34話
朝。
祖母の家の縁側には、もう夏の匂いが染みついている。
蝉の声がやけにうるさい。荷物は昨夜のうちにまとめてあった。
「もう帰るのかい」
祖母が少し寂しそうに言う。
「また来るよ」
俺が言うと、祖母は笑った。
「楓、駅まで送ってあげな」
「うん」
楓はいつも通りの顔だった。
昨日の宣戦布告みたいな言葉は、なかったことみたいに。でも、目だけは少しだけ違った。
玄関を出る。
砂利を踏む音。
響は俺の隣を歩いている。秋山はその一歩後ろ。楓は反対側。
駅までの道は短い。でも、妙に長く感じる。
「響」
楓が呼ぶ。
「……なに」
「また来年も来る?」
響は一瞬だけ俺を見る。それから、頷く。
「……東海林が来るなら」
楓が苦笑する。
「重いなぁ」
「……?」
「冗談」
駅が見えてくる。
ホームにはほとんど人がいない。
田舎の空気は、どこまでものんびりしている。
電車が来るまで、少し時間があった。
沈黙。
蝉の声。
遠くで風鈴が鳴る。
「東海林」
楓が俺の名前を呼ぶ。
「なに」
「ありがと」
「何が」
「毎年来てくれて」
少しだけ間。
「それと、ちゃんと選んでるところ」
「何を」
「……自分で考えてるでしょ。流されてるようで」
俺は答えない。楓はそれ以上言わなかった。
電車の音が近づく。
風が吹く。扉が開く。
「じゃあね」
楓が手を振る。
響は小さく振り返す。
秋山も静かに頭を下げる。
俺は軽く手を上げる。
扉が締まり電車が動き出す。
楓の姿が小さくなっていく。
最後まで立っていた。
車内は冷房の風が少し強い。
向かいの席に座る。響は隣。
当然のように腕を絡めてくる。
「……帰っちゃったね」
「そうだな」
「……楓、いい人」
「うん」
「……でも」
小さな声。
「……東海林は、あげない」
秋山が向かいから見ている。その目は静か。
「響君」
「……なに」
「共有って言ったの、忘れてないよね」
「……忘れてない」
秋山は微笑む。
「僕も忘れてない」
俺はため息をつく。
「俺は物じゃない」
「知ってるよ」
秋山が言う。
「でも東海林は、僕たちの“帰る場所”だから」
響が小さく頷く。
電車は揺れる。
窓の外の景色が流れていく。
田んぼが、住宅街に変わっていく。都会の空気が近づく。
響が俺の肩に頭を乗せる。
「……ねぇ」
「ん?」
「楓のこと、どう思ってる?」
直球。秋山も聞いている。
「昔からの知り合い」
「それだけ?」
「それだけ」
嘘ではない。でも全部でもない。
響は少しだけ安心したように息を吐く。
秋山は目を細める。
「帰ったら」
秋山が言う。
「また三人の部屋だね」
「当たり前だろ」
「楓はいない」
「いないな」
響の指が、ぎゅっと服を掴む。
「……東海林」
「なに」
「帰ったら、隣で寝て」
「いつもだろ」
「……ちゃんと」
俺は少しだけ笑う。
「分かった」
電車が最寄り駅に着く。扉が開く。
夏の熱気が流れ込む。
家までの道。三人で歩く。
この並びは、もう日常だ。
玄関を開ける。見慣れた空気。
「ただいま」
誰もいない家に言う。でも。響が言う。
「……おかえり」
秋山も言う。
「おかえり、東海林」
その言葉に、妙な安心感があった。
楓はここにはいない。祖母もいない。でもこの家には、この二人がいる。
響がすぐに抱きついてくる。
「……やっぱり、ここがいい」
秋山も背中に寄る。
「僕も」
挟まれる。
「重い」
「我慢して」
「我慢だね」
結局、帰ってきても変わらない。
いや、少しだけ変わったかもしれない。
楓という存在が、外側からこの関係を照らした。
だからこそ。二人の距離は、ほんの少しだけ強くなっている。
響が呟く。
「……どこにも行かないで」
俺は短く答える。
「行かないよ」
秋山が静かに言う。
「逃がさないからね」
日常がまた始まるのか




