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夜のビル1

 タンスの上に置かれた写真立て。傍に並べられた二枚の名刺。オータスはそれをポケットにしまう。背後で風花が倒れている。手足は縛られ、目もタオルで覆われていた。窓もカーテンも閉まっている。テレビから流れるピアノ、トランペット、男のスキャット。男がピアノを弾きながら、ジャズを歌っている。洗面所からコウが出て来る。

「風花、風呂溜めたから先に入れ」

 テーブルの上には大切な琥珀糖。


「千雄には感情がない」

 小学六年生の頃、年下の従妹にそう宮は投げつけられた。宮はキョトンとしたまま従妹を見つめた。

「人の気持ちとかないのよ、千雄は」

 従妹は泣き出した。宮は訳が分からなかった。感情がない訳がない。人間なんだから。そう思いながら泣き止まない従妹を黙って見ていた。あとから聞いたら、宮の父親が友達のいない宮とずっと仲良くしてあげてくれと従妹に頼んでいたらしい。その従妹とは今でも普通に話すけれど、宮の事はずっと薄情だと信じている。

 宮にも感情はあった。ただ、執着と恥がなかった。中学の時、クラスメイトに好みの生徒を聞かれ、素直に同じ図書委員の女子の名前を言った。次の日、その事を言いふらされ、学年中が知ることになった。それでも宮はなんとも思わなかった。女子に告白され、付き合ったが、結局、「私の事、本当は好きじゃなかったんでしょう」と、決めつけられ高校進学と共に別れた。好きなのは事実だったが、別れた事はしょうがないとすぐに納得できた。宮は自分に対する感情に恐ろしい程、無頓着だった。心が乱されることはけしてない。よくいえば、常に穏やかだった。

 宮は官僚になった。特になりたかったわけではない。親が喜んだ方がいいだろうと選んだ仕事だった。宮は優秀過ぎた。頼りにする人間と、疎まれる人間の狭間で日々働いた。媚びず働き、目を付けられた。同僚が立場を守りたければ、辻褄が通らない事に目を瞑れと宮に助言をした。同僚の言う立場と宮の思う立場はニュアンスが違っていた。

「価値観の違いを忖度にはできないよ」

「お前そういうとこだぞ、宮」

 同僚は呆れた。そんな時だった。仕事を通して顔見知りだった師巻が宮に声をかけた。

「人は生まれつき、自分の嫌悪がなくなるのが正義だと望む。宮さんにはそれがない」

 夏真っ盛りだった。宮は師巻に山奥のかき氷屋に連れて来られた。男二人は枝葉の下のサンシェードと、深い影に潜む。テーブルに苺練乳のかかったかき氷が向き合って並ぶ。

「あんた最近修羅場ばっかりだろう?裏で修羅場王って呼ばれていますよ。組織ってのはデカいですからね。どんな優秀な人間でも、人ひとりの人生を簡単に地獄にできる。俺は宮さんのような人間を潰したくない。どうですか?」

 クアイの話をここまでの道中、車内で師巻は説明していた。

「現実と空想の重なりですか」

 宮はスプーンを持つ。水の音が聞こえる。かき氷屋のすぐ近くに滝つぼがあった。

「師巻さん。わたし、恥ずかしながら空想という行為を幼い頃から一度もした事がありません」

「え?」

 師巻の声が裏返る。

「予想とか予測はあります。けれど、それは現実未来に対してのみです。絵空事とか夢とかは私にとって、未体験のスポーツのようなもので。ルールが分かりません」

 宮は練乳がかかったてっぺんをスプーンですくい取る。

「ルールは、俺もわからんな」

 師巻はかき氷をサクサクほぐす。練乳と苺のシロップが混ざる。

「暗唱乱文ですが、師巻さんのお話を聞く限り根っこは、執着だと思います。執念や懇願でもいいかもしれません。それを複雑にして、他人には悟らせず、触れさせない事で精神を守っている。その精神の核が執着になっている。私にはその核がないので、会得できないと思います」

 それが宮の予測だった。

「その核が暗示象徴になるんだろうな。暗乱会得は根性論ですから。あなた根性はありそうだから」

 師巻は言った。

「根性ですか。考えたことないですね」

「そういうところですよ」


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