食べる、食べる、食べたい1
殯は冷蔵庫から鶏の胸肉を出した。半額シールが貼られている。トレーからまな板に胸肉を出すと、観音開きにする。その上にラップをかけると、拳で叩いて伸ばしていく。殯の拳に震える台の音がキッチンに響く。それに塩コショウを振り、鉄のフライパンにオリーブオイルを垂らし、潰したニンニクで香りづけしていると、オータスがキッチンに姿を見せる。
「オータスも食べるか? 肉がもう一枚ある」
少し焦げたニンニクをトングでフライパンから取り出しながら殯が聞いた。
「いらない」
オータスは冷蔵庫からマスカットを一房取ると、一粒一粒丁寧にザルに移した。肉が焼ける音がする。
「オータス、お前今年でいくつになったの?」
「二十二歳」
「ふーん。結構大人だな」
艶やかな小さな果実がザルを満たしてゆく。オータスは実が無くなり背骨みたいになった穂軸を捨てる。
「ホテルオカミのお前の提案は、悪くないと思った。ちまちましたのばっかしてたから、大きい事も思い切ってしてみないとな」
殯はトングで肉を裏返す。油が跳ねる。皮は、ぱりぱりになり、いい焦げ目で付いた。
「カルチャーセンターのヤツは微妙だな。会場はいい。だが、なんであんな跡が付く高校生を使った?わざわざ脅しを使ってまで」
殯はフライパンに蓋をする。オータスは蛇口を捻り、マスカットを洗う。
「ショッピングモールの件は論外だ。無関係にも程がある。無駄使いだ」
オータスは水道の水を止めた。
「お前があまり僕の事が好きじゃないのは知ってるよ。僕はオータスの事嫌いじゃないけどね。でも、あまり相手に優しくしすぎるなよ」
オータスはボウルにマスカットを移し、殯に背を向けて無言で立ち去る。オータスと入れ替わりで仮時が入って来た。仮時はキッチンを出て行くオータスを気にする。
「喧嘩?」
仮時が聞けば、殯は下唇を突き出して首を傾げた。
「叱ったらふてただけ。昔は素直でいい子だったんだけど」
「そんな日もあるよ。それ朝ご飯?昼ご飯?」
仮時はキッチンカウンターの足の長いスツールに座った。時刻は午前十時半を過ぎていた。
「昼ご飯」
「じゃあ一緒に食べよう。俺も弁当買ってきた。それで? 頼み事って?」
仮時はキッチンカウンターにチキン南蛮弁当を出した。
「オータスの事、見張っといてくれ。最近目に余る」
殯は棚から醤油を取る。
「例えば?」
仮時が聞く。
「ここんところ急にせっかちになった。何かに、焦ってる」
ふーん、と仮時は頷く。
「あの子は現実的な理想を求める子だ」
「いいことだね」
「僕は現実的であり理性的なものが好きなんだ」
「汎論理主義ってこと?」
「理性に焦りは禁物だ。オータスを心配してるんだよ。あと僕は、その場しのぎの主義しか持たないよ。楽だからね。楽になるには金が要る。だから金を稼ぐ。外面は現実的だろう?」
殯はフライパンの蓋を開けた。
「平和は金になる」
仮時の言葉に殯は微笑を浮かべた。最後に醤油で味を付ける。
「現実世界は血肉を蓄えられればそれでいい。ユートピアは精神世界に作るんだ。さあ、一緒に食べよう、仮時。飯は楽しいに越したことはない」
殯はチキンステーキを皿に盛りつけ、テーブルに運んだ。楕円の真っ白いテーブルに、テーブルと同じ白い椅子がひとつ、向かいに黒と赤の椅子がそれぞれあった。殯は白い椅子に座る。仮時はチキン南蛮弁当を持って黒い椅子に座った。赤い椅子に本が一冊あった。
「紫はない」
仮時は青字で書かれた本の題名を口にした。表紙に絵柄はなく、生成り一色だった。作者の名前も題名と同じ色だった。
「リラ・シドイという海外の作家でね」
殯がチキンステーキをフォークで切りながら教えた。
「戦争で人間社会にほとほと懲りて、自分で言語をつくって、その言葉で喋り、小説を書いた。僕の憧れのひとりさ。彼のように僕は生きられないが、目指している夢は同じだよ」
仮時が本をめくった。
「そんな言葉、訳すの大変だろうに。どうやったんだろう」
「その言葉を理解できるのがリラ・シドイ以外に二人いる。シドイのお手伝いと当時同居していた日本人。素晴らしい話が日本語で最初に読めるのさ」
仮時は本を閉じる。訳者の名前は「坂星ヒバリ」だった。
オータスはベッドの上でボウルを抱え、黙々とマスカットを口に運んでいた。枕の下にいつも隠しているまだらなオレンジ色のクジラの絵を眺めるのがオータスの心の拠り所だった。オータスはせり上がるものを感じ、マスカットをベッドの上に零すと、口を手で押さえ咳き込んだ。止まらない咳にベッドから下り、椅子に掛けていたタオルを口に押し付けた。タオルには血が染み込んでいた。オータスは再び咳き込み、うずくまる。マスカットの転がったシーツには、洗った時の雫で静かに小さく濡れていた。




