそのまま体育館に繋がっているが、3階の奥は突き当りとなっていた。
そこには生徒数の減少とともに使われなくなった教室が連なり、その一番奥にあるトイレを使用する者も今はほとんどいない。
しかし今日に限って、そこから複数の声が聞こえてきた。
「あんたさぁ、自分のこと可愛いって思っているでしょぉ? いい気になってるんじゃなぁい?」
桜子は3年生の女子生徒5名に取り囲まれていた。彼女たちは怯える桜子を執拗に追求し、一方の桜子は、消え入りそうに縮こまる。
「い、いい気になんて、なってません……」
「あらぁ? いっちょまえに、口答えしているけどぉ」
「口答えなんて、そんな……」
「ふん、まぁいいよ。確かに少し綺麗な顔をしてるのは認めてやるけど。だからって、なにさ」
「あらぁ、怯えちゃって可愛いわねぇ。あんたみたいなのを見てると、もっと虐めたくなっちゃうんだけどぉ」
言いながら桜子の背中を小突く、くるくる巻き髪の少女。のんびりとした喋り方と柔らかな印象の顔とは裏腹に、その所作は粗暴だった。
桜子は恐怖に震え、目に涙を浮かべて顔を俯かせ、ひたすら床を見ることしかできない。そんな彼女が必死に口を開いた。
「も、もう、許してください。あたしが何か悪いことをしたのなら謝ります。だから……」
「べつに私たち、あんたに謝ってもらおうとしてるわけじゃないし。――ねぇ綾香、どうする? こいつ」
背の高いショートカットの少女が、一番奥で様子を眺める綾香に問いかける。すると彼女はつかつかと近付いて来て、べそをかく桜子の顎を掴んで顔を上げさせた。
「そうそう。そういえば、あなたについて面白い話を見つけたんだけど。本当なのか尋ねてもいいかしら?」
綾香は左手を突き出した。その手に握られたスマホには、ニュースサイトの画面のようなものが表示されている。それを彼女はニンマリとした笑みとともにひらひらと揺らす。
「あなたって去年、ロリコンストーカーに誘拐されたんですってね。このサイトに書いてあったわよ。ご丁寧に名前は伏せてあったけど、この町で金髪美少女なんて言ったらあなたくらいしかいないじゃない? すぐにわかっちゃった」
愉悦に満ちた綾香の言葉。それを聞いた桜子の肩がピクリと震えた。
「ふぅーん、で、なになに……そのロリコンストーカーとやらは逮捕されたけど……あなたはすでにやられちゃってたわけね。あらやだ、可哀そうに」
スマホの画面を指でスクロールする綾香の顔に怪しげな笑みが広がる。次に画面から目を離し、桜子をじっと見つめた。
「うふふ。ねぇ、聞かせてくれる? キモいロリコンストーカーに、処女を捧げた気分ってどうだった?」
桜子の背に冷水を浴びせたような感覚が走り抜ける。顔は蒼白になり、奥歯がガチガチと音を立てた。
たとえ忘れ去ったつもりでも、些細な切っ掛けで蘇る過去の記憶。心の微細な亀裂から、抑え込んでいたはずのそれが濁流のように溢れ出してくる。それはまるで、小さなひび割れからダムが決壊する様によく似ていた。
明らかに普通ではない桜子の様子。けれど綾香たちは気にせず話を続けた。
「あははは! 案外、気持ち良かったんじゃねーの? こいつ、好きそうだし! あはははははは!」
「なんだぁ、可愛い顔して好き者なんだぁ。じゃぁ、ウィンウィンだったんじゃない、きゃははは!」
「はははははは! わざわざキモ親父に処女を捧げるとか、どんだけボランティア精神旺盛なんだよ!」
「なになに、またしてほしいって!? うっわ、きっも!」
取り囲む少女たちに次々と屈辱的な言葉を浴びせられても、桜子は涙を堪えて震えることしかできない。見れば彼女の様子は尋常でなくなっていったが、まだまだ綾香は許すつもりなどなかった。
「ねぇ桜子ちゃん。聞いてあげるから言いなさいよ。『わたしはキモ親父に処女を捧げました。とっても気持ちよかったです。はーと』。はい、リピートアフターミー」
今や綾香の気分は最高潮に達していた。ただただ人を言葉で屈服させる快感に酔いしれ、相手のことなど微塵も気に掛けていない。
けれど桜子は、一言も発することなく、自身の身体を抱きしめたまま地面を見つめて震えるばかり。
その様子に痺れを切らした背の高い少女が、さらに強く桜子を小突いた。
「おらっ、早く言えよ! 聞こえてんだろ!?」
「うぅ……」
「ほらぁ、はやくぅ、言いなさいよぉ。日が暮れちゃうでしょぉ」
「……あ……あたしは……キモ……お、おやじ……に……ひっく……ひっくぅ……うぅぅ……」
ついに桜子は嗚咽を漏らして泣き出してしまう。それをさらに少女たちが無慈悲に責め立てた。
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「あははははは! こいつ、マジで言いやがった! 信じらんねぇ!」
「うっわ、最高! あはははははは!」
「ねぇねぇ、ちゃんと動画撮ったよね?」
「あったり前でしょぉ。拡散させちゃうよぉ。あとでみんなに転送するねぇ」
「くれくれ! はははははは!」
「わたしもー! ははははは」
少女たちが桜子へ嘲笑を浴びせ続ける。それを一歩下がったところから眺めていた綾香が再び口を開いた。
「ふふふ。はい、よくできました。とっても偉かったわ、褒めてあげる。――さて、これはあとで学校中に拡散してあげるわね。よかったわねぇ、もっともっと人気者になれるわよ。ほんと、羨ましい限りだわ」
言いながら綾香が、何か思案をするようなポーズをとった。次に顔をパっと輝かせ、妙案を思いついた子供のような表情を浮かべた。
「あぁそうね。せっかくだから、もっといいことしてあげる。あなたにはもう少し楽しませてもらおうかしら」
綾香は制服のポケットから小さなナイフを取り出すと、目の前でゆらゆらと揺らして見せた。
「これ何かわかる? そう、ナイフ。小さいけど切れ味抜群なの。でね、これで何をするかって言うと……あなたの制服を切り刻んで、裸で放り出してやろうと思うのよ。なかなか楽しそうでしょう? ――どう? みんな」
残忍な表情を浮かべた綾香が、周囲の仲間たちを見回して同意を求める。もちろん彼女たちに異論はない。揃って全員が頷くと、顔に綾香と同じ表情を浮かべた。
ひらひらと綾香が見せつける小さなナイフを、桜子が絶望的な表情で見つめる。しかしそれも数舜。直後に再び目の焦点が合わなくなり、口から呟きが漏れ始めた。
「助けて助けて助けて……怖い怖い怖い怖い怖い……」
「さぁ、裸にひん剥いてやるわよ。覚悟しなさい!」
ついに綾香が桜子のワイシャツを掴み、ナイフで切ろうとしたその瞬間、突然桜子が凄まじい勢いで暴れ出した。
「いやぁぁぁぁぁぁ! たすけて! たすけて! 痛いのはもういやぁぁぁぁぁ! あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
桜子は錯乱状態だった。綾香のナイフによって忌まわしい記憶を呼び覚ました彼女は、これまでかろうじて繋ぎ止めていた理性を完全に失った。ただひたすらに恐怖に我を忘れ、手足を無秩序に振り回す。
まさに尋常ではない桜子の様子に、さすがの綾香たちも戸惑いを隠せない。包囲していた輪を広げ、互いに顔を見合わせた。
「お、おい、こいつなんか変だぞ!」
「ちょ、ヤバいって! こんな大声出されたら誰か来ちゃうよ! 早く黙らせて!」
「あ、危ない! 手が当たるってば!」
口は達者だが所詮はか弱い少女たちである。暴れる桜子を全員で抑え込もうとしたものの、理性のタガが外れた者の膂力は凄まじく、なかなか思うようにならない。
それにはさすがの綾香も手を貸したのだが、なにぶんそれがまずかった。桜子を押さえようとした拍子に、手に持っていたナイフで彼女の額を掠めてしまった。
「あっ!」
その場の者たちが、まるで申し合わせたようにほぼ同時に叫んだ。しかしそれもやむを得ない。なぜなら、桜子の額から大量の血が噴き出していたからだ。
流れ出た血が頬を伝って顎から滴り落ち、制服を染めてそのまま床に血だまりを作る。
その光景に、全員が顔を蒼白にした。
「やっ、やばいよ! さすがにこれはまずいって! どうすんだよ、これ!」
背の高い少女が顔面を強張らせたまま綾香を振り返る。しかし綾香は、相変わらずナイフを握ったまま身動き一つしようとしない。その彼女が言う。
「し、知らない! こいつが勝手に突っ込んで来たんだよ! 私のせいじゃないから!」
「そんなのどうでもいいって! とにかくこれをどうするかって訊いてんだよ!」
「に、逃げよう! 今すぐ逃げればバレないって!」
「馬鹿か!? バレるに決まってんじゃん! 後でこいつが喋るだろ!」
「じゃ、じゃあ、どうするのさぁ!」
「綾香がなんとかしてくれるんでしょう!? 言い出しっぺなんだし!」
「わ、わたしが!? なんで!?」
血塗れの少女を助けようともせず、綾香たちは己の保身のために責任の擦り付け合いを始める。その前で桜子は、真紅に染まった自身の両掌を見つめ、青い瞳を限界まで見開いて叫んだ。
「いやぁぁぁぁぁぁ!」
直後に桜子は、まるで糸が切れた操り人形のようにその場へ崩れ落ちた。
桜子が気を失ったのをいいことに、少女たちが言い合いを続ける。
初めは、いい気になっている小生意気な後輩に怖い思いをさせてやろうと思っただけだった。しかし実際にやってみると、予想以上の効果に嗜虐心が刺激されてしまい、ついやり過ぎてしまった。
挙句にナイフで切り付けて流血沙汰である。
そもそも1年にヤキを入れると言い出したのは綾香だし、ナイフを取り出したのも、切りつけたのも綾香だ。自分たちは少し手伝っただけで、実際に手を出してはいない。
けれど、当の綾香も頑固に言い張る。
ナイフは脅すために見せただけで、切りつけるつもりなど最初からなかった。誰かが桜子を押したせいで、不幸にもナイフに触れてしまっただけなのだと。
5人が互いに責任を押し付け合っているのを尻目に、むくりと床から起き上がる者がいた。気付いた綾香たちが視線を向けると、それは全身を血塗れにした桜子だった。
一言も喋らぬままに、桜子が5人を睨みつける。いや、それはそんな生易しいものではなかった。もしも視線で人を殺せるならば、きっとこういうものになるのだろう。そう思わざるを得ないほど、その視線には殺気がこもっていた。
理由もわからず、背筋を凍らせる綾香以下5名の少女たち。それらへ向けて桜子が口を開いた。
「おい……糞ガキども……やってくれるじゃねぇか……覚悟はできてんだろうなぁ?」




