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ただの水2



 運転席のドアが閉まる。

「人は何でトイレで爪を切るんだろうな」

「それは師巻さんだけです。トイレに爪流しちゃダメですよ」

 助手席の小春は嫌な顔をしながら、ペットボトルのブラックコーヒーを師巻に差し出す。

「流すわけねーだろうが。常識はいつもハンカチのタグに付けてるんだよ」

「師巻さんいつも同じハンカチですけどね」

「うるさい、肝油食っとけ」

 師巻はコーヒーを受け取る。

「肝油なんて小学生以来食べてないですよ。バウムクーヘンならありますよ。ここのサービスエリアで売ってるのおいしいんですよ」

 小春は小包装のバウムクーヘンを師巻の膝に置いてやり、自分の分のバウムクーヘンを開けて食べる。ふたりはひたすら地道に冬野博士の子どもを捜索している。

「そろそろ出動課に手伝ってもらってもいいんじゃないですか?」

 小春が提案する。

「何を?」

 師巻が聞き返す。

「冬野博士のお子さんを捜すのですよ。出動課と言っても出動してる日の方が少ないじゃないですか。空いてる日に動いてもらったら見つかる可能性は高くなるはずです。微々たる可能性かもしれませんけど」

「微々たる可能性なら二人のままでいいだろう」

 小春の提案に師巻は乗り気ではない。小春は疑念を持つ。

「信用していないんですか?」

 心配そうに小春は師巻の様子を伺った。

「一瞬の隙に潜りこむには、長い信頼がいる。それから信用ができる」

師巻はサングラスをはずすと、くしゃくしゃのハンカチでレンズを拭いた。切れ長の釣り目が伏せる。

「それでも、俺はクアイにいる人間は信用しているつもりだ。特に鐘霞。あいつの他人を信用していないところを信用している」

 師巻は愉快そうに表情を緩めた。

「冬野博士は俺がジャーナリストの頃から追いかけていた。冬野博士はいくつもの戸籍と名前があった。冬野泉との結婚時の名前も偽名だ」

 冬野博士という呼び名も師巻達にとって仮に過ぎなかった。

「何らかのメリットのために冬野博士は妻の泉と結婚したんですかね」

 ベッドに座るスケッチブックを抱いた少年の姿は師巻の脳裏に日々過る。

「子どもを救えなかった罪悪感っていうのはえげつないぞ、小春」

 小春は沈黙の間に飲み足りているコーヒーを喉に流し込む。

「クアイの仕事の為じゃねぇんだ。あの子を追いかけているのは、俺個人の消化のためだ」

「救えなかったっていうより、逃げられたの方が正しいですよ」

 苦い口で小春は慰めを口にした。

「逃げないように見ていないといけなかったんだよ」

 師巻の声は悲観的に尖って車内に響く。

「子どもだからって俺が隙を見せた。出動課に手を借りるのがいいのは俺も分かってる。けれど、それが裏目に出た時、隙になった時、困る」

 困るな、と師巻は反復する。

「怖いですか?」

 小春が聞く。

「まことに怖い」

 師巻は俯き、汚れの吹き残しがないか、サングラスを揺らす。曇りがまだあった。息を吹きかけ、磨き直す。

 師巻は台所に背を向けた。リビングの窓が開いている。リビングはシンプルだった。カーペットは敷いていない。テレビも、師巻が見る限りラジオもなかった。床にあるのは、青い楕円型のクッションが二つ。絵本が一冊。ダイニングテーブルの上にはクレヨンがあった。椅子は四脚。師巻は見渡すのもそこそこに、玄関横の施錠された部屋について考えていた。けれど、気配を感じリビングに繋がった寝室を注意しながら覗いた。ベッドにスケッチブックを抱きしめた少年がいた。少年は怯えを眉毛に出していた。けれどけして師巻から目を離さない。師巻は寝室に足を踏み入れた。そして謝った。


 ――遅くなって悪かったねぇ。本当はもう少し早く来るはずだった。


 師巻は小学校の時の担任を思い出した。その教師が師巻の人生で一番優しい話し方をしてくれた人だった。遥か昔の記憶を頼りにできる限り真似した。それでも少年は師巻の目をしっかりと見て、怖がった。口を開く。


 ――俺も殺しに来たの?

 ――違う。


 師巻はすぐに否定した。少年は黙る。師巻は言葉を探す。少年のそばに行って安心させるための柔らかい言葉を部屋の壁から捜すが、ない。慣れない事に師巻も黙るしかない。その時、お腹が鳴る音が静かな部屋に響いた。少年が気まずそうにする。


 ――何か食べる物を持って来よう。


 優しい言葉を見つけられて師巻は少し安心する。師巻は寝室を出て、キッチンに戻って来た。


 ――河津、何かすぐに口にできるものはないか?腹が減った子どもがいる。

 河津はジャケットのポケットからまるい缶を出した。師巻が凝視する。

 ――なんだそれ。

 ――肝油ですよ。俺、好きなんですよねー

 ――もっと腹の足しになるもん、ないのかよ。なんか、こう、パンとか。

――急に言われても。でも、子どもは大抵肝油好きですから。沢山食べさせたらダメっすよ

 ――へえへえ。


 師巻は肝油の缶の音を立てながら、寝室に戻った。少年の姿は消えていた。寝室にはベランダがあった。古いベランダの床には四角く空けられた所があり、そこから非常梯子が地上まで伸びていた。この数分にも満たない間をこの先の未来をずっと、師巻は悔いることになった。


「死んでいるか生きているか確かめる義務が俺にはある。けど、こんなに時間がかかっても、まだなんにもない。いくつも記憶にはあるが、なんにも手元にない」

 ハンカチをしまい、バウムクーヘン片手に師巻はぼやく。

「記憶にございませんって謝罪する頻繁なお偉いさんより、師巻さんはずっと立派ですよ。それに、過去の自分が必ず今の自分の味方になるなんてことないですからね」

 小春はなくなりかけのコーヒーを傾けた。サングラスをかけ直し、師巻は笑う。レンズの曇りはなくなった。

「お前は甘いな。小春」

 師巻はバウムクーヘンを飲み込むように、押し込んだ。


 サングラスに映った自分の顔の悲壮さに闇医者は、すぐに顔をそらした。オータスはシャツのボタンを下から上まで閉める。

「うちみたいな地下病院んじゃ、もうどうこうしようもねぇのお。可哀想じゃが」

 闇医者の声には同情が帯びていた。オータスは分かっていたため、ショックを受けることはなかった。けれど、心の奥底ではしんしんと焦りを募らせていた。

「慰めにもならんが、薬は出しとくけんな。お守りぐらいにはなるじゃろう」

 震える手で闇医者はカルテにボールペンを走らせる。

「かなり金はかかるが、保険証が準備できる。外国人向けの質のいいモンじゃ。ビクビクしながら使わんかったら心配いらねェ。まあ、あんたなら心配ねぇな」

 闇医者は喉を鳴らし、目尻に皺を作った。

「殯さんにツケとくけん」

「いや、殯には俺の病気については言わないで欲しんだ。保険証の金ぐらいならたぶん俺にも準備できる」

 闇医者は戸惑ったが、ボールペンを置いた。

「分かった。胃潰瘍にしとくよ。覚えとき」

「ありがとう」

 オータスが少し笑う。闇医者は、ギシギシ鳴る椅子から立ち上がると、壁際の引き出しから必要な薬を繕う。オータスは闇医者の背中を見つめる。藁にも縋るつもりはない。念のためだった。

「あんたのツテで、戸籍は買えないか?」

 闇医者は手を止めて、オータスを見る。オータスは俯いて札を数えていた。札が擦れる音が、冷たい床に落ちる。

「戸籍はなぁ、わしみたいな小物じゃあどうにもならん。それはやっぱり、殯さんに頼んだ方が安心じゃど」

「そうか」

 オータスの返事は素っ気なかった。数え終えた必要な分の金をオータスは机に置いた。闇医者は薬の詰まった紙袋を渡し、勘定を確かめた。オータスはブルゾンのポケットに薬を突っ込むと立ち上がる。

「あい、ちょうど」

 闇医者は数えた札を揃える。

「保険証はどれくらいかかる?」

「三日」

「じゃあ三日後にまた金持ってくる。連絡はいらない」

「了解」

 オータスは闇医者に背を向けてドアノブに手をかける。

「頑張るなよ、少年」

 闇医者は声をかけた。オータスはふり向く。闇医者はカルテを片付けていた。オータスは言った。

「俺はもう少年じゃないよ。とっくにね」

 オータスは部屋を出て行った。


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