家族そのいち4
二学期が始まり、登は日中マンションにいなくなった。それでもオータスはもう癇癪を起こさなかった。午前中はダイニングテーブルに静かに佇み、登のスケッチブックを眺めた。玉子焼き事件の時、登は仲直りの印にオータスにオレンジ色のザトウクジラの絵をプレゼントした。オータスはそれをいつもベッドの隅に置いていた。午後になれば、オータスは部屋の掃除をした。ヤマネが居なければ、書斎に忍び込んだ。登が帰ってくると、一緒におやつを食べた。だいたいアイスかバウムクーヘンか桃缶だった。登は学校に行くようになって、小さなスケッチブックを段ボールではなく、ランドセルにしまうようになった。そのスケッチブックはヤマネに特に大切にするように、コテージにいた時から言い付けられていた。
オータスは登が分かりやすい選択肢をあげなくても、何が嫌で好きか自分からはっきりと言葉にするようになった。登はなんとなくオータスがもう幼子ではない事を察していた。けれどそれを口にしてしまえばこの生活が終わる気がして、それは想像だけで淋しくなった。
急に肌寒くなった翌朝、オータスが初めて朝ごはんに玉子焼きを作った。
「えー! すごい! すごいすごい!」
登が艶やかな玉子焼きを見てはしゃいだ。ヤマネはおおーと声を上げた。オータスの笑顔には久しぶりの幼さが蘇った。
「いってきます」
毎朝、登とヤマネは一緒にマンションを出た。オータスが見送る。
「いってらっしゃい」
登はヤマネの車で学校の近くまでいつも送ってもらう。
「登。スケッチブックは持ってるかい?」
「うん」
「ならよかった。今日は家に帰っても鍵は閉めなくていいから」
「なんで?」
「そういう日だから。じゃあ気をつけて」
登は車を降りて手を振り、駆けていく。その背中をしばし見送って、ヤマネは車を走らせる。
ヤマネはいくつかの用事を済まし、デパ地下でバウムクーヘンを三つ買った。そして遅めのランチを食べに店に入った。秋心地にテラス席を選んだ。海老フライランチを食べ終え、食後のコーヒーを飲みながら文庫本を開いた。人の気配に顔を上げる。
「はじめまして。突然、すいません」
師巻は許可を取らずにヤマネと同じテーブルに座った。そして名刺をヤマネの方に滑らす。肩書きはジャーナリストだった。
「冬野さん、ですよね? 冬野ヒバリさん。まだこの名前を名乗ってますか?」
ヤマネは文庫本を閉じてコーヒーの横に置いた。
「冬野でいいですよ。気に入っているので」
ヤマネは「御用件は?」と聞いた。
「殯夫妻についてあなたの証言が欲しい」
ヤマネは師巻を見る。師巻はけして目をそらさなかった。
「あの夫妻は慈善家として有名ですが、本当はどうなんです?」
「どうなんでしょう」
ヤマネは柔らかい口調で返した。師巻は愛想笑いをする。
「どうなんでしょうって、あなた親交がありましたよね。深い関係が。息子さんもあなたに懐いていたそうで」
「会ったらお喋りしていた程度ですよ」
「今は行方知らずだそうで」
ヤマネの脳裏に薬を飲むオータスの顔がよぎる。
「夫婦はもう死んだ。庇うのは夫妻の子どもの為ですか?自分の為ですか?」
風が吹いて、コーヒーの表面が揺らいだ。ヤマネは冷めたそれを一口飲んだが、喉は潤いを失うばかりだった。柄になく緊張していた。長い息を吐いた。
「寂君は夫妻より恐ろしいですよ。ごりごりの武闘派で、射撃の腕もエグいらしいです。関わらない方がいい。私もできたら縁を切りたい」
「匿えるツテがありますよ」
ヤマネは首を横に振った。
「どこにも逃げられない。あなたが思っているほど寂君はずっと深く、果てなく遠い目と手を持っている。それに私の場合は因果応報というヤツでしょう。それでも信念でした」
「夢破れたと?」
ヤマネは思わず笑った。小さく掠れた笑いだった。
「すべてを捨てれたわけではありません。くすぶっているんです。信念なんて跡形もなく捨ててしまいたい。だけれど、信念が後悔になるのは愚かだ。ただただ、未来なんか信じず、あの子と楽しく暮らした。世間にとって、いてもいなくてもいい家族のひとつとして。ははっ、我ながら情けない」
どうしようもないんですよ、とヤマネは困ったように続けた。
「どうしようもない、悲しみがなくなればいいと子どもの頃からずっと長い間、思っていました。そのどうしようもないものが、私になりそうだ」
ヤマネは登の未来を憂いた。自分と親子になる事は登を苦しませる事になる。そのために、ヒバリの息子にした。それでもどうしようもない現実にぶつかり、未来が終わりだと思った時、父親としてヤマネは登を迎えに行ってしまった。
「どうしようもない悲しみとは?」
師巻が聞く。
「戦争ですよ」
ヤマネの瞳は一瞬澄んで、深く濁った。
「人のために人が死ぬ。それなら楽に死ぬ方がいいと思ったんだ」
無惨に転がった歳の離れた親友の死体。境界線がなくなる。消えた輪郭、色、におい。鮮明な映像としては蘇らない。けれど、書き換えのない感情は何度だって蘇って来る。倉庫に倒れたマネキンを見た時、魚の骨を見た時、毛糸が転がった時。日常がふいに記憶を吸い込む。
「それでも、人が死ぬために僕は生きてきたわけではない」
期待よりもよく喋ると師巻は思った。これはもう、かなり危ういと確信した。
「冬野さん。あんたが想像するより私の人脈は凄い。期待してください」
必死さをひけらかさないように、無理して師巻はおちゃらけた。それでもヤマネはもう悟っていた。
「ありがとう。でも僕の始末は僕がします。これ以上は師巻さんもやめた方がいい。あなたの命が安くなる」
「バーゲンは楽しむ方だ」
師巻は無理をした。ヤマネはもう何も返さなかった。コーヒーを残して立ち去る。師巻は秋空を見上げた。メッセージが来る。「そのまま追跡しろ」と返信する。




