家族そのいち1
夕暮れの空の果てを見つめ、日永ヒバリは遺書を書き忘れた事を思い出していた。
「君の人生を僕が買おう。話を聞かないか?」
ホテルの非常階段でヒバリは男に声をかけられた。気まずさと怪しみを含んだ眼差しを見知らぬ男へやった。そのどこにも混ざれない儚さを持った男は、笑みを浮かべているわけでもなく、脅す目つきをするわけでもなく、自然だった。そのあまりの自然体に、ヒバリは柵から手を離して、男の方に体を傾けた。
「昨日、本家に金の無心に行ったのを知ってる。借金は僕が払おう。働く場所もあてがある。身を隠すのにとっておきの」
ヒバリは顔を渋くする。ヒバリは女に騙され、この先地獄か死しかないと思い込み今まさに、後者を選ぼうとしていた。
「あんた、日永の人間?」
「日永ヤマネ。僕の祖父の弟の孫が君」
「友達より他人だね」ヒバリは柵を背にずるずると座り込んだ。
「で?なんで俺のこと助けてくれんの?」
ヒバリはヤマネを見上げる。ヤマネは目線を合わせるために、座り込んだ。
「ちょうどよかったから。苗字も同じだしね。僕はいい人ではない。かなり大変な事をヒバリ君に頼もうとしている」
ヤマネの声は耳心地がいい。ついでに、腹心地も良かった。無下にできないずるい雰囲気を醸し出している。ヒバリは投げやり気味に赤ベコのように頷いた。
「いいよ。とりあえず聞くだけ」
「ありがとう。僕ね、恋人がいるんだ。お腹に子どももいる」
「それはめでたい」
「名前は冬野泉。ヒバリ君には、その人と結婚して欲しい。婿養子になって」
ヒバリは理解できなかった。
「一緒に暮らして欲しいとか、面倒を見て欲しいとかではない。むしろ放っておいて欲しい。籍だけいれて欲しい。ヒバリ君はアメリカに行って住み込みで働いて。僕の死んだ父の知人でね、リラ・シドイって名乗ってる。本名は知らない。不思議な人だけど、いい人だよ」
死んだ方がマシだなとヒバリは思った。けれど二か月後、ヒバリは飛行機に乗っていた。
登は桃の缶詰の絵を描いていた。それはスケッチブックの最後のページだった。完成すると、スケッチブックを閉じた。登はリビングから隣の寝室に行く。部屋の隅に、段ボールがある。引っ越しの時に使った、桃缶の段ボールにはスケッチブックが入っていた。一番上のスケッチブックは他のものより二回りほど小さかった。その下に、ついさっき終わったスケッチブックを差し込む。鍵を開ける音がした。登は寝室を出て、玄関に迎えに行く。玄関から入ってすぐの右の部屋はヤマネの書斎で、鍵がかかっていた。登は父に立ち入り禁止を約束させられていた。玄関のドアが開く。
「おかえり」
「ただいま」
ヤマネは息子の頭を撫でる。登は父親の後ろの男を見上げる。
「ああ、彼の事はリビングで話そう」
ヤマネは玄関の鍵をいくつも閉めた。フードをかぶった見知らぬ男はきょろきょろと不安そうに玄関を見渡していた。
「さあ、靴を脱いで。ついてきて」
見知らぬ男はおぼつかない手で白いスニーカーを脱いだ。その逞しさとは裏腹に見知らぬ男は背中、指の動き、歩き方、すべてが弱々しかった。ヤマネが男を椅子に座らせる。椅子に座る、それだけでも男はぎこちない。登はまじまじと見つめる。ヤマネは登の肩に手を添えると初対面の二人の距離を近づけた。
「彼の名前はオータスだよ。オータス、この子は登だ」
オータスは怯えた目で登を見ると、すぐにそらした。登は助けを求めるように父親を見上げる。ヤマネは困ったように笑って、登にも座るように言った。登はオータスと同じくらいぎこちなく、椅子に座った。目の前のオータスをちらちらと気にしながら、登はダイニングテーブルの下でTシャツの裾を餃子の皮を包むように触った。その間にヤマネはレモンソーダを二人の為に瓶からグラスに注いだ。ヤマネはオータスの隣に座ると、話を切り出した。
「オータスは今日から登の弟になります」
登はきょとんとした。ヤマネは微笑んでいる。登は言った。
「それは違うと思う」
オータスはどう見ても登より年上だった。登は小学六年生で、目の前のオータスは高校生か大学生に見えた。
「見た目はね。けど、心は登よりずっと幼いんだ。三歳か四歳か五歳か、それくらい」
「めっちゃアバウトじゃん」
「アバウトなんて言葉よく知ってるね。偉い」
ヤマネは息子の成長を褒めた。登は嬉しさよりも呆れながら、レモンソーダを飲んだ。
「難しい事は答えらえない。オータスに何か聞くときは、はい、いいえで答えられるようにしてあげて。それかいくつかの選択肢を見せて、選びやすいようにしてあげる。わかった?」
「わかったけどー、なんかさぁ、わっかんねぇ」
登は左右に揺れる。オータスはそれを目で追う。
「とにかくね、仲良く暮らしてね。登は先住民のお兄さんとしてオータスに振る舞ってください」
ヤマネは話を終わらした。
「はーい。あ、お父さん、新しいスケッチブックちょうだい」
「そろそろ終わるって言ってたね、そういえば。取って来るから待ってなさい」
席を立つと、ヤマネは書斎へ行った。リビングには登とオータスだけになる。
「俺、登。オータスは何が好き?」
登の質問にオータスは瞬きをするだけで返答しない。あっ、と登は父の言っていた事を思い出す。ちょっと悩んでから、レモンソーダを指差した。
「レモンソーダ好き?」
オータスは首を捻った。
「レモンソーダ嫌い?」
オータスは首を捻った。登は思い付く限りの好き嫌いを尋ねたけれど、そのすべてにオータスは首を捻った。




