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おいしいアイスクリーム1

 鐘霞はまだ、長い休暇の中にいた。

「小学生の二百円が大人の二万円だという法則に当てはめると、大人の二年はいくらになる?」

「二十円」

「ひどいなぁ」

 髭面の鐘霞を河津は笑う。久しぶりに二人はインドカレーを食べに来ていた。

「これ」

 河津が紙袋をテーブルに置く。

「汚すなよ」

 鐘霞はおしぼりでナンを触っていた指を拭いて、小指で紙袋をひっかけると隣の椅子に移動させ、またナンをちぎる。

「ちょっと見たりさ、これ何? とか聞きなよー」

 河津が文句を垂れる。鐘霞は仕方なく紙袋の中を覗いた。バウムクーヘンが入っていた。

「それ持って会いに行きな。手土産だよ。師巻さんが好きだったやつ。さっき行った物産展で見つけて買った」

 鐘霞は迷惑そうな顔をした。店員が食後のマンゴーラッシーを運んで来た。

「忘れられない事は大事にした方がいい」

 先に食べ終わっていた河津はマンゴーラッシーを飲んだ。

「髭は剃れよ。似合ってない」


「技術は進化する思いやりです」

 信号待ちにビジョンを見上げる。NOWAKIのコマーシャルだった。鐘霞はすぐに顔を背けた。

 鐘霞は久しぶりに電車に乗った。すっきりした顎を無意識にさわる。隣のサラリーマンがスマホで記事を読んでいる。

〈ヘリコプター墜落事故から二年。元ホテルオカミのオーナーを追悼〉

 肩をすくめ、鐘霞はしばしまぶたを閉じた。

 タクシーを使い、坂星家に来た。ここまで来たのに鐘霞はインターホンを押すのをためらった。人の気配に鐘霞は横を見る。セーラー服を着たコノメが立っていた。コノメはこわごわとお辞儀をした。鐘霞もお辞儀を返す。坂星家を見て、コノメを見て、鐘霞は坂星家を指差した。

「ここの家の子?」

 コノメは頷いてから「はい」と返事をした。

「ひな、」

 鐘霞は「日永」という名前を飲み込む。

「登君の知り合いで、会いに来たんだが」

「知りません」

 コノメの返事は早かった。コノメは鐘霞を警戒していた。鐘霞はポケットから手を出す。コノメは驚き、跳ねた。

「お父さんに聞くから、待って!」

 コノメは逃げるように家の中に入った。びっくりするぐらいビビりで口の軽い子がいると鐘霞は河津から聞いていた。けれど、ポケットから手を出すだけで逃げられたのには、鐘霞はショックを受けた。

「こんにちは」

 ヒバリが出て来た。鐘霞は頭を下げる。

「鐘霞と申します。あの、二年ほど前に、」

「河津さんのお知り合い?」

 ヒバリが聞いた。鐘霞は一瞬面を喰らい、なぜか紙袋を持ち替えた。

「はい」

「お電話を頂いてます。中にどうぞ」

 鐘霞は何とも言えない気持ちになった。


 ヒバリがバウムクーヘンを切り分け、コーヒーと一緒にテーブルに出す。ダイニングテーブルの半分は紙と本で埋まっていた。

「申し訳ない。ここで仕事をしているもので」

 ヒバリが謝る。コノメは二階にいた。

「いえ。いただきます」

 鐘霞はコーヒーを飲む。

「大変なんでしょうね。誰も理解できない言葉を訳すのは」

 当たり障りのない会話の入り口に鐘霞は触れた。ヒバリはコーヒーの香りを味わいながら微笑んだ。

「言語が何でも、言葉は難しいです。かたちのない感情を共通認識のものに置き換えるんですから。私らは途方もない事を日々やってのけてるんです」

 鐘霞は弱々しく頷き、バウムクーヘンを口にした。

「二年前のあの日、師巻さんがうちに来ました。登はいるかと。いるならいいと、帰って行きました。まあ、気づかないうちに逃げられていたんですけどね」

 ヒバリが笑う。

「亡くなったそうで」

「はい」

「ヤマネのせいでしょう」

 それが冬野博士の名前であることを思い出すのに鐘霞は少し時間がかかったが、顔には出さなかった。

「あいつがよくない事をしていたのはなんとなく知っています。深くは突き止めなかった」

 ヒバリはヤマネを思い出す事に懐かしいと感じたことはなかった。それでも、精神を揺さぶる一部である事に代わりはなかった。

「冬野博士とは、間際まで交流が?」

「最後に会ったのは、あいつが死ぬ二年前です。登がえっと、十歳の時かな。その二年間、登は書類上、うちに住んでる事になっていたんで。ヤマネとは電話でやりとりはしていましたが、直接会ったのはそれが最後です。あいつとの関係は全部説明ができません。察してくれます?」

 鐘霞が頷くと、ヒバリは笑ってごまかした。

「ヤマネと冬野泉がどういう風に出会って、寄り添ったのか、俺には知りません。ヤマネの父が、民間の軍医だった事と、ろくに学校へ行っていないのにヤマネは天才で潤沢に使える研究費用があった事。それが世間にはうしろめたい行為だった事。曖昧ですが、知っているのはこれくらいです。あ、あと、未来の進化を期待するのに、進化を生み出すものをないがしろにすると零していた時がありました。私が知っているので愚痴を言ったのはその時ぐらいです」

 鐘霞は二階を気にする。

「先ほどの娘さんは?」

「ああ、コノメは冬野泉の次に結婚した人の連れ子です。病気で、私と結婚して一年ぐらいで亡くなりました」

 リラ・シドイの翻訳の仕事の打診を受けて、ヒバリが帰国してしばらくしてコノメの母親と出会った。住みはじめたばかりの賃貸のマンションでヒバリは思いつめた顔でコノメの手を引き、エレベーターに乗った母親を見た。同じ階の住人で、エレベーターが上昇しているのに気が付くと、ヒバリは非常階段を駆け上がった。案の定、母親は娘を抱いて飛び降りようとしていた。呼び止められた母親は逃げようしたが、ヒバリは柄にもなく追いかけて話をさせた。病気になり、頼れる相手がいない事を吐露した母親はごめんなさいと泣き叫んだ。コノメは黙って母親の指を握っていた。ヒバリは、じゃあ結婚しましょうと無意識に言った。絶望していた母親はドン引きした。それからパスポート見せたり、通帳見せたりして彼女の人生を見送る頃にはコノメの母親と友人にはなれたとヒバリは思っている。自分がここまでしたのは、完全にヤマネのせいだとヒバリは決めつけている。

「仲のいい、兄と妹です。登が中学に馴染めなくて家にいた時は、一緒に勉強してましたよ。このままずっと登はこの家にいると思ったら、高校進学を機に一人で暮らしたいと。弟がずっと気がかりなんだと言って。ここにいたら会いに来ても、気を遣って帰ってしまうだろうからと。月に三回以上顔を出すことを条件に、許しました。帰って来なかったですけど、あいつ。ふふっ、こんなに線が多い家族、驚きますよね」

 ヒバリは声を立てて笑った。鐘霞は黙っていた。

「登は広場で移動販売車のアイスクリーム屋をやってます。アルバイトで相当溜め込んだみたいで。頑張ってたんですねぇ」

 鐘霞は曖昧に頷くしかなかった。ヒバリは鐘霞の様子を見て、ダイニングテーブルに寄せたリラ・シドイの手書き原稿のコピーを見る。そして言葉を発した。鐘霞には呪文にしか聞こえなかった。濁音が混じっていた気がしたが、透き通った響きの言葉だった。

「最近までこの言葉に繋がる日本語を探していました。なんとなくの淋しさ、賑やかで美しく、瑞々しさに囲まれているのに憂鬱に心が縛られて、後ろばかり見る。お金が稼げるようになったのに死について考える。多くの人間の幸福を願わずにいられないのに、チョコレートの味を拒絶できない。そういう眩しいもやもやっとした言葉がないかと」

「見つかったんですか?」

 鐘霞は尋ねる。

「春の恨み」

 ヒバリが見つけたのは春の季語だった。

「春愁や春かなしと同じ意味です。でも選ぶなら、春の恨みなんです。この言葉を見る度に、俺はヤマネを思い出します」

 登とコノメをはじめて会わせた時、子ども達はブランコを並んで漕いでいた。その風景をヤマネとヒバリは並んで眺めた。ヤマネは登とコンビニに行った時の話をおもむろにはじめた。好きなお菓子選んでいいと言ったら、自分と一緒のバウムクーヘンを選んだ。家に帰って、掃除や洗濯物を干していると登がずっと自分を気にしている事に気がついた。一緒に遊びたいのかと思って、今日はこの後仕事があるから一人で遊んでと伝えたら黙って部屋に帰った。家事がひと段落し、キッチンを覗くと出した覚えのないコップがふたつあった。ヤマネは寝室を覗いた。登は眠っていた。手にはバウムクーヘンが握られていた。そこで一緒に食べたかったんだとヤマネは気がつき、息子の頭を撫でて頬擦りをした。

「自分が頬擦りをする人間になるなんて信じられなかったとか、頼りない体だけどこんな僕でも肩車ができるんだとか、愛おしく語るのに顔は、どう見ても悲しみに満ちているんです。自分を恨んでいたのかもしれないですね。予想ですけど」

 過去の失敗は生活の残像になる。ふい打ちにいつまでも精神を苦しませる。その逃れられない残像に、寄り添えはしない。馴染ませるような、曖昧と明瞭を狂わせて、諦めの手前で眠ってしまい、やり過ごす。

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