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第14話 誰かの記憶

 6月。

 桜子は6歳になり、幼稚園の年長生として順調な日々を過ごしていた。


 世間はすでに梅雨の時期だが、北の都市であるS町には明確な梅雨というものは存在しない。それでもここ数日はぐずついた天気が続き、外で遊べない桜子は家の中で暇を持て余していた。


 退屈を紛らわせるために桜子が一階の酒屋へ降りていく。そのままレジ横の椅子に腰かけて短い足をぶらぶらさせていると、案の定、客が話しかけてくる。これは彼女にとっていい暇つぶしになるので、雨降りの日は店の中で過ごすことが多かった。


 店が終わったある日の夜。夕食を終えた桜子が祖母の膝の上でテレビを見ていると、画面に大きく京都の街並みが映し出された。それを指差しながら桜子が言う。


「あっ、ここ知ってる。行ったことあるよ」


「おや? 桜子は京都へ行ったことがあったかねぇ?」


 浩司を振り返りながら不思議そうに絹江が問う。それに浩司が首を傾げて答えた。


「いや、ないな。きっと勘違いじゃないか? ――なぁ桜子。お前はどんな所を見たことがあるんだい?」


 歩み寄ってきた浩司が金色の髪を優しく撫でる。それをくすぐったそうにしながら桜子が答えた


「えっとね、着物を着た奇麗なお姉さんとか」


「あぁ……舞妓さんかな? 桜子は舞妓さんに会ったことがあるのかい?」


「ううん、あたしじゃないよ。あたしの中の人が会ったんだよ」


 浩司も楓子も言葉の意味が理解できない。もちろん絹江もだ。もっとも、この年頃の子供はしばしば大人の理解を超えることを言うので、これもその(たぐい)なのかと思って話を合わせてみることにした。


「そ、そうか、中の人か。その人って誰なんだい? 桜子のお友達?」


「うーん……お友達じゃないと思うよ。だってお話したことないもん。――あのね、時々あたしの中に違う人がいるの。その人が見たものをあたしも見れるんだよ」


「へぇ、そうなんだ。それでどんな人なんだい? 女の人?」


「違うよ。お兄さんで学校に行ったり、お仕事にいったりしてたよ。それでね、あたしの家の近くに住んでたの。でも死んじゃった」 


「……」


 さっぱり意味がわからない。ただの子供の空想なのか、それとも別の何かを示しているのか。いずれにしても理解の範疇を超えていたが、桜子がふざけているようにも見えなかったので、茶化すことなく楓子は話を続けた。


「死んじゃったって……どうして?」


「あのね、くるまに轢かれちゃったの。おっきい桜のお花がいっぱい咲いてる病院のところだよ」 

 

 思わず楓子はぎょっとする。あまりに情景が具体的すぎて、およそ子供の空想とは思えなかった。それでも楓子は努めて冷静を装う。


「そうなのね。そういう夢を見たのね、桜子は」

  

「ううん、違うよ、夢じゃないよ。だって時々、起きてる時にも見えるもん」


「……」 

 

 にこにことテレビを見る桜子を、背筋が寒くなる感覚とともに大人たち三人は眺め続けていた。



「なぁ、さっき桜子が言っていたことをどう思う?」


 絹江が自室に戻り、桜子が奥の和室で眠りについた夜更けに、リビングで浩司が楓子へ尋ねた。彼の手にはお気に入りの日本酒のグラスが握られていたが、表情は深刻そのもの。その彼へ楓子が答えた。


「わからないわ。中の人ってどういう意味かしら。何か霊的なもの? まさかね」


「確かにな。だが、ふざけているようにも見えなかったな」


「そうね。たぶん本気で言っていたんだと思う。そもそもそんなことで嘘を吐く子じゃないし」


「あぁ。それにしても、桜の花が咲く病院か……まさか慈英病院のことか? 桜子が保護されたという」


「それはわからないけど……それより気になるのは、その『中の人』というのが亡くなったっていうことよね」


 言いながら楓子がぶるりと身を震わせる。それを見た浩司が薄気味悪そうな顔をした。


「おいおい、頼むから幽霊とかやめてくれよ。知ってるだろ? 俺はそういうのが苦手なんだ」


「知ってるわよ。――まぁ、それはいいとして、桜子にもう少し話を聞いてみようと思う。私も気になるし」 


 すでに時計の針は深夜を示していたが、なに一つ解決に至らないまま時だけが静かに過ぎていった。



 ◆◆◆◆


 

 翌日の小林家。取引先の多くが休んでいるため、それに合わせて小林酒店も日曜を定休日にしていた。

 所詮は個人商店である。たとえ商売にならなくても以前は日曜も店を開けていたが、桜子が幼稚園に通うようになってからは彼女のスケジュールに合わせて休みを決めていた。


「パパ起きて! とっても天気がいいの。お出掛けするよ!」


 現在時刻は午前七時。昨夜遅くまで起きていた浩司は寝不足気味である。しかし朝から桜子の舌っ足らずな声を聞いてすぐに目覚めた。 


「あぁ、天使ちゃん……おはよう……」


「むぅー! 日曜日は早く起きないとダメなんだよ! 一緒にお出掛けするんだから!」


 一緒にお出掛け。それを聞いた浩司が、矢も盾もたまらず飛び起きる。そしてやにわに桜子のすべすべの頬へ自身のそれを擦り付けた。

 

「天使ちゃーん!」


「やー! パパのおひげ痛い! 早く剃ってきて!」

 

 父親の暴虐に娘が大声で抗議する。可愛らしい小さな両手を力一杯押し当てて、そのままぎゅうぎゅうと押し退けた。

 今日も今日とて桜子は愛らしい。頬を膨らませたその顔も可愛らしくて、思わず浩司は食べてしまいそうになる。


 そんな父親と娘の一幕を背後に聞きながら、楓子と絹江が朝食の準備をしていると、そこへ桜子が手伝いに来た。


「パパ起きた?」


「うん、起きたよ。いまおひげ剃ってるとこ。ねぇママ。どうしてパパはおひげがチクチクするの? ママはすべすべなのに」


「あらあら、桜子はパパのおひげが嫌いなの? ママは好きよ」


「うーん、わかんない。でも痛いのはいや」


「うふふ、そうなんだ。それじゃあ、パパにはそう言っておくわね」


 娘との何気ない会話を楽しむ楓子。直後にふと思い出したように告げた。


「あっ、そうだ。ねぇ桜子。昨日のお話なんだけれど、もう少し聞いてもいいかしら?」


 咄嗟に思い当たらず、桜子が呆けた顔をする。しかし直後に「あぁ」と思い出したように口を開いた。


「あたしの中の人のお話? いいよ」


「ありがとう。それでその『中の人』なんだけれど、名前はあるの? いつも桜子の中にいるの?」


「えぇと、名前はわかんない。いるのは時々だよ。でもその人じゃなくて、違う人が出てくることもあるよ」


「違う人? 別の人も出てくるの? どんな人?」


「えーっとね……お菓子屋さんのおじちゃんとか」


「え? 和菓子屋の高橋さん……和泉ちゃんのお父さん?」

    

「そう、おじちゃん。でも髪の毛いっぱいあったよ。いまはつるつるしてるでしょ」


「えっ? 髪の毛があるって……他には誰がいるの?」

 

「うーんと、健斗くんのお母さん?」


「え……? 幸さん? それとも似ている人?」


「健斗くんのお母さんだよ。でもね、可愛いお洋服を着て学校行ってるの」


 状況はますます謎めいていくばかり。けれど当の桜子は至って真面目だった。その様を見ていると、決して嘘や冗談を言っているようには見えなかった。

 ならばもう少し詳しく訊くべきだろう。楓子がそう思っていたときに浩司が洗面所から戻ってくる。そこへ桜子が嬉しそうに駆け寄っていくと、そのまま抱き上げられて頬ずりされた。


「あー、パパのほっぺがスベスベになったねぇー」


 今度は痛くなかったらしい。父親の腕の中で桜子が満足そうな声を上げる。それに浩司が眦を細めた。

 その様子を見つめる楓子の中に、深い思いが巡らされる。


 真相を知りたい気持ちはあるものの、一度に多くを尋ねるべきではない。娘は自分の言葉に違和感を持っていない。無理に聞き出そうとすれば疑問を持ち始めるはずだ。

 それは決して望ましいことではない。急がず、ゆっくりと時間をかけて進めるのが賢明だろう。

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