初出社と階段1
加瀬陽一は、白いスケッチブックいっぱいを黄色いクーピーで塗りたくった。その上を持ち替えた青色のクーピーで塗り重ねれば、一面はまだらな緑色になった。
「これは塗り絵か?」
師巻は尋ねた。
「グリーンピース!」
加瀬の満面の笑みが、師巻のサングラスに映る。師巻は髭に囲まれた口を大きくニヤリとさせた。
「俺はグリーンピースが大嫌いだ!」
「僕も!」
二人はうるさく笑い合った。隣に立っていた小春は作り笑いをひとりでこぼし、俯いた。革靴の踵がすり減っているのに気が付き、新しい靴を買うことを考えていた。
「加瀬陽一。九年前に火事で死んでいる。当時六歳」
加瀬の病室を後にし、師巻と小春はカウンセリングルームで待たされた。
「じゃあ、あの子十五歳ですか。それにしても、喋り方も言動も幼いっすよね。中身は五歳児ぐらいな感じ」
小春が言った。サングラスのすき間から師巻のまつ毛が瞬いたのが見えた。
「精神が幼児化している。自分のことも覚えていない。二週間前に空港で発見されてから、ずっと。この五年の間に海外に連れ去られていたんだろう。なおかつ九年間、碌なことはなかった。分かるのはそれぐらい」
師巻は椅子にだらりと背を預け、両腕をぶらぶらさせる。やりきれなさを通り過ぎるのには慣れないけれど、うまくはなったと師巻は自覚している。
「なぜ、師巻さんが保護を?」
「あの子の顔を五年前、冬野博士のマンションで見た。子どもの成長は見違えるものだが、なんせ俺はプロだからな。分かるのよ。凄いのよ」
喉を揺らして師巻は笑う。
「そうですね」
小春は半分本心、半分適当な相槌を打った。
「いやあ、うちの会社は強いね。色々もみ消して、融通をきかせてくれたよ」
「ひたすらに怖いですけどね」
小春はぼやいた。
「しょうがねぇじゃない、小春。怖さを持たねぇと、知りたい事も知れねぇからな」
ドアが開く。井町医師が申し訳なさそうに現れた。すみれ色のブラウスに黒の長いタイトスカートをはいていた。髪は低く後ろでまとめている。
「お待たせしました。申し訳ないです」
井町は、謝りながら椅子に座った。
「いいえ、お忙しいところにこちらが邪魔しに来てるんですから」
師巻は椅子を前に引くと、姿勢を正した。
「毎回同じことを聞きますが、冬野博士の子どもから連絡とかは?」
師巻が尋ねると、井町は首を横に振った。
「前に聞かれた時と同じです。あの子が十歳の時に離れたきり。私だって心配しています。数年しか一緒に暮らしてないけれど、親の気持ちはあります。親友の残した宝ものですし、あの子が描いてくれたわたしの似顔絵、ずっと額に入れて飾ってるんですから」
井町は、やりきれなさそうにした。
「責めているわけではなりません。すいませんね。こちらも捜してるもんで、恒例行事というかなんというか」
「わかっていますよ、師巻さん」
頬杖をついて、井町は表情を和らげた。
「加瀬陽一のことも押しつけて。先生サマサマです」
せっかく和らげた表情を、師巻は不機嫌にさせた。
「持ち上げればいいってもんじゃありません」
「難しいですな」
師巻は笑ってごまかした。
「陽一君はいい子ですよ。ああなっているのはストレスかトラウマが原因でしょう。何か思い出した素振りを見せたら、ご連絡しますよ」
「助かります。ありがとう」
師巻は心から礼を伝えた。
歩道の楓は紅葉にはまだ早かった。師巻と病院を出た小春は尋ねた。
「質問なんですけど、井町医師と冬野博士の関係は?」
「ああ、小春は井町先生に会うのはじめてだったな」
駐車場までの道を歩きながら、小春は頷く。
「井町先生は冬野博士の奥さんの友人だった人だよ」
「だった?」
「息子を産んですぐに奥さんは亡くなっている」
小春は師巻が冬野博士のひとり息子を捜すことに対して、静かな執念を燃やしているのは日々の仕事ぶりで嫌でもわかっていた。
「前に話していた、冬野博士が海外にいる間、息子を預けていた人がもしかして井町医師のことですか?」
「そう。五年くらいな。まあ、息子ができる前もほとんど海外育ちの海外暮らしだった人だ。迎えに来て、その二年後に冬野博士は死んだ。そして俺はその息子を逃がしてしまった。俺のことを怖がってな」
小春は師巻のサングラスを見る。五年前、子どもに逃げられたのが堪え、師巻は目を隠すためにサングラスをかけるようになった。さらに怖みが増したんじゃないかと小春は思っていたが、言わないのが優しさだと知っていた。
「髭も剃ったらもっとよくなるんじゃないですか?」
小春はアドバイスをした。
「髭はポリシーだよ」
師巻は言い返した。
「あの子はいい子だったよ。悪魔になってたら怖いねぇ」
「怖いもんばっかですね、師巻さん」
「歳をとると怖いもんが増えるんだ。小春が彼女に振られるのも怖いし、小春の天パも怖い」
「彼女はいませんし、人の髪型は馬鹿にするもんじゃないです。生まれ持ったポリシーですよ」
「ごめんなさい」
師巻は素直に謝った。




