第18話 実在した人物
土曜日の午後。
約束通りに桜子と友里は、田中陽菜の家へやって来た。
陽菜の家は桜子の家から自転車でわずか5分、友里の家からは10分の距離にある。見上げるほどの大きな門と広い庭は、まさに豊かな家庭の象徴のように立派であり、周囲の家々とは一線を画していた。
その前で桜子がなんとも言えない気持ちになっていると、友里も似たような感慨を抱きつつ口を開いた。
「陽菜の家ってお金持ちだったのね……」
二人が呼び鈴を探してウロウロしていると、玄関から陽菜が姿を現した。彼女はわずか10数メートルの外出でさえもきちんと靴を履いており、どこへでもサンダルで出かける桜子とは違って、どこか整然とした印象を与える。
陽菜が何かの操作をすると大きな門が電動で静かに開き、その迫力に圧倒されつつ二人は田中家の敷地へと足を踏み入れた。
「いらっしゃい。今日は遊びに来てくれてありがとう。どうぞあがって」
玄関の奥から優しそうな女性が出てくる。すぐに二人には彼女が陽菜の母親であることがわかった。
陽菜の母である亜希子は、陽菜をそのまま大人にしたような人物で、小柄ながらもとても美しい女性だった。
「お邪魔します。今日はよろしくお願いします」
「はいはい、どういたしまして。わたしはパソコンの準備をしておくから、おやつを食べたら来てね」
「はーい」
「うふふ。それじゃあ、あとでね」
娘の友人が家を訪れてくれたことを、亜希子は心から喜んでいた。気が弱く控えめな性格の陽菜は、自ら前へ出て友達を作るタイプではない。そのため亜希子は、娘の交友関係の狭さをずっと気に掛けていたのだ。
しかし訪れたのが、学校内でその名を知らぬ者がいない桜子と、クラスのムードメーカーとして知られる友里であることに、大きな安堵と喜びを感じていた。
楽しくおやつを食べ、ゆったりとした時間を過ごした後に三人は亜希子のもとへ向かった。すでにパソコンは準備されており、キーボード操作がままならない小学生たちの代わりに、亜希子が入力を手伝ってくれる。
「それで、何を調べたいのかしら?」
子供たちに囲まれた亜希子が満足そうな笑みとともに尋ねると、桜子が鈴木秀人の名を挙げた。亜希子は一瞬怪訝な表情を浮かべたものの、直後に流れるような手つきでキーを叩いた。
「すずき、ひでひと……っと。これでいいのね。はい、出たわよ」
数秒の待ち時間を経て、ブラウザに検索結果が表示される。まず目に飛び込んできたのは、「鈴木秀人」という検索キーワードと「交通事故」という重たい文字だった。
どれを選択すべきか迷う中、亜希子と子供たちはとりあえずトップに掲載されている記事を開くことにした。するとそこには、9年前の交通事故に関する記事と、それに伴う写真が掲載されていた。
食い入るように見つめる3人の少女たち。その背中を眺める亜希子は、未だ怪訝な表情を拭えずにいた。小学三年生の女の子が興味を持ちそうなものは、アニメやアイドル関連の記事であるのが普通だ。
しかしながら「鈴木秀人」という名は、亜希子もどこかで耳にしたことがあるものだった。そして目の前の記事は、その人物に関するものであることが明らかだ。なぜ彼女たちがこのような内容に関心を持ったのか、亜希子にはさっぱりわからなかった。
亜希子の心に、何とも言えない寒さのようなものが広がっていく。子供たちがこの重い話題に触れている現実が、なぜか心の底に微かな不安を呼び覚ましたのだった。
検索を通じて、いくつかの重要な事実が明らかになった。
「鈴木秀人」は過去に実在した人物であり、約9年前に交通事故により亡くなっていた。そしてその悲劇が起こったのは、K町にある慈英病院の目の前である。
実家は桜子たちが住むこのS町にあり、かつては同じ小学校の生徒でもあった。鈴木秀人がこの世を去った日は、桜子が保護された日の前日にあたり、桜の花が満開になる美しい季節だった。
3人の背後から画面を眺めていた亜希子が、ふとその名前を思い出す。思えばその名はテレビで何度も見ていたものだった。
「あっ……この事故なら知っているわ。当時とても話題になったもの」
その声は、呟きと呼ぶには少々大きすぎた。それを聞いた子供たちが一斉に亜希子の顔を見上げると、やや慌てたように亜希子が答えた。
「ごめんなさい、突然大きな声を出して。それでこのニュースなんだけど、当時はワイドショーで連日報道していたから、わたしも憶えていたの。確かこの鈴木さんって人、何かの病気で余命数ヵ月じゃなかったかしら」
「病気……だったの?」
「そう。だけど残された余命を擲って、幼い女の子とそのお母さんを助けたんだって。当時は美談で有名だったのよ。確かこの近くに実家があって、お姉さんか妹さんがいたと思うけれど……」
「……」
「でも、どうしてこの人のことを調べようと思ったの? なにか気になることでもあるの?」
その質問に少女3人は曖昧な笑みを返して、そのまま黙り込んでしまうのだった。
◆◆◆◆
「ありがとうございました!」
「また、いつでも遊びに来てね。気を付けて帰るのよ」
さらに30分ほど他の記事も精査した後に、二人は揃って陽菜の家を後にした。本来ならば、もっと陽菜の部屋でおしゃべりしたりする予定だったが、ネットで得た情報の衝撃が大きすぎて、三人ともそうした気分になれなかったのだ。
自転車に乗る気力さえ失った桜子と友里は、自転車を手で押しながらゆっくりと歩いていた。まだ夕方と呼ぶには早い時刻。静かに道を歩きながら、前を向いたままの友里がようやく重い口を開いた。
「本当にいたんだね、鈴木秀人……」
「うん、いたね。それもあたしの家のすぐ近くに住んでた……」
「なんか怖いね……オカルトっぽくない?」
「そうだね、オカルトだよね。やっぱりあたしの前世って鈴木秀人なのかなぁ」
「どうだろうね。まだわからないよね……」
深刻な面持ちで歩く二人の間に沈黙が流れる。桜子と秀人の関係は、単なる偶然と片付けるにはあまりに出来過ぎていた。そしてそれはあまりに理解を超えたものであったために、半ば信じることを感情的に拒んでいたのかもしれなかった。
何となく背中に薄ら寒いものを感じつつ、二人は無言のままそれぞれの家へ帰っていたのだった。
自宅に帰って来た桜子は、ふと思いついて楓子に尋ねてみた。
「あのね、ママ。あたしが赤ちゃんだった時にいた病院って、なんていう名前?」
「……どうしたの急に? なにかあったの?」
突然の質問に、楓子が不安そうな表情を見せる。また学校で嫌なことでもあったのだろうか? 娘が突飛な質問をする時は、必ずその裏に深刻な理由がある。
そんな気持ちを見せないように楓子は努めて平静を装うと、娘の白い頬に掌を添えながら答えた。
「K町にある慈英病院よ。それがどうかしたの?」
「べつに何もないよ。ちょっと知りたかっただけ。それと、もうひとつなんだけど、その病院と桜の花って何か関係あるの?」
「えぇ、あるわ。そこの桜並木はとても綺麗で有名なの。慈英病院は別名『桜の病院』って呼ばれているくらいだわ。ちなみに、あなたの名前もそこから取ったのよ」
「ええっ!? そ、そうなんだ……」
桜子の表情が何か恐ろしいものを目にしたかのように強張り始めた。それを見た楓子は、心配そうに娘の顔をのぞき込んだ。
「ねぇ、大丈夫? 本当に何かあったんじゃないの? 遠慮しないで言ってちょうだいね」
「ううん、大丈夫。本当に何もないから」
そう口にしたものの、桜子の内心ではさまざまなものが繋がり始めて、何かを形作る不思議な感覚に包まれていた。それは言葉にはできないほど複雑すぎて、果たして何が起こっているのか彼女自身も理解することができなかった。