理想の嘘
「不透明な窒息を起こしていたのは、あの水から発生する酸素だ。電気分解か何か、仕組みは俺には分からない。でも水事態は無害だ。たぶんだけど、水素が解脱剤の役割を持っていたんじゃないか? 解脱って言うのはおかしいか? でも、解毒よりはしっくり来ると思うんだけど」
河津は鐘霞の傍らで、バナナを食べた。見舞いで持って来たフルーツ籠から河津は頂いた。鐘霞は、仮時という名前で殯の信用を得て、死んだ事にしていた友人に対して、怒りを忘れるほどに疲れていた。からだが怠いのに、浅い眠りを繰り返すしかないぐらいに全身は痛かった。けれど、考えるという行為がこの病室を空しさで包むため、話を続ける河津が有り難かった。
「殯は水を売る新しいルートが欲しかった。冬野博士が水の次に発明した、自白剤に近いあの薬で稼いでいる人間を捜した。目星は付いていたが、核心には辿りつけなくて、元被験者の加瀬陽一を買ったんだ。空港での受け渡しの時に、俺が殯より先に師巻さんに見つかるようにした。結局、死なせてしまったけど」
河津はバナナの皮をゴミ箱に捨てた。その音が静かな病室によく響く。
「人が死ぬかもしれないってあんなに怖いんだな」
殯の空気ボンベは河津が細工をし、満タンに見せかけて中身は数分しかもたないように抜いていた。殯より先にコテージに辿りついた鐘霞と河津は、先にあの裏のサイコロの小屋に入り稼働させた。冬野博士が発明した酸素こと、盲信疑似元素の濃度を上げ、暗乱を唱えても正気に戻りにくい環境にした。力で勝てない相手への藁にも縋る方法だった。殯と日永が小屋に入って、河津が外から施錠した。そして鐘霞に言われ、河津は五分待った。五分待って駄目ならコテージに火を付けて大事件にしろと鐘霞は河津に言っていた。
「あの五分はきつかった」
「ざまあみろ」
鐘霞は悪態をついた。どんな事情があれど、死んだ事にされた事を鐘霞は根に持っていた。
「ずっと欲しいものが目の前に来た時、人間は油断する。それでも殯にとってその油断は一瞬の隙だ。一瞬の隙に潜り込むには長い信頼がいる。師巻さん曰く、俺は長い信頼を築いたような思わせぶりが上手いんだとさ。殯は何でも自分でするからね。ボンベの細工、命がけだったんだから」
河津は苦笑する。
「日永は?」
「保護者の方の所に戻ったよ。しこたま怒られてた」
河津は優しい顔をした。その顔を無表情で鐘霞は眺め、言った。
「そうか」
寂しい安堵だった。
「事情は僕が上手く説明しておいた。日永は怪我がなかったから安心して」
「そうか」
自分だけ無傷な事に、何を考えているか鐘霞は想像して、すぐにやめた。
「ありがとう。ごめんなさいだって」
日永の伝言に鐘霞は黙って、息を吐いた。
「殯は諸外国から裏で身柄を要求されていた。不都合な存在だが、利益もあった。でもやっぱり不都合が大きい。関わった人間は間接的に戦争を斡旋していたと言えるからね」
「じゃあ、次は俺らが不都合な存在になるって事だな」
鐘霞がフルーツ籠からオレンジを取る。それを河津が横から取ると、剥いてやる。
「殯の死体は金になる。俺は殯の隠れ家も知っていたからね。俺とお前には長い休みが貰える。あと、沢山のお金もね」
「弥生はこれからどうすんだ?」
「しばらくは大人しくするよ。隙を見てまた取材でもする。当分は、師巻さん達の事に時間をかけるよ」
河津はオレンジを鐘霞に渡した。鐘霞はすぐに口に運ばず、みずみずしい鮮やかさを見つめた。
「足に怪我をした竜天を真っ先に病院に連れていった事は後悔してない。そのあと、すぐにコテージ行ったから、殯の息の根を止められた。管野君を見捨てたと思われても仕方ない。室崎さんだって、俺がもっとうまく立ち回れば助けられたかもしれない。風花ちゃんも。日永の存在は博打だけれど、事態を終わらす幸運でもあったと思う。それなのに俺は、ほとんど何も防げなかった」
鐘霞はオレンジで喉を潤し、言った。
「助けられた。防げた。どうにかなった。全部、嘘だ。理想の嘘だ」
それでも忘れられないだろうと、鐘霞は未来が憂鬱だった。




