第20話 男心とお年頃
小学五年生になった桜子は、相変わらず鈴木秀人の記憶を見続けていた。ただ、日常生活に直接的な影響が出るわけでもないので、特に問題視はしていなかった。
既視感を覚えることもあるが、たいていは過去の記憶で見たものだ。
実際には経験していないことに既視感を覚えるというのも不思議な感覚だけれど、深く悩まなくていいのだと自らに言い聞かせ、そのまま受け入れることにした。
そんなある朝のこと。いつもどおり迎えに来た健斗が、言葉を選ぶように切り出した。
「あ、あのさ……明日から、別々に学校へ行かないか?」
桜子が思わず足を止める。四年間、毎日一緒に登校してきたのに、今になってやめると言う。何か理由があるに違いない。
「ねぇ健斗。どうしたの急に。何かあったの?」
「い、いや……べつに何もないけど……」
視線を彷徨わせながら口をもごもごさせる。
無口で不愛想ながら、普段はわりとはっきりと物を言う健斗にとって、これは珍しい態度である。そんな幼馴染の様子に不安を覚えた桜子は、思いを隠さず口にした。
「あたし、健斗に何か嫌な思いをさせた? それなら謝るけど……」
直後に健斗が桜子の正面へ向き直る。
「だから、何もないって」
「で、でも……健斗が急にそんなこと言うなんて、やっぱり何かあるんでしょう?」
「べつに、なんでもないって!」
「だ、だって——」
「うるさいな! 何もないってさっきから言ってるだろ!」
「あっ!」
話の途中で健斗が走り去っていく。一人残された桜子は、訳もわからないまま肩を落として、重い足取りで学校へ向かった。
学校の近くで友里と奈緒に合流すると、只ならぬ桜子の様子に友里がすぐ気づいた。
「おはよう桜子。どうしたの? 健斗は?」
「わかんない……急に怒り出して、走って行っちゃった。あたし、何か悪いことしたかなぁ」
「ふぅーん……変な奴ね。わたし、あとで健斗に聞いてみるよ」
「ありがとう、友里ちゃん。助かるよ」
「わたしに任せなさいって」
◇
一方の健斗は、教室の自席で外をぼんやりと眺めながら、桜子に取った態度をいまさらながらに後悔していた。
二人は一歳の頃から兄妹のように育ってきた。しっかり者の桜子が姉役で、ぼんやりとした健斗が弟役という具合だ。
最近は互いに忙しくなって学校以外での交流は減っていたが、朝の登校だけはずっと一緒で、他愛のない話をしながら歩いてきた。
それを他の男子たちから馬鹿にされてしまったのだ。
健斗が常に桜子の近くにいることに気づいた男子生徒たちが、「桜子のことが好きなんだろ」と冷やかし始めた。
健斗にとってそれはひどく恥ずかしいことで、焦った彼は心の中で自分なりの理屈を作り上げてしまった。
自分と桜子はただの幼馴染みだ。べつに好きなわけじゃない。
みんなが勝手に決めつけて冷やかしてくるが、まったく冗談ではない。
だからもう一緒に学校へは行けない。
そんな思いに駆られていた健斗のところへ、友里が駆け寄ってきた。
「健斗! あんた、桜子ちゃんに何したの!? あの子、泣いてたよ!」
健斗は思わず狼狽えたが、すぐに平静を取り繕う。
「なんだよ友里。俺はなにもしてねぇよ。もう女子と一緒に学校へ行くのが嫌になっただけだって!」
普段から不愛想なので誤解されがちだが、健斗は本来、優しい性格をしている。だから意図して声を荒げるのは、明らかに取り繕っている証拠だった。
「あっそ。わかった、もういい」
友里がすっと引き下がる。追及を逃れられて、健斗は密かに胸を撫で下ろした。
◇
友里が女友達の間で情報を集めた結果、健斗の態度の理由はすぐに明らかになった。
要するに彼は「お年頃」ということだ。桜子との関係を冷やかされたことで、必要以上に意識するようになってしまったらしい。
理由はわかった。ただ、健斗の心が落ち着くには時間が必要だ。第三者が介入すればむしろ状況が悪化するのは目に見えている。
友里はそう判断して、昼休みに桜子へ事情を説明した。
桜子は最初こそ驚いたが、次に安堵の表情を見せて言った。
「……嫌われたわけじゃなかったんだね」
色々と事情はあるのだろうが、今の桜子にはそれだけで十分だった。
◇
健斗が迎えに来なくなったことに、楓子はすぐ気づいた。事情を尋ねても桜子は具体的な説明を避けて一人で学校へ向かってしまう。
喧嘩ではないとはわかったものの、それでも楓子の心配は消えなかった。
「健斗くん、急にどうしたのかしらねぇ……」
桜子の背中を見送りながら楓子が呟く。店の奥から浩司が口を開いた。
「なんだ、お前。わからないのか?」
「えっ?」
「その……あれだ。健斗もお年頃ってことなんだろ」
「あ……あぁ、そういうことね」
不意に理解が及ぶ。
楓子が小さく笑って、それから少し遠くを見るような顔になった。
「男の子って難しいわねぇ。子供だと思っていたけれど、いつの間にか大きくなっていたのね」
「男心ってのは複雑だからなぁ。思えば、俺もそんな頃があったなぁ……」
浩司が遠くを見つめながらしみじみと言う。その横で楓子が、ひっそりとため息をついた。




