裏庭でがむしゃら2
裏庭は特別だった。淀んだ静寂の真夜中、軽四はコテージに着いた。殯は拳銃を日永に見せた。
「僕から離れたらいつでも撃てるから」
日永は目線だけで返事をした。水が確実に確保できると分かるまで、殯は日永を死なせるつもりはなかった。殯はコテージに向かう。日永は歩かない。殯が立ち止まり、ふり返る。日永は指さす。
「裏庭だ」
殯はしばし動かない。そしてすぐに、日永を通り過ぎ軽四のトランクを開けた。空気ボンベと工具入れを出す。空気ボンベがあるのは日永にとって不運だった。殯が懐中電灯を日永に向ける。日永は眩しさに目をすがめる。
「なんか残念そうな顔してる?」
笑いながら殯は明かりをそらし、歩き出す。日永のかすかな記憶には「裏庭の時間」があった。苦痛だった記憶はない。砂場と同じような遊び場のひとつだった。でもそれは、今考えると「不透明な窒息」への耐性をつけるための時間だった。殯には耐性はない。けれど暗乱があるはずだと、日永は考える。空気ボンベがなければ、自己忘却の間に殯を殺せるかもしれない。日永は息を飲む。
「これは、昼間に見たかったな。異物感満載だよ」
森の中に四角いそれはあった。真夜中で、輪郭ははっきりしないがきっちりとしたサイコロ型で、年月の植物と土砂がそれをくすぶらせていた。
「これ、中に入れるよね?」
それに入る時、日永はだいたい父親の胸の中だった。肩車だった事もある。それは優しさだったと言える。けれど、その優しさがなければ、今日ここにいなくて済んだのにとも思った。死なない人間は沢山いたと。
「あった」
殯が南京錠を見つける。工具を使い、いとも簡単に壊す。殯は空気ボンベを背負い、マスクを付けた。ドアを開けると、すぐさま日永を押し込んだ。日永はよろめきながら中を見渡す。すぐそこに水流があった。川のようにさらさらと流れている。
「十年以上機能してるって事? 凄いね」
殯は素直に感心した。日永はいつもと違う感覚だった。池。湖。海。澤。渚のコテージ。汝は三時男爵の吹き出し。その先にはクジラ。それは全部壁にヤマネが書いたものだった。
「登はまだ小さいから。僕が君の言葉を考えるんだ」
桃の缶詰を日永は父と半分こにする。ザトウクジラが好きになったのは、父親に教えてもらったからだろうか。カレンダーはいつもヤマネが買ってきた。クジラがいるのをわざと選んでいた。
「この先、いくつになっても、ここを登の思い出に残しておいて。矛盾だけどね」
「ムジュンってなに?」
「聞き返して欲しくない言葉」
ヤマネは淋しく笑う。ああ、それも思い出だ。裏庭の。
「サンズイのスリーステップを踏んで、ザトウクジラの砂糖売りから買った、薄笑いの黄桃の甘露煮」
日永は咳き込む。正気を戻しても息が苦しかった。
「なんだ。窒息しなかったのか」
中央にあったタンクに触れながら殯が同情した。耐性のある自分がこれだけ苦しいなら、殯のマスクを脱がせれば勝てるかもしれない。日永が目つきを変える。殯は笑って言った。
「そういう顔は隠さないとダメだよ」
マスクをした鐘霞が背後から殯の頭をシャベルで叩いた。殯がよろめき、その隙に鐘霞はがむしゃらに殯のマスクをずらした。殯が動かなくなる。
「道連れ瞑目、以後落後! 俺は天国へ行く!」
鐘霞が吠えた。鐘霞は日永の腕を掴むと出口へ急ぐ。
「目抜き通りの目配せの散策、沙羅双樹の眠りに沈み、粗茶の愛撫の夕暮れや、狂い咲きのくるみ囃子」
ふり返る前に鐘霞は殴り飛ばされた。日永は殯の空気ボンベに飛びつこうとするが、すぐに拳銃を向けられた。鐘霞がタックルをする。すぐに鐘霞の肩は撃ち抜かれる。鐘霞を横に転がし、殯は立ち上がる。
「楽に死にな」
殯はひとり外へ出ようとするが、ドアが開かなかった。さすがに殯は表情を変えた。その間に鐘霞はスコップを拾い、日永を連れてタンクの裏に移動した。
「まだ意識はあるか?」
日永は頷く。
「でもこの濃度だとお前も厳しいな。普通にやったら俺らみたいな一般人は殯には勝てない。だから、待つんだ」
鐘霞はマスクをはずすと日永の口に付けた。鐘霞は息を止める。殯が勘付いて、タンクの方に戻って来る。日永は首を横に振って、マスクをはずそうとするが、鐘霞が離れた。殯が影になる。なぜかマスクをはずし、口を押えていた。鐘霞が再びスコップで殯を殴る。殯が鐘霞の腹を撃つ。鐘霞は倒れたが、殯も大きく息を吸って動かなくなる。日永は、倒れる二人に駆け寄る。
「目抜き通りの目配せの散策、沙羅双樹の眠りに沈み、粗茶の愛撫の夕暮れや、狂い咲きのくるみ囃子」
殯の口が動く。日永は空気ボンベで殯の顔を殴った。殯は動かなくなる。殴られたからではなく、不透明な窒息だった。
「鐘霞さん!」
測れば脈はあった。日永はマスクを鐘霞にあてるが、動く気配がない。自己忘却が終われば窒息死する。何分経ったんだと日永は焦る。
「起きて! 鐘霞さん!」
鐘霞を揺すれば、ブレスレットが日永の目に入る。
混ぜたら紫になるから色合いはいいはず。
水素と酸素の化合物。水蒸気。水以上でも、水以下でもない。
日永は鐘霞からマスクを取ると、立ち上がり、走る。そして、両手を器にして流水から水を汲んだ。そして、鐘霞の口に運んだ。もう一度繰り返す。もう一度と思った瞬間、ドアが開いた。空気ボンベを背負った男が迷いなく鐘霞の所へ行くと、担いだ。そして水を汲む日永に一瞥すると、目線を外に向ける。男は鐘霞を外へ運んだ。日永も外へ出る。男は鐘霞を寝かす。
「生きてるな。良かった」
「誰?」
日永が警戒心を抱く。
「ハンドクリームの腹の具合、バウムクーヘンの夜明けに寄せては返せない、アルミニウムの荷造りひも」
河津はそう言いながら、鐘霞の手当てをする。日永は胸をなでおろし、座り込んだ。
「ここはね、坂星コノメちゃんが教えてくれた。ちょっと脅したらあの子すぐ喋ったよ。これからは秘密をあの子に話さない方がいいんじゃない?」
河津は助言した。日永は泣いた。
「秘密なんかもういらない」
日永はしゃくりあげながら手伝えることはないかと河津に聞いた。




