第25話 覚醒
不快な表現と暴力描写があります。苦手な方はご注意下さい。
桜子の身体の至る所に打撲痕が出来ていた。
箱根は急に優しい言葉をかけたかと思えば、時に暴力を振るって桜子を篭絡しようとする。もはや桜子は、痛みと恐怖と絶望により、正常な思考が働かなくなっていた。
言うことさえ聞いていれば痛い思いをしないで済む。彼女は徐々に考えることを放棄して、従順になっていった。
「うん。いい子だね、桜子ちゃん。僕の言うことをおとなしく聞いてくれるんだね。君は本当に偉いよ。そんな子にはご褒美をあげないと。――どうだい? 大きな声を出さないと約束してくれるなら、今から口を自由にしてあげるけど。約束できる?」
桜子の変化に満足そうな笑みを返すと、箱根が一つ提案をしてくる。しかし桜子はぐったりと畳の上に寝転んだままで、くすんだ瞳で畳の縁を見つめるばかり。
しびれを切らせたのか、突然声のトーンを変えて箱根が言葉を続けた。
「ねぇ、桜子ちゃん。僕が尋ねているんだから、何か言ってくれないかなぁ。それともまた、お仕置きされたいのかい?」
「うぅ! むぅー!」
虚ろな目をしていたにもかかわらず、抑揚のない箱根の問いを聞いた途端に慌てて桜子が首を縦に振る。
その反応に嗜虐心を満たされたのか、箱根はひとつぞっとする笑みを見せた後に、約束通り桜子の猿轡を外した。
「ふぅぅ……」
数時間ぶりに自由になった桜子の口から、長い長い吐息が漏れる。ついでにここで大きな悲鳴を上げてやろうかと思ったものの、未だ手も足も縛られたままなのを思い出し、無駄なことはやめた。
やっと口が自由になったにもかかわらず、ただ彼女は、変わらず無言のまま床に寝転がるばかりだった。
そうこうするうちに、箱根が話し相手を求めてくる。そのため桜子は、壁に寄り掛かるように身体を起こされて、手足を縛られた体育座りのような姿勢にさせられた。
会話といっても、一方的に話し続ける箱根にただ相槌を打つだけである。内容のない、独りよがりな自分語りにしばらく付き合っていたが、次第に桜子は尿意を堪えられなくなってくる。
しばらくモジモジしていたが、ついに限界に達した彼女が箱根にその旨を伝えた。すると箱根は鼻息も荒く興奮し、震える手で携帯電話を構えると、そのまま用を足すよう命じたのだった。
「うぅぅ……ぐすっ、ぐすっ……」
羞恥に顔を真っ赤に染めて、すすり泣く桜子。同様に顔を紅潮させた箱根が彼女へ告げた。
「だめだよ桜子ちゃん、こんなに床を汚しちゃって。本当に仕方のない子だね。でも、そのままだと気持ちが悪いだろう? 僕が着替えさせてあげるから、安心してよ。――さぁ、服を脱ごうか」
興奮のあまり、声を上ずらせつつ箱根が命じる。その異様な姿に恐怖した桜子は、着替えのために自身の手足の紐をナイフで切っていく箱根を、ただおとなしくに見つめることしかできなかった。
しかし手足が自由になった途端に理性の箍が外れたらしく、桜子は何の前触れもなく大きな悲鳴を上げると、手足を振り回して暴れ始めた。
その様子に慌てた箱根が、咄嗟に桜子の腹を蹴り上げる。すると彼女は、一声だけ呻き声をあげると、そのまま意識を失ったのだった。
ぐったりと横たわる桜子に背を向けて、箱根は買ってきたばかりの下着の袋を開け始める。そして中身を取り出し検分し、振り向こうとしたその時、唐突に右の足首に衝撃が走り、身体を支えられずにそのまま倒れた。
あまりの激痛に悶絶する箱根。見ればアキレス腱が半ばから切断されて、おびただしい血が溢れ出ている。
一体何が起きたのか。訳がわからぬままに前方へ視線を向けると、そこに桜子がいた。
右手にナイフを握り、顔にはおよそ彼女らしくない表情が浮かぶ。
金色の美しい眉は鋭角に吊り上がり、眉間と鼻の両脇には盛大にしわが刻まれる。薄く紅を引いたようなぽってりとした唇は真一文字に結ばれて、噛み締められた奥歯からはギリギリと音が漏れていた。
それはまさに「憤怒」そのものだった。
そこにはもはや、天使のように愛らしい美少女の面影は微塵も見られなかった。
しかし箱根は彼女の顔ではなく、その右手に握られたナイフに釘付けになる。
箱根はそのナイフに見覚えがあった。というのも、それは直前まで彼自身が桜子の手足を縛っていた紐を切るのに使っていたものだからだ。
止め処なく流れ出る血を押さえながら、箱根が恐怖と驚愕の表情を顔に浮かべる。その彼に向かって桜子が口を開いた。
少し高めの可愛らしい声は、間違いなく彼女自身のものだったが、今の箱根には不思議と妙に低く聞こえた。
「おぅおぅおぅ、箱根ぇ! てめぇ、よくもやってくれたなぁ、あぁ!?」
「なっ! さ、桜子ちゃん、なにを――」
「てめぇ、これだけのことを仕出かしたんだ、もちろん覚悟はできてんだろうなぁ!? どう落とし前つけるつもりだ? あ゛ぁ!?」
「えぇ? な、なに? さ、さくらこちゃん?」
「なに、すっとぼけたこと言ってやがる! 桜子じゃねぇよ、俺だよ俺、鈴木秀人だよ! ――久しぶりだなぁ、おい箱根ぇ! 俺のこと、憶えてねぇとは言わせねぇぞ、こらぁ!」
「え……えぇ!?」
箱根は鈴木秀人のことをよく知っていた。以前勤めていた会社で4歳年上の先輩として、失敗続きの箱根の面倒をよく見てくれた人物だ。プライベートでも親しく、よく一緒に飲みに行っていたのを思い出す。
秀人が病気で会社を辞めたのは10年以上も前のことで、その後すぐに亡くなったと聞かされていた。
その人物の名を語る少女が、なおも言い募る。
「昔から妙な奴だと思っていたが、てめぇ、真正のロリコンじゃねぇか! しかもド変態ときてやがる! 何の罪もない、幼気な少女に何してくれてんだ、この野郎!」
なぜ目の前の少女の口から、秀人の名が出てくるのかがわからない。桜子が秀人を知っているわけもなければ、その逆も然りだ。
箱根は傷の痛みさえ忘れ果て、わけもわからず混乱する。すると桜子――と思しき何者かが、今度は彼の左足首をナイフで切りつけた。
両足のアキレス腱を失った箱根は、もはや立つことさえできずに、芋虫のように転がるしかなかった。
「ぐあぁぁぁ! や、やめて、桜子ちゃん! 痛い! 痛いよ! ひぃぃぃ!」
「ざけんじゃねぇよ、この野郎! てめぇは桜子がやめてって言ったときにやめたのかよ!? 桜子が嫌だって言った時に思い直したのかよ!? あぁん!? 適当こいてんじゃねぇぞ、こらぁ!」
勢いよくそう言うと、今度は箱根の右手首を切りつけた。
「ぎゃぁぁ! やめて! 助けて! 許して、お願い! 殺さないで!」
「だから、てめぇは桜子が許してって言った時に、許してやったのかって訊いてんだよ、ゴルァ! だいたい、てめぇだって俺と同じ釜の飯を食ってきたんだろうが! 落とし前の付け方くらいわかってるよなぁ!? さぁ、さっさと付けてもらおうか! おぉ!?」
「ひ、ひぃぃぃ!」
いくら箱根が腕を振り回そうと、もがこうと、その上から情け容赦なく桜子がナイフで切りつける。
上肢に刻まれるおびただしい数の防御創と飛び散る血液。中には肉片すらも混じっていた。そして最後に箱根の上に馬乗りになると、桜子はナイフを握った両手を頭の上に振り上げた。
「死ねやぁ!」
「た、助けてぇぇぇぇぇ!」
バァン!
突如、玄関の扉が勢いよく開かれる。続いて外から、制服を着た複数の男たちが狭いアパートになだれ込んできた。
「箱根晃だな! おとなしくしろ……!?」
銃を片手に突入して来た数名の警官たち。彼らが目の前の光景を理解するのに、軽く数秒を費やした。
見れば血塗れのワンピースの少女が、男の上で馬乗りになっている。そして頭上に掲げたナイフを今にも振り下ろそうとしていた。
男の顔は恐怖に歪み、まるで時間が止まったように膠着する。その中で動いていたのは、二人の瞬きだけだった。
少女は警官たちをゆっくりと見渡した後に、糸の切れた人形のように突然崩れ落ちる。手から滑り落ちたナイフが、箱根の頬を掠めて畳に突き刺さった。




