優しいだけ2
血の跡に日永はフルーツサンドを置いた。真昼なのにその部屋は真夜中の様な心細い薄暗さがあった。
「腐るだけだよ」
びくついた日永はふり返る。殯が人間を引きずっていた。息がつまる瞳孔で日永は誰か確かめた。殯は管野の左足を掴んでいて、日永の近くまで引きずってきた。
「右足と右腕だけ折ってる」
日永は青ざめる。管野が喉をヒューヒューならしている。今にも消えそうな蝋燭だった。日永はすり足で近づく。
「死んでないから。それで、場所は?」
「管野を離せ。管野から離れろ」
日永は自分がちゃんと喋れているか自信がなかった。喉に空気がガサガサとただ擦れているだけなのではないかと、あ、あっと声を出そうとする。殯が管野の左足を離す。管野の呻きが響いた。殯は日永のつま先が踏めそうなほどそばに立つ。威圧的な存在が、日永への光を遮る。日永はポケットから折りたたんだ紙を殯に見せた。
「これに書いてある」
「嘘じゃない?」
「これじゃなかったら、俺にはもう分からない」
「開いて僕によく見せて」
管野は殯を睨む。殯の瞳以外が影になっていた。冷たい指先で、紙を広げる。余白ばかりのその隅に、殯は文字を見つける。そして、笑みを零した。
「優しい字だ。彼にもこんな不安で優しい字が書けたんだね」
殯は素直に感動した。日永は広げたまま、殯に紙を押し付ける。
「渡すな! 渡すと、お前も、用済みだ! 死ぬぞ!」
管野が目を見開き、からだを震わせ、濁り声で叫ぶ。殯が銃を二発撃つ。管野が呻き、叫ぶ。
「やめろ!」
日永は管野に覆いかぶさる。
「死んでないって」
殯の手からいつの間にか銃が消えた。管野の腹からだくだくと血が流れる。日永の服が血で汚れる。日永はどうしていいか分からず、呻いた。
「なんで、なんで。なんでだよ」
日永は泣きそうになりながら繰り返した。
「僕の目的の事?」
殯が聞き返す。殯の目的なんてことは今の日永の頭にはなかった。管野がなんでこんなつらい目に遭わなければいけないのか、それが許せなかった。それでも殯は、自分の話しやすいように解釈した。
「理想の世界を創造したいとかじゃないよ。理想の世界なんてもういらない。理想の僕が欲しい。人の理想が僕になるのも嫌だよ。理想の僕を叶えるには、強さがいる。人間の命が大量に奪える権利は、金より強い」
殯は日永の肩に手を置くと、腰をかがめて耳元で囁いた。
「登君には僕と一緒について来てもらう。少し待っていて」
殯は背筋を伸ばすと、また手に戻った銃を入り口に向けた。だが、すぐに下げた。
「つらそうだね。気配が漏れてる。今出て来ても僕にやられる。分かってるね。可哀想に」
殯は開いたドアの向こうに足を向ける。横になって出て来たオータスが下から撃つ。殯は虫を避けるようにそれを避けた。オータスはすぐに壁に隠れると立ち上がり、逃げる。足音が反響し、遠ざかる。
「説教しに行くから、ちょっと待ってて。すぐに迎えに来るから」
殯が部屋を出ていく。足音は鳴らない。菅野の左手が日永の手に触れ、ずれ落ちる。そしてまた浮かし、自分のズボンのポケットを握ろうとしたがすでにその力もなかった。
「こ、こ」
菅野が喉を震わす。日永は察して、ポケットの中を引っ張り出した。出て来たのは白、透明、それぞれのブレスレット。もうひとつ、畳まれた色の付いた紙だった。菅野は口を動かす。歯がかちかち鳴る。苦しい呼吸が言葉を邪魔する。何もかもを伝えるには、もう菅野の息も声も足りなかった。
「菅野、菅野」
日永が縋り、呼びかける。菅野が日永を見つめ、強張る筋肉を無理矢理持ち上げようとした。そして、声を漏らす。日永は震える唇に耳を近づけた。
「あざラッシー」
日永は思い出し、菅野の顔を見た。菅野は必死に笑った。そして、痛みを手放した。
「菅野、やだ、菅野」
頭のどこかで理解をしているけれど、日永は菅野を揺さぶる。血まみれになりながら縋る。頼りになる名前を何度も呼んだ。嗚咽が止まらなくなる。日永は菅野に覆いかぶさった。ふたつのブレスレットを握りしめる。
「ごめんなさい」
心臓が逃げろと打ち叫ぶ。それでも、日永の威嚇のような唸りが床を這う。落ちた紙をみる。四つ折りのそれは折り目の間に空洞を持っていた。オレンジ色が見えた。日永は紙を取り、広げる。オレンジ色のザトウクジラの絵だった。ところどころ、黒い染みのようなものがある。日永は裏返した。
登へ
俺の脳みそを頭からひっぱりだして、ダイヤモンドみたいに光って、ぬいぐるみのワタよりもやわらかいところが、登と過ごした時間だ。登の弟になった日から、登の鼓動が俺の呼吸音だった気がする。
ぜんぶなんとかなったら、アイスクリーム屋になるつもりだった。売るのはキャラメルアイスだけ。ワゴンのアイスクリーム屋で登を迎えに行って、仲直りするつもりだったんだ。けどもうムリだから2個だけ伝えとく。
俺はヤマネを殺してない。自殺だった。あと、登にも暗唱乱文はあるよ。ヤマネはかならず登の命を守るものをぜんぶ持たせるはずだから。それだけ。
「反抗期は潮時?」
殯とオータスは踊り場にいた。オータスは壁に背を預け、座り込んでいた。荒い息が響く。口は血で汚れていた。
「反抗期じゃなくて反旗だよ」
オータスが言い返し、鼻を鳴らした。
「野良猫だったお前に高いご飯をあげて、毛並みを整えてあげたのに」
殯が嘘くさく嘆いた。
「同情換算しろよ」
オータスは皮肉を吐く。
「今さら幸福に寝返れるとでも?」
「できることなら」
それは強がりだったが、オータスの本音だった。我慢を続けるにはオータスには時間が足りなかった。殯はまた気高く嘆いた。
「僕の悪意が傷ついた」
銃声が聞こえた。日永は着ていたブルゾンを菅野にかけた。手首に三色のブレスレットを並べ、階段をおりる。二階の踊り場に殯は立っていた。オータスはもう動かない。喧嘩をしたわけではなかった。けれど、仲直りは必要だった。
「ひどい顔」
殯は日永をからかった。
「行くよ」
当たり前のように殯は言った。日永は耳珠を押えてまぶたを閉じる。溺れている気分なのに、苦しいのに、呼吸ができる。




