第19話 両親の呼び方
小学4年生になった。
2年前に始めた水泳教室には今も足を運んでおり、最近では上級コース進級を目指せるほどの成長ぶりだ。始めた当初は単に泳げるようになることが目標だったが、桜子には生まれながらの才能があったらしく、その急速な上達はコーチさえも驚かせた。
桜子はまた背丈が伸びた。クラスの中では平均よりもわずかに高い程度だが、そのすらりとした体つきと長い手足は実際よりも背が高く見える。
肩甲骨の下まで届く長い髪には天然のウェーブがかかり、リボンで束ねたポニーテールが彼女のゆるやかな髪をより一層引き立てていた。
桜子について最近判明したことがある。彼女は純粋な白人種なのだが、その中でも東ヨーロッパ系の特徴を持つらしい。その理由は桜子の身体的特徴から明らかになった。
桜子は雪のように真っ白な肌と白金色の髪を持ち、真夏の空を思わせる透き通った青い瞳と、紅を差したようなぽってりとした唇が印象的である。顔は小さく、体躯はスマートで手足が長い。これらはロシアやウクライナなどの東欧系白人種の特徴と合致する。
手足の長さは水泳で大きな利点となっているらしく、身長が同じくらいの他の子供たちと比べてもタイムには顕著な差があった。このような逸材をコーチたちが見過ごすはずもなく、彼女はすでに何度も上級クラスへの編入を勧められていた。
しかし桜子はこの提案に渋い顔を返すばかり。現在、彼女が参加している中級クラスは、週に2日、火曜と金曜の夕方4時から6時まで練習しているが、上級クラスは週3日、月曜・水曜・金曜の午後4時か7時まで練習を行い、大会前には土曜日にも補習が追加されることがある。
桜子曰く、
「それじゃあ、お店の手伝いが出来なくなるじゃない。ママもあたしに付き添わなければならないし、パパとおばあちゃんだけじゃ大変だよ」
その言葉からもわかるとおり、桜子は水泳の練習を嫌がっているわけではない。彼女が気にしているのは、自分の練習のためにしばしば母親が店を離れなければならないことだった。くわえて、最近は体調を崩しがちな祖母に負担をかけたくないという思いもある。
それを十分に理解したうえで、浩司は安心させるように娘へ言った。
「桜子がそうしたいと思うなら、パパは上級クラスへ進んだほうがいいと思うな。店も夕方は暇だし、心配なんてしなくていいぞ」
なにより浩司は、桜子が望むことを可能な限り叶えてあげたいと考えていた。祖母や店に対する心遣いは確かに嬉しいけれど、子供には子供らしく、自分の情熱を追い求めてほしかった。
浩司の説得を受けて数日間悩んだ末に、桜子は上級クラスへの編入を決意した。
◆◆◆◆
桜子は健斗と引き続き一緒に登校していた。健斗の家と学校の道すがらに桜子の家があるため、彼が学校へ行こうとすると必然的に小林家の前を通ることになる。なので健斗は、特に断る理由もないまま、なんとなく桜子を迎えに来る習慣を続けていた。
4年生へ進級の際にクラス替えがあり、桜子と陽菜、友里と健斗はそれぞれが同じクラスになった。毎朝の登校時、学校の手前200メートルの角で友里と陽菜が待っており、そこへ桜子と健斗が合流するのが毎朝の風景だ。
予定がない限り、健斗も桜子たちと一緒に帰宅する。しかし健斗は少年サッカー教室、桜子は店の手伝いと水泳の練習、友里と陽菜は塾に通っているため、放課後に彼らが一緒に遊ぶことはあまりない。
そんなある日のこと。桜子がクラスの友人である日向奈緒と雑談を交わしていた。
「桜子ちゃんってさ。お父さんとお母さんのことを、パパ、ママって呼ぶんだね」
その言葉に特に深い意味はなかった。単に話の流れからそう言っただけで、悪気はもちろんのこと、桜子を辱めてやろうという意図もない。しかしそれを聞いた男子生徒の一人が口を挟んできた。
「うわ、だっせ。桜子って親のことを、パパ、ママって呼んでんの? おいおい幼稚園児かよ。恥ずかしくね?」
桜子をからかう一人の男児。それはクラスのお調子者、富樫翔だった。ひらひらと手を翻し、馬鹿にしたように茶化してくる彼へ奈緒が反論する。
「うっさいわね! あんたに話してないんだから、黙っててくれない?」
奈緒が翔を睨みつけて、あっちへ行けと追い払う。それを無視した翔は、周囲の男児たちを味方に付けようとした。
「なぁ。お前らは親のこと、なんて呼んでる?」
「父さん、母さんだな」
「お父さん、お母さんだ」
「おとん、おかん」
口々に答える男子生徒たち。彼らへ奈緒が反論した。
「うるさいわね! べつにパパ、ママでもいいでしょ! そう呼んでいる人だってたくさんいるんだから!」
「なんだよ。そういうお前は、なんて呼んでるんだ?」
「えっ? わ、わたしは……お父さん、お母さん、だけど……。で、でも、わたしだって昔はパパ・ママって呼んでたわよ!」
「なんだよ。それじゃあ、お前だって今はパパ、ママって呼んでないんじゃん」
「そ、そうだけど……」
予期せぬ翔の反論に、弱気になった奈緒がちらりと桜子の顔を見る。その視線を受けて、自分が原因で友人が非難されていると思った桜子は、意を決して翔へ近づいた。
「な、なんだよ」
「ねぇ翔くん。やっぱりパパ、ママって呼ぶのはおかしいかなぁ? お父さん、お母さんって呼んだほうがいいと思う?」
言いながら桜子がさらに一歩踏み出す。手を伸ばせば触れられるほどの距離感に、翔は心臓の高鳴りを抑えることができない。桜子の透き通った青い瞳を見返すことすら叶わぬまま、思わず翔は視線を逸らしてしまった。
憎まれ口を叩いているが、翔の心の中では桜子への憧れが燻ぶっていた。一部の隙もない整った容姿と、どこか天然な可愛らしい性格。まさに圧倒的美少女とも言うべき桜子のすべてが彼の理想だった。
そんな桜子に近くから見つめられた翔は、緊張のあまり声を上ずらせた。
「そ、そうだな。大人になってもパパ、ママじゃ、ちょっと格好悪いと思うぞ。い、今のうちに変えたほうがいいかもな……」
直前までの太々しさはどこへやら、翔が急に控えめな態度をとる。対して桜子が天真爛漫な笑顔で応じた。
「うん、ありがとう。翔くんの言う通りだね。大人になってもパパとママじゃおかしいかなぁって、実はあたしも思ってたんだよ。いい機会だから、変えてみるね」
翔は桜子の顔を直視できなかった。彼女の純粋すぎる笑顔は、翔にとっては太陽のように眩しすぎたのだ。
「お、おぅ……」
結局翔は、顔を真っ赤に染めて俯くことしか出来なかった。
◆◆◆◆
「ただいまー」という明るい声が響くと、店内で酒の在庫確認に勤しんでいた楓子が動きを止める。そして笑顔で振り返って桜子に声をかけた。
「おかえり。机の上におやつがあるから食べておいで。ちょっと休んでから、水泳教室に行こうか」
「うん、わかった、お母さん。それじゃあ手を洗ってくるね」
「えっ……?」
楓子が思わず息をのみ、レジにいる絹江と視線を交錯させる。言いたいことは様々だが、二人は言葉を交わすことなく、静かに桜子の背中を見送った。
その日の夜。
浴室から出てきた浩司が、肩を落としてビールを飲みながら楓子にぽつりと漏らした。
「ううぅ、楓子ぉ。桜子が俺のことを、『お父さん』って呼ぶようになったんだ……」
楓子は優しく笑みを浮かべて、夫の気持ちを軽くするように言葉をかけた。
「私も『お母さん』って呼ばれたわ。まぁ、これはアレよ。それだけあの子が大人になったということなのよ。むしろ喜ばなくっちゃ」
「でもな。俺の中の桜子は、いつまでもあの小さかった頃のままなんだよ……」
「気持ちはわかるけど、あの子をずっと子ども扱いしてちゃいけないのよ。日々成長しているのだし、そろそろ一人の大人として接してあげなきゃ」
「そうだな……」
浩司はため息をついた後、何かを思い出したように付け加えた。
「ああ、でもさ、せめて『パパン』って呼んでくれたらな、『パパン』って……」
二人は静かに笑みを交わした。少しずつ成長していく最愛の娘への愛情と、幼かった日々への郷愁を胸に、浩司がビールを一気に飲み干す。その瞬間、彼の心は喜びとほろ苦さでいっぱいになるのだった。




