おしまいのスキャット1
最上階のその部屋に入った瞬間、宮が視界にいるにもかかわらず、誰もいない部屋のように室崎は感じた。宮は窓際に立っていた。
「はじめまして。私は、宮千雄と申します」
「あ、はじめまして」
室崎はお辞儀をした。
「室崎ミサムです」
宮は微笑んだ。
「どうぞ。座ってください」
椅子が二脚向かい合っている。間にテーブルはない。室崎は壁際を見る。長机がいくつもおしやられ、スッタキングされた椅子はいまにもしなりそうだった。
「ここは会議室なんですけど、使った事がなくて。テーブルは必要ないと思いまして」
宮が座る。
「はあ」
室崎はとまどいを堪え、緊張気味に椅子に座った。室崎は不思議な気分だった。宮と室崎の距離は、電車の座席で向かい合っているぐらい離れていた。
「うちは立ち上げてまだ一年ぐらいでして。まあ、それも準備期間を含んだもので浅瀬もいいとこです」
宮のえくぼは深く、目は細い。室崎は目を伏せる。自分の靴がよく見えた。皺が沢山でき、くたびれている。けれどそのことを気に掛けるのは妻ぐらいだった。口当たりのいい、脈絡がない覚えやすい長文で自己忘却から抜け出す。脈絡がむちゃくちゃすぎるものは無謀だからやめた方がいい。その説明すべてに室崎は不安しかなかった。室崎は顔を上げる。
「鐘霞さんから暗乱の説明は受けました。私には自信がありません。私は前の会社で経理をしていました。鐘霞さんにお尋ねしたら事務員はまだいらっしゃらないと。よければ、」
「室崎さん」
宮が名前を呼ぶ。室崎は口をつぐむ。空調の音が響く。
「その話し合いは急ぐ必要はありません。暗乱の訓練を受けたあとでも間に合います。大丈夫です」
宮の口調は安らかで、声は冷静と無感情の中間色をしていた。室崎は気まずくなる。室崎の様子をしばし見つめ、宮は続けた。
「これは私の勝手な憶測ですが、あなたは暗乱を会得できると思いますよ」
「え?」
宮の背後の窓の外は雲ひとつない青空だった。
「根性がありそうな顔をしている」
宮の言葉に室崎はぽかんとし、はははっと笑った。
「はじめて言われました」
「そうです?」
宮は心から驚いた。室崎は苦笑する。
「人生で根性を出した事ないですから。私は夢を目指したりとか、譲れない希望とかそういうのが見つけられなかった人間です」
室崎は結婚を望んだ事はなかった。自分を大切にしてくれる人を大切にするために結婚を選んだに過ぎなかった。室崎は家族のために心を惜しまない人間だった。
「私も夢を見た事はない。希望を望んだ事もない」
宮は室崎の目を見て言った。
「それでもほとんどの毎日が楽しい事ばかりです。誰にも気づかれた事はないけれど」
宮は嬉しそうに歯を見せた。室崎の前に朝の食卓がある。マカロニサラダのサンドウィッチ。油でカリカリに揚げて、グラニュー糖をまぶしたパンの耳。甘いパンの耳に室崎が手を伸ばす。
「サンドウィッチ食べてからにしてよ。私も好きなんだから」
妻が言う。
「そうだね」
室崎はサンドウィッチを食べる。妻はサンドウィッチを食べながら、パンの耳を楽しみに眺める。息子は積み木を積み上げる。立ち上がり、辺りを見渡す。積み上げる積み木がもうなかった。ローテーブルにセロハンテープ。息子の興味はすぐにそっちへ移った。テープの先を引っ張ると、部屋の端までとことこ満面の笑みで走る。室崎はサンドウィッチを口に押し込み、立ち上がる。
「あ! コラッ!」
妻はサンドウィッチを皿に放り投げ、慌ててテープを切る。積み木は倒れ、散らばる。室崎は息子を捕まえる。けれど、セロハンテープが足に絡まり腰を付く。息子はきゃっきゃっと、容赦なく父親に抱き付く。おっとっとっ、と室崎は倒れる。床に食パンがあった。朝が夜になる。床はリビングの床ではなくビルの廊下。冷たい廊下。
「慈しみ過ぎたパンの耳、マカロニサラダのリンボーダンスに慌てたセロハンテープからよ、積み木のカクテル」
室崎は自己忘却から抜け出す。
「室崎さん!」
木森がマスク越しに叫ぶ。室崎は起き上がる。
「大丈夫」
そう言って、マスクを付け直すと、木森の腕を掴んで、立たせた。
「一階、木森。部屋から男が一人、西階段から上に向かった!」
木森が伝達する。室崎が、転がる白い筒を見つけて拾う。裏にはノワキのロゴ。室崎は自己忘却前の一瞬を思い出す。
「一階、室崎。西階段から上に向かった男、白い筒を複数腰に差していた。他の階にも隠しているかもしれない。とりあえず、木森と予定通り西階段から五階へ向かう」
室崎のあとに続いて、木森は階段をのぼる。
「こちら居里、三階から私だけ西階段に向かう」
居里の声のあと、上から音が響く。室崎と木森は二階で立ち止まる。
「何か閉まった?」
木森が呟く。部屋のドアが閉まる音にしては大きすぎた。室崎が焦り、駆け上がる。踊り場から行き止まりになった三階を見上げる。
「室崎、三階。防火扉が閉まってる」
室崎は開けようとするが、びくともしない。木森も手伝うが同じだった。
「え?普通開くよね?防火扉って。開けた事も閉めた事もないけど」
木森がやけくそに防火扉を叩いた。
「東階段にまわろう」
「やめた方がいいです」
室崎の言葉に管野が返す。
「四階手前の踊り場。こっちも三階の防火扉が突然閉まって動かない。室崎さん達はいったん退避した方がいいです。相手は複数いるかもしれない」
「まあ、単独で来る可能性の方が少ないよね」
木森が肩を落とす。室崎はこめかみに冷たい汗をかく。
「そっちへ行く」
「駄目だよ」
待機の鐘霞に室崎が即答した。
「コウ君と風花ちゃんを保護したらすぐにここを脱出する。ワゴンは命綱だ。目を離しちゃいけない。僕と木森は一度外に出るから」
鐘霞はビルの入り口で立ち止まる。舌打ちを噛みちぎる。音が聞こえた。鐘霞は振り返る。雑草が夜の下にあるだけだった。何かが、ビルの北側の壁から飛び出す。自転車に乗った仮時だった。仮時は鐘霞をふり返り、すぐに背を向け走り去る。鐘霞は一瞬で喉が渇く。追いかけようと踏み出すが、すぐに立ち止まる。声を飲み込み、仮時が出て来た北側の壁を覗く。そこには屋上まで続く、タラップがあった。鐘霞はワゴンに戻ろうとした。




