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おしまいのスキャット2



「コウ君!」

 階段をのぼりながら、日永は照らしたコウの背中に叫んだ。コウがふり返り、懐中電灯の眩しさに目をすがめた。日永は隣に滑り込む。ドアノブには何重にもチェーンが巻かれていた。

「家からペンチ持って来たけどダメやった」

 コウの声は掠れていた。日永がコウの手元を照らす。ペンチを握られている右手も左手も爪は割れ、血だらけだった。日永は唇を噛み締める。

「懐中電灯持って。ちゃんと切れるの持って来たから」

 コウはペンチを投げ捨て、懐中電灯を受け取る。

「風花、返事しねぇ。呼んでも、何も言わん」

 コウは震える手で懐中電灯を握りしめる。日永は唇を噛み締めたまま、ワイヤーカッターでチェーンを切ってゆく。その姿をオータスが見つける。オータスはマスクを外して、近づこうとした。

「動くんじゃない」

 暗闇の踊り場から居里がオータスを見上げる。マスクをはずし、背中から空気ボンベをおろす。オータスは五階から引っ込み、懐中電灯で居里の顔を確認した。オータスは思い出す。

「ああ、探偵とこのか」

 居里は血走る白目をかっぴらく。


 腰までの黒髪に居里は丁寧にトリートメントを毛先までもみ込み、粗めのコームで馴染ませる。時間置いて、シャワーで洗い流す。バスルームを出ると、軽くオイルも付ける。そして、ドライヤーで乾かす。髪の為に、居里は枕カバーもシルクのものに変えた。居里は寝そべると、シルクの手触りを楽しむ。ユクトの指が居里の滑らかな黒髪に伸びる。

「綺麗だね。緑の黒髪ってこういう髪だろうね」

 ユクトが恋人への愛おしさを撫でる仕草に込める。居里は目を細め、心地よさに沈む。

「ありがとう」

 居里は嬉しそうに笑った。ユクトは長い髪を居里の耳にかけた。ベッドライトの暖色が恋人達を包む。

「君の笑顔は熱帯夜ぐらい眩しいよ」

「熱帯夜は眩しくないでしょ。ただアツいだけ」

「胸が苦しいってこと?」

「寝苦しいってことよ」

 ベッドに笑い声が転がる。

「来月になったら仕事が落ち着くから、吹雪のお母さんに挨拶に行こう」

 サイドテーブルの引き出しの中には指輪がしまわれていた。

「本当に来月って決めて大丈夫?すぐに急な仕事が入るじゃない、あなた」

 居里は意地悪を甘えたように言った。ユクトは困ったように長く喉を鳴らした。

「大丈夫!」

 けれど、すぐに胸を張って叫んだ。居里は何もかもがおかしくて嬉しくて、たまらなかった。

「ならいい。伝えとく。お昼の八宝菜おいしかった。私も前に、実家で作ったんだけど、ユクトのように上手に作れなかったよ」

 まな板の上のチンゲン菜。柔らかい眩しさがキッチンにそそぐ真昼の記憶。

「僕の数少ない得意だから。飽きられない頻度で作るよ。明日、吹雪が起きる前に出かけるから」

 ユクトは仕事で三日、留守にする。

「見送るよ」

「いいよ。気を遣うから眠っていて。ありがとう」

 眠りの時間の合図のように、ユクトの声は吐息まじりに変わる。

「そう。じゃあ、気を付けて。おやすみ」

 瞼を閉じると居里は囁いた。

「おやすみなさい」

 居里が朝起きると、ユクトはいなかった。それからずっと、いなかった。

 父親が詐欺集団に寄付をしているかもしれない、と怪しんだ娘がユクトの依頼主だった。依頼主の父親は頻繁に慈善団体に寄付をしていたが、なんとなくきなくさいという理由だった。けれど実際は、将来自分のところにくる遺産が減るのを危惧した娘がどうにか、両親が寄付を辞めるだけの手札が欲しいだけだった。それはユクトも分かっていたが、受けた仕事に愚痴は言わなかった。

「だが、きなくさいのは、きなくさかった。ユクトが潜入したパーティーには殯夫妻の息子がいた」

 ユクトの火葬を待つ間、探偵事務所の所長と居里はベンチに座った。贅肉とは程遠く、筋肉も必要最低限しかない細長く猫背の所長は、指を組み、床を見つめながら話した。

「君も知っているだろう?慈善家夫婦の」

「ええ。七、八年前に事故で亡くなっている」

「八年前だな」

 所長は前かがみのまま、顔を居里の方へ向け、声をひそめた。

「息子が殺したという噂がある」

 居里は驚きにまぶたを動かした。

「今回の状況からして全員が窒息死なんて摩訶不思議で済ませられない。ユクトがいなければ、うちも仕事が回らない。もうリタイアするにはいい歳だ。趣味がてら殯のこと調べてみるよ」

 それから、所長は静かな葬式から去って行った。居里は納骨を終えてからも、いくらおやすみを毎夜唱えても、最後の夜から居里はさよならできなかった。そして半年も経たず所長も死んだ。窒息ではなく、刺殺だった。居里は髪を切り、金髪に染めた。眩しくなるまで何度も染めた。晴れない暗闇の中で自分自身が目印になるように。

 忙殺の数か月をこなし、三年と半年前に居里はクアイに辿りついた。クアイの看板前に仁王立ちする金髪の女と最初に出会ったのは鐘霞だった。

「うちに何か?」

 不愛想に鐘霞は尋ねた。居里はサングラスを取ると、履歴書を鐘霞に見せた。

「居里吹雪と申します。入社希望です」

 迷った鐘霞は、履歴書を受け取った。


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