3 契約書を読まずにダンジョンマスターになりました
「わたし、魔法が……ファンブルが、出ちゃうんです」
やっと出てきたのは、そんな言葉だった。
頁に字が増える。
――設計に、魔法は使いません。
――ファンブルは、問題になりません。
杖を握っていた手から、少しだけ力が抜けた。
それで少し、考えてみた。
ダンジョンマスターになったら、どうなるだろう。うまく想像はできなかった。
でも、この話を断ったらどうなるかは、想像できた。
あの軒先に戻って、明日もまた、行き先のない道を歩く。そのうち、歩けなくなる。そうしたら、オーケルビーに帰るしかない。
帰れば、父も母も、きっと何も言わずに迎えてくれる。それから、鍛冶屋のニルスとの結婚の話を、何もなかったみたいに進めるのだろう。
結婚したら、あとはずっとあの村で暮らす。攻略者にも、ダンジョンにも、もう関わらない生活になる。
「あの……ダンジョンマスターになったら、ダンジョンに、ずっと関われますか」
――はい。誰よりも近くで。
「……やります」
――ありがとうございます、マスター。では、契約を。
頁が、ひとりでにめくれた。
次の頁の字は、濃藍色ではなかった。錆色の細かい字が、頁の端から端まで、びっしりと並んでいる。
最初の一行の、最初の字から、読めなかった。細い線が絡み合っていて、字なのは分かるのに、何と書いてあるのか分からない。それどころか、じっと見ていると、その線は動き続けていた。
その先は、読めた。
――……は、本契約に基づき、当該ダンジョンの管理権限を署名者に委任する。署名者は、別項に定める義務を負い、
「あの、ここ、読めないんですけど」
――そこには、契約相手の名前が書かれています。人間には、認識の難しい文字です。
「契約相手、ですか」
よく分からないまま、そこを飛ばして、次の行へ進む。権限。委任。別項。第一条の三。読んでいるはずなのに、字が目の上を滑っていく。
三行目を、もう一度読み直した。それでも、さっき読んだのが何だったのか、思い出せない。
頁の右下の隅が、ぽうっと光った。「次へ」と、小さく書いてある。
指で触れると、頁がめくれた。また、錆色の字がびっしりと並んでいる。また、隅が光る。
次へ。次へ。次へ。
何枚めくったか分からなくなった頃、頁の一番下に、細長い枠が現れた。
――こちらに、お名前を。
指先で、枠の中をなぞった。リン、と書いた形のまま、わたしの字が錆色になって、頁に残った。
頁が閉じて、また開いた。字は、濃藍色に戻っていた。
――署名を確認しました。本日より、あなたがこのダンジョンのマスターです。
――なお、第十二条により、マスターには、正体を秘匿する義務があります。
――また、第十三条により、マスターによるダンジョンの攻略は禁止されています。ご自身のダンジョン、他のダンジョンともに。
「え」
――署名済みです。
「え、あの、正体って、誰にも言っちゃいけないってことですか。攻略も、もう、どこのダンジョンにも……」
――はい。第十二条と第十三条のとおりです。
第十二条も、第十三条も、わたしは「次へ」しか読んでいない。
Fランクの攻略者タグは、まだ胸元に下がっている。どうせ、もう使うつもりはなかった。そう思うのに、服の上からタグを握っていた。
――では、さっそく設計に移りましょう、マスター。
頁に、方眼が浮かんだ。
細かい升目が、頁いっぱいに並んでいる。上の端は、マップの一覧の欄らしい。そこに、もう一行だけ、何かが書かれていた。小さな鍵の印と、「最終更新:十五年前」。
「これは?」
――前任者の時代から残っているマップです。コア領域・ナビゲーター権限外。正常な仕様です。
「……正常なら、いいんですけど」
前任者。十五年前まで、ここにも、わたしのような誰かがいたのだ。けれど、頁の字は、もう次へ進んでいた。
――スタートと、ゴールを置いてください。
言われるまま、方眼の左の端に、スタートを置いた。右の端に、ゴール。そのあいだに指で線を引くと、壁と床になった。通路が一本。部屋が一つ。
頁の脇に、手持ちの素材が並んでいる。モンスターは、角兎と、大蛙。内装は、石の壁と、石の床と、灯り。アイテムは、木の剣が一本。それで全部だった。
――ゴールの手前に、ボスを置きましょう。
大蛙の絵に、指を伸ばした。ボスなら、大きい方がそれらしい。
――最初の攻略者には、弱めにしておきましょう。
指を止めて、隣の角兎に移す。ゴールの手前の升目に、一匹。
頁いっぱいに、大きな字が躍った。
――素晴らしい!
「……まだ、一匹ですけど」
字が、すうっと小さくなった。
――素晴らしい一匹です。
笑ってしまった。頁の字だけなのに、感情が見える気がした。
それから、指示通りに角兎のレベルを下げて少し弱くした。
――次は、攻略者のために灯りを設置しましょう。
――灯りのない部屋は、真っ暗になります。
内装の素材から、灯りを選んで置く。角兎の近くに一つ。それと、スタート地点の近くに一つ。
――最後に、アイテムも置きましょう。
言われて、木の剣をどこに置くか考えた。
ここに来る人は、何も持っていないかもしれない。だったら、角兎に会う前に拾えた方がいい。でも、入ってすぐのところに落ちていたら、かえって怪しまれるだろうか。通路の途中なら。曲がり角の先なら。
置いては消し、消しては置いた。グリモワールさんは、そのたびに「素晴らしい」と書いた。
何度目かの置き直しのあとで、頁に一行。
――マスター。外は、夜が明けました。
結局、木の剣は、スタートから三歩のところに置いた。
――公開しますか。
「……はい」
頁の隅の「公開」に触れた。
足の下で、何かが動いた気がした。石の床のずっと深いところで、長く眠っていたものが、寝返りを打つような。
壁の石の板が、光った。
映ったのは、朝の光の中の、石の門だった。草に埋もれかけた石段。門の内側の石の床に、大きな魔法陣が描かれていて、その真ん中に、背の高い石の柱が一本立っている。表面に、字が浮かんでいる。
グルドベリで、何度か前に立ったのと同じ、操作石だった。これでマップを選ぶと、足元の魔法陣から中へ入れる。
――投影石です。ダンジョンの今の様子を、ここに映します。
――十五年ぶりに、ダンジョンが稼働しました。
――続けて、近くにいるちょうど良い人物を、入り口へ呼び出します。
「呼ぶって……わたしのときみたいに、ですか」
――はい。
投影石の中で、光が渦を巻いた。
光が消えると、門の前に、男の子が一人立っていた。わたしと、あまり変わらない年に見える。栗色のくせっ毛が、あちこちはねている。肩に、板を一枚担いでいた。
男の子は、板を担いだまま、ぐるりと周りを見回した。それから、門を見上げて、ぽかんと口を開けた。
『……ダンジョンだ』
門の奥では、操作石の字が光っている。
板が、肩から落ちた。
『ダンジョン、動いてる!』
叫んで、男の子は門をくぐり、操作石に飛びついた。一覧には、マップが一つ。その下に、鍵の印の一行。
迷う様子もなく、一つ目に触れる。足元の魔法陣が光って、姿が消えた。
――攻略者が一名、入場しました。
投影石が切り替わった。わたしが指で引いた線が、本物の石の壁になって、そこにあった。
三歩進んだところで、男の子が、床の木の剣に気づいた。
『剣だ!』
拾い上げて、二度、三度と振る。振るたびに、体の方が剣に持っていかれる。
(拾ってくれた)
握っていた肩掛けの端が、しわになっていた。
通路を抜けると、部屋の奥で、角兎が跳ねた。
『うわっ』
男の子が、剣を構える。構え方が、薪割りの斧のようだった。
角兎が跳ぶ。男の子が振る。空振り。角兎の角が、すねに当たった。
『いってえ!』
(右です、右から来ます!)
聞こえるはずがない。分かっているのに、身を乗り出してしまう。
男の子は、片足で跳ねながら、それでも剣を離さなかった。角兎が、もう一度跳ぶ。男の子は、目をつぶって振り下ろした。
ごつん、と鈍い音がした。
角兎が、虹色の光の粒になってほどけていく。ゴールの魔法陣が、光った。
男の子は、しばらく、光の粒が消えたあとを見ていた。それから、魔法陣の上に立って、剣を高く掲げた。
『やった……やったあ!』
光に包まれて、姿が消える。投影石は、また入り口の様子に戻った。
入り口の魔法陣の上に、男の子が立っている。手には、木の剣。それを握りしめたまま、門を駆け出して、落とした板も拾わずに、村の方へ走っていった。
――攻略者が一名、退場しました。
――魔水晶が生成されました。おめでとうございます、マスター。
人が入って、出ていった。
わたしが初めて作った、ダンジョンだった。
方眼の上には、線が引いてある。その中に、角兎を一匹置いた升目。
頁から、手が離せなかった。




