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家族そのいち5



 書斎のデスクの引き出しからヤマネはファイルを抜いた。二年前までしていた研究の資料だった。被験者の中にひとり、加瀬陽一という日本人の子どもがいた。この子どもは病院という環境がストレスだったせいか、薬がよく効いた。薬が完成し、やる気がなくなった時、ヤマネは逃亡した。被験者達がどうなったか、ヤマネは知らない。無責任どころの話ではないが、もうヤマネは終わりを望んでいた。自分の信念は全部他人の金になった。甘すぎた代償は、ヤマネにはもう払えなかった。

 ヤマネは書斎を出てキッチンへ行く。棚にバウムクーヘンをしまう。オータスはダイニングテーブルに座って、いつものように登のスケッチブックを眺めていた。

「そんなに見て、よく飽きないな」

 ヤマネは話しかけた。オータスは返事をしない。ヤマネは棚から桃缶を出すと、缶切りで開ける。ギコギコと上下に腕を動かす。その音が沈黙の部屋に響く。ヤマネは缶切りを置く。

「もう、自分を取り戻してるんだろう?」

 オータスはゆっくりとヤマネを見る。ヤマネは引き出しからフォークを出す。缶のまま、しゃぶりつくように桃を食べた。ベタベタと口元を汁で汚し、シャツの裾で拭う。

「寂君の遣いだからね。追い返せない。本人が来ないだけずっと良かった。でもよく薬を飲み続けたね」

 オータスはこのマンションに来る前に、ホテルで一週間、ヤマネの出す薬を飲み続け、表現退化を受け入れた。

「本当に効くのか試したかった」

 オータスは言った。

「寂君の耳にはなんでも届くね。さすが殯夫妻の息子、人脈が途絶えないんだね」

 断ち切れないの間違いだとオータスは心の内で訂正した。ヤマネは桃を口に運び、長い咀嚼をする。

「殯は水が欲しいと言っている」

「沢山あげたけどね、あの夫婦に。僕の要望通りには使ってくれなかったみたいだけどね」

「あの水のレシピを知りたいって言ってるんだ」

 水のレシピ。おかしな言葉だけれど、愉快でいい響きだとヤマネは思った。

「あれは失敗作だ。君に使った薬の方がいい」

 ヤマネは桃を食べ終えて、手を洗う。タオルで丁寧に手を拭くと、書斎から持って来ていたファイルをキッチン越しにダイニングテーブルに投げた。

「もうとっくに見ていると思うけど、それを持って帰るといい。寂君なら理解するだろう。できなくても理解できるツテがあるはずだ」

「水がいる」

 ファイルを見ながらオータスがいる。

「もっと早くその話を切り出せば良かったのに。登がいない時間は沢山あっただろう」

 オータスは黙る。スケッチブックを閉じる。

「登に情を持っただろう?」

「殯ができるならヤマネを仲間にしろと。俺について来たらいい。その方がいい」

「そうしないと君が僕を殺さないといけないからね。僕はね、死ぬのは怖くない。死ぬことより死体を見る方が怖い」

「水はどこ?」

「なんで君をうちで生活させたと思う?」

「頭がいいやつの考えなんて知らない」

「登を殺させない為だ。あの子は優しい。ずっとそばにいたくなるぐらい優しい。今日、すぐに帰ってきたあの子を君は、殺せるか?」

 オータスは玄関の音に耳を澄ました。時計を見る。もうすぐ登が帰って来る時間だった。

「あの子を殺さないで欲しい。僕は息子に死んで欲しくない。登は僕の最後の宝物だ。苦しむ人間が減ればいいって、夢はあった。けどもうめんどくさい。僕の心は金にしかならなかった。オータス、カーテンを片方はずしてくれないか?」

 突然の頼み事にオータスは不審がった。ヤマネは笑った。

「何かあっても君は僕より強い。大丈夫だ」

「カーテンをどうする?」

「すぐに分かるよ」

 オータスはしぶしぶ立ち上がると、カーテンレールからカーテンをはずす。途中、ヤマネを振り返る。ヤマネは優しく見守っていた。オータスは怪しみながら、またカーテンレールに手をかける。カーテンがだんだんと垂れて来る。最後のフックをはずしたとき、大きい音が背後でした。振り返ればヤマネの姿が消えていた。焦ったオータスはキッチンへまわる。そこにはちょうど心臓の位置に、刃を上に向けて包丁を刺したヤマネが倒れていた。

「クソッタレ!」

 オータスは死んでゆくヤマネに吐き散らした。玄関から音がした。オータスは慌ててカーテンを運ぶとヤマネの上にかけた。

「何してんの?」

 オータスの後ろにランドセルを背負った登が立っていた。カーテンをかけられたヤマネをじっと見る。そしてオータスを見上げて、一歩下がった。オータスはダイニングテーブルからファイルを取り、寝室へ向かいオレンジ色のザトウクジラの絵と一緒に腰へ隠した。そして登の腕を掴んだ。

「ここから逃げよう。早く」

 その手を登は払った。オータスはショックに目を見開く。登は首を横に振る。

「行かない。逃げない。嫌だ」

「お願いだから、言うこと聞いて」

 ピンポンの音が響く。オータスは玄関が振り返る。ノックの音。もう一度ピンポンの音。登は寝室へ逃げる。

「待って!」

 オータスは手を伸ばす。ドアノブが回る音。

「あれ? 開いてますよ」

 河津の声。玄関のドアが開く。オータスは寝室へ目をやる。登は顔を逸らした。オータスは息を飲み、カーテンが半分なくなったリビングの窓から逃げた。登はポケットの上から財布があるのを確かめる。そしてランドセルからスケッチブックを引き抜く。ヤマネがもし自分に何かあった時、ヒバリの家に行く約束を登はしていた。スケッチブックにはヒバリの家の住所と行き方、電話番号が書いてあった。

「これ、死んでますよ」

 キッチンで河津がヤマネの死体を見つける。登はスケッチブックを抱えたままベッドの上で息を潜めた。師巻が寝室で登を見つけた。


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