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第10話 一歳のお喋り

 五月一日、桜子は一歳の誕生日を迎えた。

 その日は浩司と楓子、そして絹江とともに家庭的ながらも心温まるお誕生日会を催した。桜子はまだ何が起こっているのか理解できない幼さで無邪気に手づかみでケーキを食べていたが、その姿が家族の心を幸福で満たした。


 桜子は青いリボンで髪をツインテールにしていた。未だ短い髪のせいでリボンの結び目が小さな角のように斜め上を向いており、その愛らしさは格別である。

 浩司が桜子の姿を熱心にカメラで撮影する。やや過剰なその行動は、楓子と絹江からは苦笑い混じりの視線で見られるほどだった。

 こうして桜子の初めての誕生日は、家族の記憶に深く刻まれた幸せな一日となった。 



 桜子はつかまり立ちを卒業し、一人でどこへでも歩けるようになった。とはいえ、小さな段差につまずいて転んでしまうことも多く、そのたびに可愛らしい泣き声が聞こえてくる。

 浩司は娘の成長に目を細め、桜子を「天使ちゃん」と愛情たっぷりに呼ぶ。その(いささ)かならぬ親バカぶりは周囲が目を見張るほどで、それは時に周囲の迷惑も顧みず、熱心に娘を褒め称える姿は一階の酒屋の店舗からもよく聞こえてきた。


「なぁ、うちの桜子って可愛いだろう? なんてったって天使だからな! あんたもそう思うだろ?」


 浩司が得意げに言うと、


「お、おう……」


 と、その場にいる者たちが苦笑いしながら答えるのが日常となっていた。


 それらは店の客たちの間で笑いの種になっていたが、その愛情の深さは誰の目にも明らかだった。娘への愛が溢れるその姿は、小林家の暖かな日常の一部となっていたのだ。


 桜子は祖母の絹江にもよく懐いていた。浩司が酒の配達や仕入れで忙しい時は、楓子が店番を担当するのだが、そんな時は絹江が桜子の面倒を見る。そして桜子が一人で歩けるようになると、二人の関係はさらに強まった。


 晴れた日に絹江と桜子はよく一緒に散歩へ出かけた。公園の小道を歩いたり、近所の花々を眺めたりしながら、桜子は外の世界を好奇心旺盛に探索する。絹江は桜子の手を優しく握りながら、彼女の小さな一歩一歩を見守っていた。このような時間は、桜子にとっても絹江にとってもかけがえのない大切な時間となっていたのだった。


 二人の散歩は桜子にとって新しい発見に満ちており、絹江にとっては孫の成長を身近に感じる幸せな瞬間だった。この二人の絆は、ともに過ごす時間を通じて日々強くなっていった。

 


 六月の訪れとともに暖かい日々が続くようになり、楓子と桜子は毎週水曜日の午後をあすなろ公園のママ友会で過ごすようになった。最初は参加する母親たちが若いことを心配していた楓子だが、子供の話題は年齢を超えて共通していたため、すぐに彼女も馴染むことができた。


 桜子が白人であることは誰も言及しなかった。恐らく幸が事前に説明していたのだろう。楓子もその話題を自ら持ち出すことはせず、尋ねられれば答える準備はしていたが、桜子は外見的特徴を除けば他の子供たちと何も変わりがないため、無理にその話題を切り出す必要は感じられなかった。


 このように楓子は新しいママ友達との交流を楽しむことができ、桜子も同年代の子供たちと触れ合う機会を得ることができた。公園での時間は母子にとって新しい経験と楽しみの場となっていったのだった。

 

 同年代の友達が増えることで桜子の世界が広がっていく。特にほぼ同じ月齢の健斗とは親しく遊ぶ仲になり、ときには二、三歳年上の子供たちとも交流する機会もあった。これらの経験は桜子の社会性を育む上で大変役に立ち、それには楓子もとても満足していた。


 小林家は自営業であるうえに祖母の絹江も身近にいるので、桜子を保育園に預ける必要はなかった。そのためママ友会は、桜子にとって同年代の子供と触れ合う貴重な機会であり、楓子にとっても他の母親たちとの情報交換や気分転換の場として非常に重要な時間となっていた。

 このようにして桜子と楓子は、穏やかで幸せな日常を過ごしていたのだった。


 

 七月。桜子は一歳二ヵ月になった。

 酒の配達から戻った浩司が二階のリビングに上がっていくと、姿を見つけた桜子が満面の笑みとともに駆け寄ってくる。浩司はその天使のような娘を優しく抱き上げ、愛おしそうに話しかけた。


「おー、天使ちゃん、ただいま! パパ、お仕事から戻ったよ。元気だったかな?」


「きゃはははは!」


 父の問いかけに娘が喜びの声を上げる。浩司が桜子の頬に自身のそれを寄せて幸せを噛みしめていると突然それは起こった。


「うー! ぱーぱー!」


 浩司は動きを止めた。自身の耳を疑いつつも、愛しい天使が確かに「パパ」と呼んだのを確かめる。これは聞き間違いではない。確かに彼女はそう言ったのだ。その驚きと感動を裏打ちするために浩司は再び桜子へ話しかけた。


「桜子、もう一回言ってくれるかい?」


 腕の中の桜子をじっと見つめながら、浩司がやさしく言葉をかける。すると桜子は、首を傾げてはにかむような表情を浮かべた後に小さく「あうっ、ぱーぱ」と繰り返した。


 その一言で浩司の涙腺は限界を超えた。感動のあまり声を上げそうになるが、目の前で不思議そうにしている娘を見て必死に涙を堪える。

 そっと桜子を抱きしめながら、ゆっくりと感謝の言葉を伝えた。


「そうだね、パパだよ。すごいね、桜子はもうお話ができるんだね。パパはとっても嬉しいよ。ありがとう、さくらこ……」


 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった浩司の顔。それを桜子の背中越しに上げると、唐突に絹江と目が合った。視線を外し、何も言わずに一階の店舗へと降りて行く絹江と、何を言っていいかわからずに立ち尽くす浩司。彼の心には娘への愛情と感動、そしてバツの悪さが交錯していた。



その日の夜、浩司は妻の楓子に自分の小さな勝利を宣言した。


「天使ちゃんが俺をパパって呼んでくれたんだぞ。ふはははー!」


「はいはい、それはよかったわね……」


 楓子が苦笑いを浮かべながら答える。彼女の目もやはり呆れたような表情を隠せていなかった。

 しかしその二日後に、今度は楓子が桜子から「まーま」と呼ばれた。最初は聞き間違いかと思ったが、何度も繰り返し呼んでいるのを見ていると、間違いなく「ママ」と言っていることがわかる。


 その一方で、浩司はあの日以降、桜子から一度も「パパ」と呼ばれることはなくなってしまった。その事実に彼は少々の気まずさを感じてしまう。初めて「パパ」と呼ばれた日の感動は未だ心に残っているが、今は少し寂しい気持ちに包まれていたのだ。


 こうした小さなエピソードがいくつも重なり合い、小林家の日々の生活を彩るのだった。

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