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幼馴染のニート更生プログラム  作者: やわらぎメンマ
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オーバーロード

 正面からの脱出を試みて、十分後。

 海斗と沙耶を乗せたバンは、暗い住宅街を北東へ向かって走っていた。

 運転席には沙耶。助手席には海斗。

 フロントガラスの向こうを、等間隔に並ぶ街灯が次々と後ろへ流れていく。車内には、エンジン音とタイヤが路面を擦る音だけが響いていた。

 「…………」

 海斗は何度か口を開きかけて、そのたびに言葉を飲み込む。

 沙耶の黒いパーカーには、所々に赤黒い染みができていた。

 どこまでが彼女自身の血で、どこからが返り血なのか、海斗には分からない。

 ただ一つ分かるのは――数十分前まで悪態を吐いていた男が、もうこの車には乗っていないということだけだった。

 「……相手、手慣れてたね……」

 先に沈黙を破ったのは沙耶だった。ハンドルを握ったまま、前だけを見ている。

 「…………うん……」

 「……やっぱ、無謀だったのかな……」

 「……そりゃ、そうだよ」

 強行突破を言い出したのは沙耶だった。

 けれど、一人で残ろうとした彼女を止めたのは自分だ。

 誰か一人でも死ぬつもりなら、自分も諦める――そう言った結果が、今だった。

 「向こうは完全武装で、こっちは簡単な武器が二、三個じゃん。敵うわけないよね……」

 沙耶の声に、いつもの軽さはない。

 「……ごめん、何もできなくて……」

 「……ハッカーさんが謝る必要ないでしょ……。謝らなきゃなのは、私だよ……」

 沙耶の両手が、ハンドルを少し強く握る。

 「もっとうまくできてれば、サイトウさん、死なずに済んだのに……」

 今でも耳を澄ませば、後部座席から悪態が飛んできそうな気がした。

 ――やっぱ、地頭いい奴はクソだわ。

 ついさっき聞いたばかりの声。

 それがもう二度と聞けないのだと理解するには、十分という時間はあまりにも短かった。

 「私、野乃花ちゃんから――ううん、みんなから奪ってばかりだ……」

 沙耶は前を向いたまま呟く。

 野乃花。サイトウ。黒崎。そして、母親。

 海斗にも、その言葉を否定できるだけの理由はなかった。

 今日会ったばかりの自分が、簡単に無かったことになんてできない。だけど――。

 「……村上さん、ちょっと視野が狭いんだね」

 「……えっ?」

 初めて、沙耶がわずかにこちらを見る。

 「だってさ、無くしたものばかり気にしてる割に、助けてることにはなにも感じない」

 「…………」

 「少なくとも、僕は村上さんが居てくれたおかげで生きられてる。あの銃撃戦の中で僕だけだったら、間違いなく死んじゃってた。だから、僕に今をくれているのは、村上さんだよ」

 沙耶は何も返さず、すぐに視線を前へ戻した。

 「そんなの、ただの結果論じゃん……」

 「村上さんがいたから、僕もいる。居なくなってないじゃん」

 「……流石ハッカーさん、理屈っぽいね」

 ほんの僅かに、沙耶の口元が緩んだ。いつものような軽薄な笑顔ではない。

 それでも、倉庫を出てから初めて見た彼女の笑顔だった。

 「…………ありがと、ちょっとだけ軽くなった」

 「…………うん」

 それ以上、海斗には何も言えなかった。

 沙耶のしてきたことを許すとも、悪くないとも言えない。ただ、自分が今ここにいるという事実だけは、誰にも無かったことにはできない。

 再び沈黙が戻る。けれど先ほどまでの息苦しい静けさとは、ほんの少しだけ違っていた。

 海斗は流れていく住宅街へ目を向ける。倉庫から逃げ出すことだけを考えていたせいで、その先のことなど何一つ考えていなかった。

 「そういえばさ、僕たちこれからどうしたらいいのかな……」

 「ひとつだけ、やっておかなきゃいけない事あるんだ」

 沙耶は迷う様子もなく答えた。

 「やっておくこと?」

 赤信号に変わりかけた交差点を抜け、沙耶は再びアクセルを踏み込む。

 「君の幼馴染、迎えに行くよ」



 「はっ⁉」

 加奈が目を覚ますと、そこは終点だった。

 「や、やばっ……」

 慌てて車内表示を確認する。

 とはいえ、目的の駅から三駅寝過ごしただけだった。

 「なんだ……、これならすぐ戻れそう……」

 強張っていた身体から、少しだけ力が抜ける。それなのに、胸の鼓動だけは妙にはっきりと感じられた。

 それは非日常的な現実にいる自分を思い出したせいか――、いや、多分違う。

 「なんで、あんな夢……」

 寝ている間に見た記憶の断片に、加奈は顔を強張らせる。

 列車の床下から空気が抜ける音が響く頃には、加奈以外に乗客は誰も居なかった。



 夢を見た。

 もう一人の加奈が、自宅で両親を殺した夢だった。

 理由は分からない。何があったのかも、どうしてそんなことをしたのかも。

 ただ、夢と呼ぶにはあまりにも生々しかった。

 見覚えのある自宅のリビング。嗅ぎ慣れたはずの部屋の匂いに混じる、鉄臭い何か。

 足元には、二人の人間が倒れている。

 顔なんて見なくても、それが誰なのか分かってしまった。

 だけどアレはまるで、違う自分の記憶を上書かれたようなリアルさがあった。

 『ごめん……、ごめんなさい……』

 夢の中の私は、ひたすら何かに謝っていた。目の前の両親へ顔を向けているのに、その言葉だけは別の場所にいる誰かへ向けているような気がした。

 誰に謝っているのか? 何を謝っているのか? ――それすら分からない。

 涙を瞳いっぱいに溜め、返り血を浴びた私は、ただ何度も謝罪を繰り返している。

 その姿を見ているはずなのに、胸の奥では自分自身が泣いているような苦しさがあった。

 他人のはずなのに、自分。自分のはずなのに、何一つ知らない。

 そんな気味の悪い感覚に耐えられなくなった、その時――。


 『絶対に、帰してあげてね――』


 もう一人の加奈が、こちらを見た。確かに、目が合った。

 そう告げられた瞬間、意識は現実へ引き戻された。

 あっけないほど短くて、不気味な夢。なのに、あの声だけは目を覚ました今も耳の奥に残っている。

 加奈は小さく首を振ると、誰もいなくなった車内からホームへ降りた。考えても仕方がない。今はそれよりも、海斗を追わなければならない。

 そう自分に言い聞かせながら、スマホを取り出す。

 「あっ……、先輩……」

 画面には、少し前に入った槙尾からの着信履歴が残っていた。

 加奈はすぐさま折り返す。数回の呼び出し音。

 「も、もしもし……」

 『と、戸石ッ……、早く逃げ――』

 「せ、先輩ッ……⁉」

 短い声とともに通話が途切れた。加奈は反射的にスマホを耳から離す。

 画面には、無機質な通話終了の表示だけが残っていた。

 「先輩……?」

 すぐに掛け直す。

 「なんで、出てくれないのっ……」

 一度。二度。何度発信しても、槙尾が応答することはない。

 「何が……起きてるの……」

 さっきまで頭から離れなかった夢が、一瞬で吹き飛んだ。代わりに胸を占めたのは、もっと直接的な嫌な予感だった。

 その時、手の中でスマホが震える。表示された名前を確認する余裕もなく、加奈は通話ボタンを押した。

 「も、もしもしっ⁉」

 『加奈ちゃん、よかった。繋がって――』

 「先輩は⁉ 先輩っ、槙尾先輩が今どこにいるか分かりますか⁉」

 『加奈ちゃん、落ち着いて……』

 すっかり聞き慣れた横山の声だった。

 『槙尾君がどうしたの?』

 「さっき先輩から電話あって……、そしたら急に電話が切れて……、そしたら、そしたらっ!」

 言葉が上手くまとまらない。ただ、最後に聞こえた「逃げろ」という声だけが、頭の中で何度も繰り返される。

 『分かった、槙尾君には僕からも連絡してみる。だから、今どこにいるか教えて欲しい』

 「今は、蘇我駅って所です……。つい寝過ごしてしまって……」

 加奈はホームの駅名標へ目を向ける。間違いなく、そこには「蘇我」と書かれていた。

 『なるほど……、ちょうどいいんだか悪いんだか……』

 「えっ……?」

 横山の声色が変わった。それだけで、加奈の指先に力が入る。

 『また良いニュースと悪いニュースがあるんだけど、まず良い方は、海斗君の居場所が分かった。東京駅で拘束されたって話だけど、どうやら公安の人たちに保護されてたみたい――だけど』

 「だけどって……」

 安心するより先に、その最後の一言が引っ掛かった。

 『お察しのとおり、悪いニュース。今は本当に、悪い奴らに捕まった、らしい……』

 「らしいって……、ソースはどこですかッ⁉」

 『公安だよ。海斗君を保護していた工作員と連絡が途絶えたみたいで、後追いした他の工作員が複数の遺体を発見した』

 「それってッ……」

 一瞬、最悪の光景が頭をよぎる。

 『大丈夫、海斗君の遺体は見つかっていないよ』

 「っ……」

 肺に溜まっていた息が、僅かに漏れる。けれど、それは安堵と呼べるほどのものではなかった。

 『だけど、まだ殺されてないだけ、って状況が正確だね』

 「…………それで……?」

 横山の言葉が止まる。何かを言おうとして、やめた。そんな沈黙だった。

 『…………ごめん、これ以上は……』

 「その反応……、知ってるって事ですよね?」

 『加奈ちゃん、流石にこれ以上は……』

 「教えてください」

 しばしの沈黙。駅のホームを行き交う人の声が、妙に遠く聞こえた。

 「はぁ……」

 先に観念したように沈黙を破ったのは、横山だった。

 『加奈ちゃん、これ以上は本当に危険だよ。槙尾君の電話で何を知ったのかは知らないけど、もう戻ってきた方が――』

 「戻らないッ‼」

 自分でも驚くほど大きな声が出た。近くを歩いていた人が、一瞬だけ加奈を見る。

 それでも、今さら引っ込めるつもりはなかった。

 『加奈ちゃん……』

 「戻りたくない……、戻れない……」

 殺された教授。海斗の家で起きた事件。そして、今もどこかで命を狙われている幼馴染。

 ここまで知っておいて、自分だけ元の生活へ戻る――そんなことができるとは、もう思えなかった。

 「今さら、戻れないよ……」

 その瞬間。ついさっき夢の中で聞いた声が、不意に脳裏をよぎった。


 ――絶対に、帰してあげてね――


 加奈は唇を噛む。自分がどこへ戻るのかは、もう分からない。

 それでも――帰さなければならない誰かだけは、なぜか分かる気がした。

 『…………もう、戻れないよ?』

 「分かってます」

 今度は迷わなかった。

 『はぁ……』

 電話の向こうから、深い溜息が聞こえる。

 『――今まさに、君がいる所に向かってる』

 「えっ……」

 『ちょうど悪く、今加奈ちゃんがいる蘇我駅周辺に向かってる。公安の車使って逃げてるみたいだから、間違いないよ』

 海斗が近くにいる。その事実だけで、身体が先に動きそうになる。

 けれど横山は、それを制するように続けた。

 『加奈ちゃん、今カバンは持ってる?』

 「え、は、はい……」

 『一番底の所、見てみて』

 「底……?」

 加奈はスマホを耳に当てたまま、肩に掛けていた鞄を開く。財布や小物を掻き分け、底へ手を伸ばす。

 指先に触れた覚えのない感触に、動きが止まった。

 「……ッ⁉ これって……」

 『護身用に入れておいた』

 「入れておいた、って……、こんなのバレたらっ――」

 慌てて周囲を確認し、加奈はそれを鞄の奥へ押し戻す。

 それは五つの薬室を持つ回転式拳銃。少なくとも、今の加奈が鞄に忍ばせていていい代物ではなかった。

 『情報を外部に漏らしてる時点で、もう懲戒レベルの悪行だよ。非番の警官っていっても、君は今、民間人なんだからね』

 冗談めいた言い方とは裏腹に、横山の声は笑っていなかった。

 『これでもう、僕も戻れなくなった。後は、行くところまで行くしかないよ』

 さっき自分が口にした言葉を、そのまま返されたような気がした。

 「…………横山先輩こそ、本当にいいですね……?」

 『君にだけ行かせるわけには行かないからね。一度乗った船だし、とことん付き合うよ』

 「横山、先輩……」

 胸の奥に浮かんだ感情を、加奈は上手く言葉にできなかった。

 ただ今は、その言葉に甘えることしかできない。

 『ひとまず、改札出てタクシー拾う準備でもしていて。また連絡する』

 「はい……、ありがとうございます」

 通話が切れる。加奈はしばらく暗くなった画面を見つめてから、スマホを強く握り直した。

 夢の意味も、槙尾に何が起きたのかも、まだ何一つ分からない。

 それでも、もう引き返すという選択肢だけはなかった。

 

 

 改札を出て間もなくして、加奈はタクシー乗り場の案内を探しながら駅構内を歩いていた。

 横山から次の連絡が来るまで、そう時間はない。海斗がこの近くにいる。その事実だけが、自然と足取りを速めていた。

 だが突然、

 「動くな……」

 背後から低い声がした。

 「ッ……⁉︎」

 反射的に振り返ろうとした瞬間、腰元に冷たい感触が触れる。

 視線だけをゆっくりと下へ向けると、ギラリと照明を反射する物騒な刃先が見えた。

 ほんの僅かに身体を動かせば、そのまま脇腹へ突き立てられる距離だった。

 加奈は息を呑み、周囲へ視線を走らせる。改札を行き交う人。スマホを見ながら歩く学生。大きな荷物を引いた家族連れ。

 助けを求めることはできる。けれど、相手がこの場で刃物を振り回せば、自分だけで済む保証はない。

 鞄の底へ意識が向く。

 つい先ほど、横山から渡された回転式拳銃。手を伸ばせば届く――でも、無理だった。

 今ここで鞄へ手を入れれば、その動きを見逃してくれるとは思えない。

 それ以前に、これだけ人のいる場所で撃ち合いになるような真似はできなかった。

 「戸石加奈だな」

 背後の男が、確かめるように名前を口にする。

 「……どちら様ですか?」

 声だけは平静を装う。頭の中では、必死に相手の情報を拾っていた。

 声。背丈。刃物を持つ手。立ち位置。振り返れない以上、分かることはあまりにも少ない。

 「名乗る名はない」

 男は刃先を僅かに押し付ける。服越しにも、その鋭さが伝わってきた。

 「来てもらおうか」

 拒否権などない。そう言わんばかりに、男が背後から加奈を促す。

 ほんの少し前、自分の意志で引き返さないと決めたばかりだった。

 なのに今度は、どこへ連れていかれるのかすら分からないまま、他人に進む方向を決められている。

 加奈は鞄から手を離したまま、ゆっくりと男の指示する方へ足を踏み出した。

 

 

 「……僕の、幼馴染って――」

 沙耶が先ほど口にした言葉を、海斗はようやく拾い直す。

 君の幼馴染を迎えに行く。その意味を考えるより先に、見慣れた顔が頭に浮かんだ。

 「戸石加奈さん。今、この近くに居るみたいだよ」

 「ど、どういうことっ⁉︎ っていうか、なんでそんなこと――」

 「もともと狙われたから。それだけ」

 沙耶は前を向いたまま、何でもないことのように答える。

 「それだけって……」

 「もう忘れたの? 私たちが君の私生活、全部覗いてたの」

 「ッ…………」

 忘れたわけではない。自宅への盗聴――そして、何度追い返しても部屋へやってきた幼馴染。

 自分にとって当たり前だった日常が、向こうにとっては最初から監視対象の一部だった。

 「察しついた?」

 海斗は僅かに俯く。

 加奈は警察官だ。しかも、自分の事件を追ってここまで来ている。なら――。

 「加奈も危ない――そういうことだよね?」

 「結論先置いてくるの、やっぱ理屈っぽいね」

 否定する気にはなれなかった。

 「そ。天才クラッカーさんと、その幼馴染が新米警官。向こうからしたら、リスクしかないでしょ」

 「……そう、だね……」

 加奈まで、自分のせいで――そう考えかけて、海斗は奥歯を噛む。

 母親の時と同じだった。自分の知らないところで、自分と繋がっている誰かが勝手に危険へ巻き込まれていく。

 「でもなんで、加奈が近くにいるって分かるの?」

 今度は考えるより先に疑問を口にした。沙耶は一瞬だけこちらへ視線を向けると、すぐに前へ戻す。

 「そりゃあ、私がトリプルスパイってバレてるわけじゃないみたいだし? 情報はほら、筒抜けでしょ?」

 言いながら、沙耶は片手でスマホを操作する。赤信号で車が止まったところで、その画面を海斗へ差し出した。

 そこには、短いメッセージが時系列順に並んでいた。

 見覚えのない識別名ばかりが並ぶ中、一つだけ海斗にも分かる名前がある。

 ――戸石加奈。その下には現在地を示す情報と、彼女の動きを報告する短い文章まで残されていた。

 「これって……」

 加奈が近くにいる。それだけではない。今この瞬間も、誰かに居場所を把握されている。

 沙耶はスマホを引っ込めると、再び車を走らせる。

 しばらくして、ぽつりと口を開いた。

 「ねぇ、ハッカーさん。この際だから一応聞いておくけど――」

 「幼馴染さんのこと、好き?」

 「す、好きってっ――」

 思わず声が裏返る。

 この状況で何を聞いているのか。そう誤魔化そうとした海斗を、沙耶はすぐに遮った。

 「そういうの良いから。真面目に答えて」

 いつものような、からかう声音ではなかった。

 沙耶は前だけを見ている。その横顔からは、何を考えているのか読み取れない。

 海斗は膝の上で、自分の指を握る。

 幼い頃から、ずっと近くにいた。大学を辞めても。部屋に引きこもっても――何度追い返しても、勝手にやってきた。

 鬱陶しいと思ったことだって、一度や二度ではない。それでも――。

 「好き、だよ」

 口に出してみると、思っていたよりも簡単な言葉だった。けれど、それだけでは足りない気がした。

 「絶対、無くしたくない」

 「…………そっか」

 沙耶はそれ以上、茶化さなかった。

 ハンドルを握る指に、ほんの少しだけ力が入る。

 「それなら一つだけ、約束して」

 ただまっすぐ、進むべき道を見誤らないように正面を見ながら、沙耶は続けた。

 「これ先誰かが死んでも、メソメソしないで」

 「……えっ」

 反射的に、後部座席へ目を向ける。そこにはもう、誰もいない。

 ついさっきまで悪態を吐いていた男の姿も。聞き慣れ始めていた、口の悪い声も。

 何一つ残っていなかった。

 「一応だよ、一応……、だって――」

 沙耶の声が、僅かに小さくなる。

 「ハッカーさん、弱すぎるもん……」

 その言葉が誰のことを指しているのか、嫌でも分かってしまう。

 だけどそこまで考えて、やめた。これ以上、誰かがいなくなることなんて考えたくなかった。だからこそ、海斗は頷く。

 「分かった」

 己自身と沙耶に誓うように、海斗は断言する。

 「絶対、約束する」

 「うんっ、約束ねっ」

 ようやく沙耶の声に、ほんの少しだけいつもの調子が戻った。

 やがてバンは大通りを外れ、速度を落としていく。周囲の景色を確認するように、沙耶が視線を動かした。

 「着いたよ」

 海斗もフロントガラスの向こうへ目を向ける。何が待っているのかは、まだ分からない。

 ただ、沙耶の横顔からは、先ほどまでの僅かな笑みすら消えていた。

 「ハッカーさん」

 「うん?」

 沙耶は前を見たまま、一度だけ小さく息を吐いた。

 「覚悟してね……」

 

 

 加奈が改札を出てからしばらくして。くぐもった男の低い声が、すぐ背後から聞こえた。

 「もう少し早く歩け」

 腰元には、先ほどから変わらず刃物の切っ先が押し当てられている。

 僅かに身体を捻るだけでも、その刃が脇腹へ食い込んできそうだった。

 「……何が、目的なの?」

 足を止めないまま、加奈は問い掛ける。

 「さぁな。ただ少なくとも、もう娑婆に居られるのは不都合だってことは間違いない」

 「…………カイ君のこと、よね……」

 それ以外に、自分がこんな目に遭う理由など思いつかなかった。海斗を追い始めてから、あまりにも多くのことが起きすぎている。

 「察しがいいな。なら、どうするべきか、分かるな?」

 「えぇ……」

 加奈は短く答える。抵抗するつもりがないわけではない。

 鞄の底には、横山から渡された拳銃がある。けれど、背後を取られた今の状況では取り出す方が先か、脇腹へ刃物が突き立つ方が先か――考えるまでもなかった。

 それに、まだ周囲には一般人の姿もある。今は従うしかない。

 そう自分に言い聞かせ、加奈は男に促されるまま西口のロータリーへ向かう。

 階段を下りた先に、一台の黒塗りの商用バンが停車していた。後部の窓は暗く、中の様子までは窺えない。

 「っ……」

 あれに乗せられたら、今度こそ助けを求めることすらできなくなる。加奈の足が僅かに鈍る。

 「これだ。さっさと――」

 男が刃物を押し付け、加奈をバンへ近づけようとした、その時だった。

 「ちょっとー? なぁーに女の人、拉致ってんの?」

 場違いなほど明るい声が、ロータリーの一角から飛んでくる。

 「――ッ⁉」

 男の意識が、ほんの一瞬だけ加奈から逸れた。小さく、乾いた破裂音。

 加奈のすぐ横で男の身体が揺れ、その手から刃物が落ちる。

 「なっ――」

 状況を理解するより早く、加奈はその場へ身を屈めた。

 続けて、もう一度。乾いた音とともに、男の身体がアスファルトへ崩れ落ちる。

 「……ッ⁉」

 加奈が顔を上げる。少し離れた場所に立っていたのは、まだ少女と呼んでも違和感のない女の子だった。

 その手には、銃口へ細長い筒を取り付けた拳銃が握られている。

 少女――沙耶は倒れた男へ目もくれず、素早くバンとの距離を詰めた。

 直後、内側からスライドドアが開く。

 「何だッ――」

 男が身を乗り出した瞬間、沙耶の銃口が動いた。乾いた音が続けざまに鳴る。

 狭い車内で何かがぶつかる鈍い音。さらに奥で動いた影へ、沙耶は躊躇なく銃口を向けた。

 最後にもう一度だけ音が響く。それきり、車内から人の声は聞こえなくなった。

 ほんの数秒――加奈が状況を理解する頃には、すべてが終わっていた。

 「はぁ……。やっぱ狭いとやりやすくて助かるね」

 沙耶は小さく息を吐くと、何事もなかったかのように拳銃を下ろす。

 「ちょっと……、貴女、何者なの……?」

 加奈は立ち上がりながら、無意識に鞄へ手を添えていた。

 助けられた。それだけは間違いない。けれど、目の前の少女が味方だと判断できる材料など、どこにもなかった。

 「説明は後っ、とりまこれに乗って」

 「乗ってって……」

 沙耶は答える代わりにバンの中を確認すると、今度は反対側へ顔を向ける。

 「ほぉーらっ、ハッカーさんもっ」

 「えっ……」

 聞き覚えのない呼び名だった。けれど、その言葉に反応して姿を見せた人物を見た瞬間、加奈の思考が止まる。

 「カイ、くん……?」

 何度も探した。何度も電話を掛けた。無事なのかすら分からなかった幼馴染が、そこに立っていた。

 「加奈……」

 「なんで……」

 聞きたいことは、いくらでもあった。

 どうして東京へ行ったのか。どうしてこんな連中に追われているのか。母親のことを知っているのか。そもそも、どうして――。

 「ほぉーら二人ともっ! さっさと乗るッ! また追手来ちゃうよ!」

 沙耶の声で、加奈は無理やり現実へ引き戻される。今は再会を喜んでいる場合ではない。

 まして、ここで話し込めるような状況でもなかった。

 加奈は倒れた男と、開いたままのスライドドアへ交互に視線を向ける。

 車内には、先ほどまで動いていたはずの人間が折り重なるように倒れていた。

 「……まさか、このまま乗るの?」

 「だってこんな所で死体下せないもん。少し我慢しててね」

 助けられたことへの安堵よりも先に、別の意味で背筋が冷たくなる。

 加奈は目の前の少女への警戒を解けないまま、それでも海斗とともにバンへ乗り込んだ。

 

 

 バンが走り出してからしばらく経っても、車内には重苦しい沈黙が流れていた。

 運転席では沙耶が何食わぬ顔でハンドルを握り、助手席には海斗。

 そして後部座席には加奈。その傍らには、先ほどまで生きていた人間たちが横たわっている。

 窓を僅かに開けていても、鼻につく鉄臭さまでは消えてくれない。

 加奈は隣に転がる死体から意識を逸らすように、助手席の後頭部を睨み続けていた。

 ようやく見つけた幼馴染。無事だったことには安心している。けれど、それ以上に聞きたいことが多すぎた。

 「ねぇ」

 「……はい…………」

 背中越しに感じる圧に、海斗の肩が僅かに強張る。

 「これ、どういうこと?」

 「…………それは……」

 海斗は言葉を詰まらせる。これ、と言われても、どこから説明すればいいのかすら分からない。

 ビーンズ。デリーター。サイトウ。公安。JIA。そして、母親。

 たった一日にも満たない時間で起きた出来事のどこから話しても、まともな説明になる気がしなかった。

 「……話すと、長くなる…………」

 「いいよ。聞かせて」

 間を置かずに返ってくる。

 「言い終わるまで口、挟まないから……」

 「…………はぁ……」

 それが本当に守られるのか疑わしかったが、今さら逃げられる話でもない。

 海斗が観念しかけた、その時だった。

 「ハッカーさん、私から言おうか?」

 運転席から沙耶が口を挟む。

 「悪いけど、部外者が口挟まないでくれないかな?」

 間髪入れず、後部座席から低い声が返ってきた。

 「部外者、ねぇー、さっき貴女を助けたのが誰か、もう忘れているのかな?」

 沙耶の口調は軽い。けれど、笑っているようには聞こえなかった。

 「そう……、そんなにチャチャ入れたいなら、まずは貴女のことについて聞かせてもらえる?」

 「おぉ怖っ、流石は現職の警察官だねっ」

 「なっ、なんで私が警察だって――」

 加奈の声が一段高くなる。海斗は二人の間に挟まれたような気分で、慌てて身体を起こした。

 「ふ、二人ともちょっと待って!」

 二人の視線が同時に海斗へ向く。片方はバックミラー越しに。もう片方は、真後ろから。

 「それ以上はちゃんと……、僕が説明するから……」

 加奈は何も答えなかった。けれど、それ以上沙耶を追及することもなかった。

 海斗は小さく息を吸う。

 自分が関わってきたことだ。なら、少なくとも自分の口から話さなければならない。

 「加奈、実は――」

 それから海斗は、時間をかけて加奈にここに至るまでの説明をした。


 ビーンズと呼ばれるゲームをきっかけに、裏社会へ足を踏み入れたこと。

 そこでサイトウと知り合い、デリーターの仕事を何度も請け負ってきたこと。

 大学で起きた事件を境に、自分たちが組織から狙われ始めたこと。

 東京でサイトウや公安、JIAの人間たちと合流したこと。

 そして、その途中で知らされた母親の死も。此処に来るまで命を落とした人たちのことも。

 できる限り、自分が知っていることはすべて話した。


 加奈は約束通り、一度も口を挟まなかった。

 「ここまでが、全部だよ……」

 話し終える頃には、海斗の喉はすっかり乾いていた。それでも後部座席から返事はない。

 「…………なんで……」

 やがて、掠れた声が聞こえた。

 「なんでそんなのに……、首ツッコんで…………」

 「それは――」

 答えようとして、海斗の言葉が止まる。

 ビーンズを始めた。問題を解いた。デリーターに選ばれた。仕事を請け負った。大学を辞めた。起きた出来事なら、いくらでも思い出せる。

 なのに――どうして? その問いに答えようとした瞬間だけ、何も出てこなかった。

 「……なんで、なんだろ…………」

 自分でも分からない。その事実を、そのまま口にした瞬間だった。

 「ッ!」

 乾いた音が車内に響く。遅れて、左頬に熱が走った。

 加奈が助手席へ身を乗り出し、海斗の頬を引っ叩いていた。

 「ふざけないでッ‼」

 「……ふざけて、なんか…………」

 「なら何ッ⁉ 大学急に辞めちゃって……、こんな大ごとに巻き込まれてッ! 挙句の果てには危ない人たちに狙われてるんだよッ⁉」

 海斗は何も言い返せない。加奈が怒っている理由くらいは分かる。

 けれど、その原因を作った自分自身のことだけが、どうしても説明できなかった。

 「…………カイ君のお母さんだって……、あんなっ……」

 「…………ッ」

 お母さん。その言葉だけが、胸の奥へ深く沈んだ。

 最後に見た顔。差し出された三万円。玄関を出る時に交わした「いってきます」。

 思い出せる。全部、思い出せる。なのに、それを失ったという実感だけが、未だに上手く自分の中へ落ちてこない。

 海斗は俯いたまま、何も答えられなかった。加奈も、それ以上言葉を続けられない。

 再び車内を沈黙が支配する。

 「ちょっとさ、休憩しない? 私運転、疲れちゃった」

 突然、沙耶が場違いなほど軽い声を出した。

 「えっ……」

 加奈が顔を上げる。

 「真面目な話ばかりで、空気も重苦しすぎるじゃん? 仕方ないかもだけどさ、いったん空気入れ替えよ?」

 「…………はぁ……」

 加奈は大きく息を吐く。これ以上話を続けたところで、今は感情をぶつけることしかできそうになかった。

 「ほら、それにいい加減、そこの死体さんたちも降ろさないと、ね?」

 沙耶がバックミラー越しに後部座席へ目をやる。

 加奈もつられて隣へ視線を向け、露骨に顔をしかめた。重苦しい空気をどうにかしたいという提案自体はありがたい。ただし、その理由の半分があまりにも物騒だった。

 「……助かるよ」

 海斗は座席へ身体を預けながら、小さく答える。

 今は少しだけ、考える時間が欲しかった。自分がどうしてここにいるのか。

 その答えが、自分自身にも分からないという事実について。

 「うんっ」

 沙耶はそれ以上追及することなく、休めそうな場所を探すように車を走らせ続けた。



 人気の少ない場所で死体を降ろした後、沙耶たちは道沿いにあった小さな休憩施設へ立ち寄っていた。

 駐車場の隅にバンを停めると、三人はようやく血の臭いが染みついた車内から外へ出る。

 「ごめん、カイ君。ちょっとトイレ、行ってくる」

 「うん……」

 加奈は数歩進んだところで、ふと足を止めた。

 「絶対、逃げないでね?」

 振り返った視線は、冗談を言っているようには見えない。

 そんな加奈に、沙耶は横から笑顔で口を挟む。

 「大丈夫だよ。逃げようとしたら、私が殺しちゃうからっ」

 「っ……、貴女、私なんか苦手……」

 加奈が露骨に顔をしかめた。

 「そっか。それはお互い様だね」

 言い返そうとして、加奈は口を噤む。

 今ここで相手をしても仕方がないと思ったのか、沙耶を睨み付けてから建物へ歩いていった。

 その背中が自動ドアの向こうへ消える。

 「行っちゃったねー」

 海斗は返事をせず、遠ざかっていく加奈の姿を目で追った。

 ようやく再会できた。それなのに、喜ぶより先に怒らせてしまった。

 当然だとは思う。自分ですら、自分が何をしてきたのか説明できても、どうしてそうしたのかは説明できないのだから。

 「……ねぇ、ハッカーさん」

 「なに?」

 先ほどまでとは違い、沙耶の声にはからかうような調子がなかった。

 「私も今の話聞いてて思ったけど――」

 一度だけ言葉を切る。

 「なんでビーンズ、やってみようって思ったの?」

 「それは……」

 答えようとする。けれど、やはり何も浮かばなかった。

 ビーンズを知った時のことは覚えている。問題を解いたことも。その先に何が待っているのか分からないまま、次々と問題を突破していったことも。

 記憶そのものが消えているわけではない。

 ただ、その行動を選んだ自分だけが、記憶の中から抜け落ちているような感覚があった。

 「ホントに、分からないんだ……」

 「えっ?」

 「大学辞めたきっかけも、あのゲームを勝ち進んだのも、言ってしまえばここに僕がいる理由も、正直分からない……」

 沙耶の表情から、僅かに笑みが消える。

 「……それって――」

 「記憶喪失、って言いたいんでしょ?」

 「…………」

 図星だったらしい。海斗自身、同じ可能性を考えなかったわけではない。

 「言いたいことは分かるよ。僕も今自分で言ってて、何言ってんだろって思うし。だけど――」

 頭の中にある記憶を、一つずつ確かめる。

 「僕はしっかり、幼馴染の加奈の記憶がある。母さんだって、大学時代の教授の名前もしっかり覚えてる。だけど唯一、自分のことが一番分からない……」

 思い出せないのではない。覚えていないわけでもない。自分が何をしたのかは分かる。

 ただ――どうしてそうしたのかだけが、どこを探しても見つからなかった。

 「……そっか」

 沙耶はそれ以上問い詰めなかった。代わりに駐車場の向こうへ視線を向ける。

 行き交う車。休憩する人々。少し前まで自分たちが銃撃戦の中にいたことなど知らない、いつも通りの日常がそこにはあった。

 「世界は不思議だらけだねっ」

 「えっ?」

 沙耶はどこか自嘲するように笑う。

 「恨みと仇の記憶しかなかった野乃花ちゃんのお兄さんに会えて、すぐ殺し合うはずだった君とはまだ一緒に居て、しかもよりによって君の幼馴染さんも助けてる。もし一日前の自分に言っても、絶対信じないよ」

 昨日までなら交わるはずのなかった人間たちが、この一日だけで不自然なほど繋がっている。

 偶然と言ってしまえば、確かにそれまでなのかもしれない。

 「まるで私たち、ゲームのNPCみたいだねっ」

 冗談めかした言葉。家に引きこもっていた時にやっていたゲームにもいた、名もないキャラクターたちがふと頭をよぎる。

 同時にそれは、なぜか妙に耳に残った。

 「ホントにそうだったら、いいのにね……」

 もしそうなら――自分が何を考えてここまで来たのか分からないことにも、理由がつく。

 大学を辞めたことも。犯罪に手を染めたことも。母親を巻き込んだことさえ――全部、最初から誰かに決められていたのなら――。

 そこまで考えて、海斗は思考を止めた。そんな都合のいい話があるはずもない。

 「ハッカーさん、今更だけどトイレは大丈夫?」

 「えっ、あぁ……」

 突然現実的なことを聞かれ、海斗は瞬きをする。

 「一応、行ってくる」

 そう言って歩き出しかけたところで、一つだけ確認していなかったことを思い出した。

 「そういえば、一つだけ聞いておいてもいい?」

 「ん? なんでもどうぞ?」

 「僕たちは今、何処に向かってるの?」

 問い掛けると、沙耶は迷う様子もなく答えた。

 「決まってるじゃん。君たちの故郷、だよ」

 「な、なんでそんな急に……」

 足が止まる。海斗は故郷へ帰りたいなど、一度も言っていない。

 加奈を助けるためにここへ来たことは分かる。けれど、その後まで故郷へ向かう理由は聞かされていなかった。

 「それはっ……」

 沙耶が口を開く。そのまま、言葉が止まった。

 「なんで、だろ……」

 ほんの少し前まで浮かんでいた笑みが、沙耶の顔から消えていた。

 冗談を言っているようには見えない。沙耶は自分の手を見る。

 その手でハンドルを握り、ここまで車を走らせてきた。曲がる道も。進む道も。目的地さえも、自分で決めていたはずなのに。

 どうしてそこへ向かおうとしたのかだけが、分からない。

 海斗は何も言えなかった。

 ついさっき、自分も同じ問いに答えられなかったからだ。

 「あ、あははっ……。ごめんっ、なんでだろ。私も分かんないや」

 沙耶は取り繕うように笑った。けれど、その声はいつもより僅かに乾いていた。

 「そ、そっか……」

 それ以上、海斗も追及できなかった。

 「ほらっ! 早くトイレ行ってきて! ついでにジュースも!」

 沙耶が急に声を張る。まるで今の会話そのものを追い払うようだった。

 「えっ、あぁ、うん……」

 「いってらっしゃい!」

 背中を押されるように、海斗は休憩施設へ向かう。

 自動ドアを抜け、その姿が見えなくなるまで沙耶は笑顔のまま見送った。そして――。

 「なんで私、こんなお節介、やってんだろ……」

 一人になった途端、その笑みが消える。

 加奈を助けたこと。海斗をここまで連れてきたこと。彼らの故郷へ向かおうとしていること。

 やったことは全部覚えている。それなのに、理由だけが上手く見つからない。

 その時、沙耶のスマホが震えた。画面に表示されたものを見て、沙耶の表情が僅かに強張る。一度だけ周囲を確認してから、通話へ応じた。

 「……はい、もしもし?」

 

 

 「女子が喜ぶジュースって、なんだろ……」

 用を済ませた海斗は、休憩施設の売店前に並んだ冷蔵ケースを眺めていた。

 沙耶からはジュースを買ってくるように言われたものの、何を選べばいいのかまでは聞いていない。

 炭酸飲料。スポーツドリンク。果汁飲料。いくつかの商品へ順番に目をやる。

 「こんなのでいっか……」

 結局海斗は、ブラックコーヒー三本手を取った。

 手早く会計を済ませたところで、少し離れた場所に見慣れた後ろ姿を見つける。

 「ん?」

 加奈だった。トイレから戻る途中なのだろう。けれど、通路の端で立ち止まったまま動こうとしない。

 「加奈……?」

 返事はなかった。聞こえなかったのかと思い、海斗は飲み物を手にしたまま近づいていく。

 「…………ねぇ、加奈?」

 肩へ触れようとした、その瞬間。

 「うわぁっ⁉」

 加奈が弾かれたように振り返る。

 「おぉっ⁉」

 予想以上の反応に、海斗まで身体を仰け反らせた。

 「か、カイ君……? な、何かあったの……?」

 加奈は目を見開いたまま、海斗の顔を見つめている。まるで今までそこにいることすら気づいていなかったような反応だった。

 「え……」

 数秒遅れて、加奈が周囲を見回す。自分がどこにいるのか確かめるように。

 「ご、ごめん……、私、何してたんだろ……」

 海斗は眉を寄せる。ただ考え事をしていたにしては、様子がおかしい。

 その時、加奈の足元で何かが光を反射していることに気づいた。

 「……スマホ、落としてるよ……?」

 「……ッ!」

 その一言に、加奈の表情が明らかに強張った。慌てて足元へ目を向ける。

 床に落ちていたスマホを拾い上げると、画面を確認することもなく握り締めた。

 「ど、どうかした……?」

 「ううん、別に……」

 即答だった。けれど、その声には先ほどまでとは違う硬さがある。海斗は加奈の手元へ視線を落とす。

 何があったのか? 誰かから連絡でも来たのか? 聞こうと思えば聞けた。

 それでも、加奈の表情を見ていると、今ここで問い詰める気にはなれなかった。

 「は、早く戻ろ? あの子、本気で置いていっちゃうかもだし」

 加奈は誤魔化すように歩き出す。

 「あの子」という言い方だけで、沙耶のことだとすぐに分かった。

 「そ、そうだね……」

 海斗もその後を追う。結局、加奈が何をしていたのかは分からない。

 けれど――スマホを指摘した瞬間の、あの表情だけが妙に頭に残った。



 「……っ、お、お帰り、二人とも……」

 駐車場へ戻るなり、沙耶がどこかぎこちない笑顔を向けてきた。

 「た、ただいま……」

 加奈も似たような調子で返す。

 「ん? 何かあったの?」

 海斗は二人を交互に見る。さっきまでとは、どこか様子が違う。けれど何が違うのかと聞かれれば、上手く説明できなかった。

 「い、いやぁー、べっつに―」

 沙耶がわざとらしく声を伸ばす。

 「それよりさハッカーさん、頼んでたジュースは?」

 「あぁ、うん……、これ……」

 海斗は買ってきた三本を差し出す。

 「ぶ、ブラックコーヒーって……、センスなーい」

 「た、確かに……、若い子にそれは……」

 沙耶に続き、加奈まで困ったように眉を下げた。

 「ご、ごめん……」

 別にコーヒーが嫌いというわけではない。

 ただ、ジュースを頼まれてブラックコーヒーを三本買ってくるのは違ったらしい。

 「ハッカーさんっ、買いなおし!」

 沙耶が三本まとめて海斗へ押し返す。

 「ついでに私のもお願いね? カイ君っ」

 「は、はい……、行ってきます……」

 二対一では勝ち目がない。

 海斗はブラックコーヒーを抱え直すと、再び休憩施設へ向かっていった。

 二人はその背中を黙って見送る。自動ドアの向こうへ海斗の姿が消えるまで。そして――。

 「……さてと」

 先に口を開いたのは、加奈だった。先ほどまで浮かべていた困り顔は消えている。

 加奈は沙耶へ向き直ると、手にしていたスマホを握り直した。

 「聞きたいことだらけだけど――」

 一瞬だけ、自分のスマホへ視線を落とす。つい先ほどまで床に落ちていたそれを見てから、今度は沙耶の持つ端末へ目を向けた。

 「さっきの電話、何かわかる?」

 「……分からない」

 沙耶の返事は短かった。普段なら適当な冗談の一つでも挟みそうなものなのに、今はその気配すらない。

 「だけど、身に覚えしかないことばかり……、だった……」

 矛盾した言葉だった。分からないのに、身に覚えがある。加奈には、その意味が分かってしまった。

 自分も同じだったからだ。知らないはずのことを聞かされた。自分の記憶には存在しない出来事。それなのに、否定しようとすると胸の奥に引っ掛かる。

 夢で見た、もう一人の自分。両親の死。そして、自分では知るはずのない海斗との記憶。

 初めて聞いたはずなのに、まるでずっと前から知っていたことを思い出させられたような感覚だけが残っている。

 「そう……、貴女も……」

 加奈が小さく呟く。今度は沙耶が、その言葉に顔を上げた。二人の間に、短い沈黙が落ちる。

 海斗は、自分が何をしたのか覚えているのに、なぜそれを選んだのか分からないと言った。

 沙耶もまた、自分でハンドルを握り、自分で目的地を決めたはずなのに、どうしてそこへ向かっているのか分からなかった。

 そして今度は、自分たち二人へ同じような電話が掛かってきた。

 知らないはずなのに、知っている。自分のものではないはずなのに、自分と無関係だとも言い切れない記憶。

 一つだけなら、偶然で済ませられたのかもしれない。けれど、ここまで重なれば――。

 「ねぇ、私たちってさ――」

 「やめて」

 加奈は、その先を聞くより早く遮った。

 何を言おうとしたのか。聞かなくても、分かってしまったからだ。

 「そんなこと言ったら、私たち……、本当に夢の中だけの住人だよ……」

 口にした途端、自分の言葉で胸の奥が冷たくなる。

 夢――今朝までなら、そんな言葉で今いる世界を疑うことなどなかった。

 けれど今は、自分自身が夢の中で『もう一人の加奈』を見ている。

 海斗には、自分の人生を選んだ理由だけがない。

 沙耶にも、自分で決めたはずの目的地へ向かう理由がない。

 そして二人の元へ、自分たちの知らない記憶を知る何者かから電話が掛かってきた。

 沙耶が少しだけ困ったように笑う。

 「……それ、もう認めてるようなもんじゃん」

 加奈は何も言い返せなかった。

 「それで、どうするの?」

 「どうするって……?」

 「ハッカーさん、このままここで死なす? それとも、生かしたい?」

 突然突きつけられた問いに、加奈は黙り込む。答えなど決まっている――海斗には生きていてほしい。

 けれど――今まで思っていた『生きる』と、今ここで沙耶が聞いている『生きる』が、同じ意味だとは思えなかった。

 「この“セカイ”は、戸石加奈って人格も影響してるんでしょ?」

 「……多分」

 加奈は自分の胸元を握る。確証はない。だけど今、自分たちの身に起きていることが、加奈の理解を超えた何かであるように思えた。

 「さっきの電話で――いや、別の世界の私を知って、やっとカイ君が言ってた意味が分かった……」

 夢の中で泣いていた自分。両親を殺し、それでも誰かへ謝り続けていた自分。そして最後に残した言葉。


 ――絶対に、帰してあげてね――


 あれが本当に、自分ではない戸石加奈の記憶だったのだとしたら――。

 「当たり前だよねっ、カイ君、この世界を自分で生きてないんだもん」

 言葉にすると、あまりにも残酷だった。海斗はここまで、自分で選んできたつもりだった。

 大学を辞めたことも。ビーンズを始めたことも。そして、裏社会へ足を踏み入れたことも。

 けれど本人には、その選択をした理由がない。結果だけがあって、そこへ至った意志だけが見つからない。

 「でもさ――」

 沙耶は自分の掌へ視線を落とす。

 「もしこれが本当に、ハッカーさんの記憶の中の世界だったとして……、今もこうして話してる私たちって、本当に無意味な存在なのかな……?」

 その声には、珍しく不安が滲んでいた。

 偽物。夢。もう一つのセカイ。

 どの言葉を使っても、今ここで考え、話している自分まで消えてしまうような気がした。

 「……どうなんだろっ」

 加奈にも答えは分からない。自分は確かにここにいる。

 海斗を心配して、怒って、助けたいと思っている。それすら誰かに与えられた感情なのだと言われれば、何を信じればいいのか分からなかった。

 「でもさ――」

 沙耶が顔を上げる。

 「ハッカーさん、言ってたよ。貴女のこと、“絶対、無くしたくない”って。もしこの世界が本当に正しい終わり方するなら、ハッカーさん、本当に貴女のこと忘れられないと思う」

 加奈の瞳が僅かに揺れる。嬉しい――そう思ってしまった。

 こんな状況でも、その言葉だけはどうしようもなく嬉しかった。だからこそ、胸が痛む。

 「ねぇ、加奈さん…………このセカイって、何のために存在してるの?」

 「…………さぁ……」

 加奈は静かに首を横へ振る。

 世界の正体も、自分たちがここにいる理由も――海斗がここへ来た意味も。何一つ、本当のところは分からない。

 「だって私、向こうのセカイの私じゃないもん」

 それだけは、不思議とはっきり言えた。

 どれだけ同じ記憶を持っていたとしても、どれだけ似た感情を抱いていたとしても。今ここで海斗を見て、怒って、悩んで、選ぼうとしているのは――今の自分だ。

 「そう、だよね……」

 沙耶が小さく笑う。その表情は、少しだけ安心したようにも見えた。

 「ねぇ、加奈さん」

 「ん? なに?」

 「もしさ、このセカイで自分の感情を一つ消せるなら、何を消したい?」

 「なによ、唐突に……」

 「私はね、憎しみを消したい」

 沙耶は遠くを見るように目を細めた。

 「私もなんで、国のために頑張ろうなんて思ったかなんて分からなかった。だけどさ、ずっと誰かを恨んでここまで来ちゃった……。いっぱい人、苦しめながらさ」

 誰かを恨んで、その恨みを理由に別の誰かを傷つけて――気づけば、自分が憎んでいた側と大して変わらないところまで来ていた。

 「だからせめて、誰かの夢の中のセカイくらい、普通の女子高生でいたかった」

 いつものような笑顔だった。けれど今だけは、それが無理をして作ったものだと加奈にも分かった。

 誰かを殺すこともなく、誰かに殺されることもなく――。

 友達とくだらない話をして、学校へ通って、将来のことを考える。そんな当たり前の時間を、沙耶は一度でも持てたのだろうか。

 「ねぇ、加奈さん……、貴女なら何を消したい?」

 「私は……」

 すぐには答えられなかった。

 憎しみ、後悔、恐怖――。消してしまいたい感情なら、いくらでもあるはずだった。

 それでも最初に浮かんだものは、そのどれでもない。海斗の顔だった。

 「好き、を……、消したい……」

 自分の口から出た言葉に、加奈自身が僅かに俯く。

 「好きって感情を、消しちゃいたい……」

 海斗を好きにならなければ――ここまで追いかけることもなかった。こんなに苦しくなることもなかった。

 そして――別の世界の自分も、海斗の人生をここまで縛ることはなかったのかもしれない。

 「そっか……」

 沙耶は笑わなかった。

 「なんかそれ、分かる気がする……」

 好きも、憎いも――方向が違うだけで、誰かを自分の人生へ縛り付けるという意味では、案外似たものなのかもしれない。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。休憩施設へ出入りする人の声だけが、遠くから聞こえてくる。

 「……もう、終わりなんだね」

 沙耶がぽつりと呟く。

 「……そうだね」

 加奈も否定しなかった。何が終わるのかは、まだ分からない。この世界なのか、今までの自分たちなのか。それとも――海斗との時間なのか。

 「ねぇ、加奈さん」

 「なに?」

 沙耶は休憩施設の入口へ視線を向ける。海斗はまだ戻ってこない。

 「ハッカーさんのこと、ちゃんと解放してあげてね」

 「…………うん」

 その言葉が何を意味するのか。加奈にはもう、分かっていた。

 だからこそ、胸の奥が締め付けられる。それでも――。

 「絶対、終わらせるね……」

 それが海斗のためなのだと、今の加奈は信じていた。

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