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幼馴染のニート更生プログラム  作者: やわらぎメンマ
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8/14

コネクティッド

 新幹線が終着駅に到着してまもなく、加奈は人波から少し外れるようにプラットホームの端へ寄った。

 ホームには到着を知らせるアナウンスが流れ、降車した乗客たちが一斉に改札へ向かっていく。その流れに乗ることもなく、加奈は鞄からスマートフォンを取り出した。

 画面には、移動中に何度も確認した名前が表示されている。

 横山先輩――通話ボタンを押すと、数回の呼び出し音を待たずに相手が出た。

 「もしもし?」

 『おぉ、加奈ちゃん。無事着いた?』

 「はい、それより何か新しい情報ありましたか? 横山先輩」

 挨拶を返す時間すら惜しい。加奈がすぐ本題へ入ると、電話の向こうで横山がわずかに息を吐くのが聞こえた。

 『あるよ……、グッドニュースとバッドニュース。どっちから聞きたい?』

 「お任せします」

 『分かった。じゃあグッドニュースからだけど、小高君の居場所はある程度追尾できることが分かったよ』

 「ほんとですか⁉」

 思わず声が大きくなる。近くを歩いていた何人かがこちらを振り向いたが、今は気にしていられなかった。

 『うん、街の監視カメラを使った大雑把なものだけどね。だけどそれに追従したバッドニュースが――』

 僅かな一拍。だが加奈があらゆる最悪を想像するには十分すぎる時間だった。

 そして、横山は告げる。

 『小高君、身元不明の人間に拘束されてるみたい』

 「それって……」

 ほんの一瞬前まで浮かんでいた安堵が、上書きされるように消え去る。加奈はスマートフォンを握る手に力を込めた。

 『ごめん。僕たちも出来ることは一通りやってみたけど、正直身元までは分からなかった』

 「……ッ」

 身元すら分からない人間と一緒にいる。しかも、本人の意思ではない可能性が高い。

 胸の奥に浮かんだ最悪の想像を、加奈は無理やり飲み込んだ。

 『それとこれは、追加のバッドニュースだけど――』

 横山の声が、それまでよりわずかに低くなる。

 『今や小高海斗君は、公安の一部で、“抵抗した場合は生存確保を優先しない”って話まで出てる』

 「なに、それ……」

 『最悪の場合、生死は問わないって話だよ』

 「なんですか、それ……ッ」

 怒りに任せて声が震えた。

 「そんなんじゃまるで、カイ君を初めから殺すつもりみたいじゃないですかッ‼」

 『加奈ちゃん、落ち着いて』

 電話越しの静かな声に、加奈はようやく周囲から向けられる視線へ気づく。

 「……すみません……」

 深く息を吸い、無理やり声を抑えた。それでも、胸の内で膨らんだ怒りまでは消えてくれない。

 「だけど、なんでそんな大げさなことになってるんですか……?」

 『……落ち着いて聞いてほしいんだけど――』

 そこで横山が一度言葉を止めた。嫌な間だった。

 『小高君は、今朝の大学の電源喪失だけじゃなくて、過去に起きたサイバー犯罪の一部にも関与してることが分かったんだ』

 「…………えっ……」

 今度こそ、周囲の音が一瞬遠のいた気がした。

 『信じられないと思うけど、これは間違いない』

 「……なんで?」

 加奈はホームの床へ視線を落とす。

 「……なんでそんなこと、言い切れるんですか……?」

 答えが返ってくるまでの数秒が、やけに長く感じられた。

 『……電源喪失に限らずだけど、どうやら小高君は別の人物からの指示の下で、サイバー犯罪に加担していたみたいでね。その証拠に、彼の隠し口座に累計で二億近い暗号通貨の資産があった』

 「……は?……」

 あまりにも現実離れした数字だった。

 加奈の知っている海斗と、電話の向こうで語られている人物像が、どうしても重ならない。

 『信じられないのも分かる。だけど、昨日の事件発生から二時間後に、三千万の入金履歴もあったんだ。それと――』

 「…………」

 『決定的な証拠が、彼が持っているパソコンだね。押収して解析した結果、ゴロゴロ証拠が溢れ出てきたよ。まるで、“僕が一連の犯人です”って言わんばかりにね』

 何かがおかしい。そう思いたかった。

 けれど、聞かされた証拠の一つ一つを否定できる材料を、加奈は何も持っていない。

 知っているのは、昔からの海斗だけ。

 そして今、その海斗が自分の知らない場所で、何をしていたのかすら分からない。

 『加奈ちゃん、流石にもうこれ以上は、僕も協力でき――』

 「お願いします」

 横山の言葉を遮った。自分でも驚くほど、声だけは落ち着いていた。

 『加奈ちゃん……』

 「先輩に多大なご迷惑をおかけしてしまうことも、下手すれば犯罪者の幇助をしかねない行為であることも重々承知です。だけどっ――」

 一度、言葉が詰まる。それでも、ここだけは譲れなかった。

 「せめて、カイ君の口から正直な話を聞きたいんですっ……」

 『…………』

 「だから、お願いします……。もう少しだけ、私に情報をください……」

 加奈は強く唇を噛んだ。庇いたいわけではない。無実だと決めつけたいわけでもない。

 ただ、何も知らないまま誰かに裁かれて終わることだけは受け入れられなかった。

 「もしカイ君を見つけられたら――」

 そこで一度、目を閉じる。警察官として――幼馴染として。どちらからも逃げないために。

 「その時は私が、彼に手錠を掛けます」

 電話の向こうから、しばらく返事はなかった。やがて、小さなため息が聞こえる。

 『……分かったよ。ほんと、少しだけね』

 「……ッ、ありがとうございます」

 『今分かってるのは、彼が千葉の幕張付近にいること。僕の方でも場所の特定はしてみるけど、絶対に一人で何かしようとは思わないでね』

 「……善処はします」

 『はぁ……』

 返事になっていないことくらい、横山にも分かっているのだろう。

 『とりあえず、稲毛海岸に向かってみて。もし別の動きあったら、また連絡する』

 「分かりました」

 通話が切れる。加奈はすぐにスマートフォンの地図を開いた。

 迷っている時間はない。ホームを行き交う人波へ踏み込み、そのまま改札へ向かって歩き出す。

 海斗が何をしていたのか。なぜ何も言わなかったのか。今度こそ絶対に、本人の口から全部聞く。

 その答えがどんなものだったとしても――今度は、自分が逃がさない。

 そう胸に誓って、加奈は在来線の乗り換え改札に急いだ。



 「な、なんで……」

 小さな電球で照らされた倉庫内で、海斗は椅子に腰かけて足を組む少女を見上げる。

 海斗も黒崎たち同様に、手足首を縛られた状態で彼女の妙に妖艶な視線を受け止めていた。

 つい先ほどまで自分たちを守る側にいたはずの少女――その手には今、こちらへ向けるための拳銃が握られている。

 「黒崎さん言ってたでしょ? 敵味方は分からないって。その最たる例ですねっ」

 いつものように沙耶は、悪びれた様子もなく口元を緩める。

 「そういえば、ハッカーさんにまだちゃんと謝ってませんでしたよね」

 だが、その笑顔が今までと同じものなのか、海斗にはもう分からなかった。

 「ごめんね? こんな裏切り方しちゃってっ」

 「なんで……、こんな……」

 「さぁ? 私も分かんない。だって上の人からの指示だもん」

 「……貴女もサイトウさんと同様、末端の人間、というわけですか……」

 苦しげな声を出したのは黒崎だった。先ほど受けた傷のせいか、壁にもたれた身体にはほとんど力が入っていない。

 「そういうこと。でも、サイトウさんと違って、私は本当に国を裏切っちゃってるからなぁ」

 「どういう、事だよ……」

 「私は初めからデリーターのスパイじゃないってこと。ホントに、JIAの工作員なんだよ」

 「はっ、俺なんかよりよっぽどクズい理由で寝返ったわけかよ。所詮金――」


 ――バンッ!


 狭い倉庫内に、乾いた銃声が反響する。サイトウの言葉が途中で途切れた。

 弾丸は彼の身体から外れ、背後の壁へ食い込んでいた。

 「そんな下衆共と一緒にしないで……」

 先ほどまで浮かべていた笑みは、もうない。

 「わ、私たちを……、どうする、つもりですか……」

 唯一負傷している黒崎が、弱々しい声とともに沙耶を睨む。

 「どうするもなにも、後は別の人たちに引き継いで私はお終いだよっ。君たちのその後なんて、知ったこっちゃないし」

 投げ捨てるような言葉。それを聞いた海斗の胸に、今朝耳にした別の声が蘇った。

 「――そっか……」

 海斗の中で、今朝のサイトウとの通話内容が呼び起こされる。

 選ばれた奴隷――あの時は、自分たちを嘲るための言葉だと思っていた。

 けれど今、その言葉は別の意味を持って胸へ突き刺さる。

 「僕たちは、ホントにみんな奴隷みたいだ……」

 「えっ……」

 沙耶の目が一瞬見開く。だが海斗は気づかず下を向いたまま、今朝のサイトウと話した内容をたどるように口を開く。

 「誰かが僕に言ったんだ。選ばれた奴隷だって。でも、その人も同じ奴隷だった――」

 「…………」

 沙耶は何も言わない。ただ指先は、拳銃のグリップを強く握り込む。

 「君にこうして、裏切られてはじめてわかった。いくら奴隷だったからって、僕たちは本当に、非情な事ばっかりしてきたんだね……」

 「うるさいっ……」

 「だから、僕はこれで償えるものがあるなら――」

 「うるさいッ‼」


 ――バンッ、バンッ!


 再び銃声が鳴る。

 頭上で何かが弾ける音がした直後、倉庫内から明かりが消えた。一瞬にして訪れた闇の中、海斗は反射的に肩を竦める。

 窓の外から差し込む街灯だけが、上に向けられた銃口と、その先から立ち上る煙を白く浮かび上がらせていた。

 「はぁ……はぁ……」

 沙耶の荒い呼吸だけが、静まり返った倉庫に響く。

 「私だって、こんなはずじゃなかったの……ッ」

 声が震えていた。怒っているようにも、泣いているようにも聞こえた。

 「野乃花ちゃんを見捨てろなんて言われなきゃ、こんなことにならなかったのに……」

 「おい……、野乃花って……」

 それまで強がるように言葉を返していたサイトウの声から、一瞬で色が消えた。

 「お前、もしかしてっ……」

 「そうだよ――」

 沙耶がゆっくりと銃口を横へ向ける。

 その先にいたのは、海斗ではない。

 「斉藤野乃花ちゃん――私は貴方の妹を見殺しにした――ううん、殺したの」

 涙を瞳に溜めながら、沙耶はサイトウに銃口を向けた。

 「…………は………?」

 サイトウは目を見開いたまま、動かない。

 怒鳴ることも、問い詰めることもできず、ただ言葉の意味だけを理解しようとしているようだった。

 「……ど、どういう、こと……?」

 代わりに声を出したのは海斗だった。

 その純粋な疑問に、沙耶は震える口元を必死に誤魔化すように息を吐く。

 「野乃花ちゃんはね、私と同じJIA工作員の候補生だったの。サイトウさんとハッカーさんみたいに、二人一組で色んな訓練受けさせられた――」

 一度言葉が出てくると、沙耶はぽつぽつと自身の過去を話し始めた。

 「でも訓練が終わって、最後の試験を受けることになった時、私たちは初めて実戦的な任務に就いたの――その時、野乃花ちゃんは敵の人質に取られたんだ――」

 さっきまでこちらへ向けられていた銃口が、少しずつ床へ落ちていく。沙耶の視線もまた、今ここにはない光景を見ていた。

 「教官は現場を監視カメラで見てた。訓練じゃないっていうのにね……。今思えば、ああいうの、“高みの見物”って言うんだろうね。ますますムカつく」

 誰も口を挟まない。口調こそ冷静だが、彼女の声音には憎しみが詰まっていた。

 「そんな教官たちは、初めて実戦投下された私たちのピンチに、無線であり得ない指令を下したの」

 沙耶の喉が小さく鳴る。唇を強く結ぶと、彼女は努めて感情を押し殺しながら言った。

 「『――男を撃て。最悪相方に当たっても構わない』だってさ」

 「…………なんだよ……」

 サイトウの声が震え始める。

 「それじゃあアイツは、見殺しにされたも同然じゃねぇかッ……」

 「そうだよ。私もそう思った。でも、実態はもっと最悪だった」

 「は?」

 「当然、私はそんなことできないって叫んだよ。そしたら奴ら、何してきたと思う?」

 誰も答えられない。沙耶は一度唇を噛み、続けた。

 「こうなること分かってたのか知らないけど、特殊部隊を突撃させてきた。野乃花ちゃんが人質に取られてるのに、構わずサブマシンガンを撃たせたの」

 「え…………」

 「酷すぎるよね。いくら実戦だからって、もう少し助ける手段とか考えられたはずなのに……」

 吐き出した言葉とは裏腹に、沙耶の声にはもう怒鳴るだけの勢いすら残っていなかった。

 「それじゃあ、それって命令を下した教官のせいなんじゃないの……? なんでそんな、裏切る真似を……」

 「私がJIAに入局することが確定したタイミングで、事の背景を聞いたから」

 場が静まり返る。しばらくの間があって、沙耶は再び口を開いた。

 「もうね、目の前でその偉い人、ぶち殺したくなったよ。私の疑問にあの男、なんて言ってきたと思う?」

 沙耶は鼻で笑う。それは普段見せる軽薄な笑顔とは違う。自分自身まで嘲るような、乾いた笑いだった。

 「『一人の候補生を救出するために、作戦全体を危険に晒す判断はできない。君はベストを尽くした』だって。笑えるよね」

 誰も笑わない。笑えるわけがなかった。

 「だから私は、絶対にこの国を許さない。自分たちの都合で私の親友を――野乃花ちゃんの死を、仕方なかったで済ませた奴らも、そんなやつらの“味方”になろうとしてる君たちも、絶対に許さない」

 「そういう……ことかよ……」

 サイトウは俯いた。表情は見えない。

 「そりゃ、そうだよな……。あるはずのない組織に行ったことが分かれば、三日で捜査を打ち切るわけだ……」

 三年間――サイトウが妹を追い続けてきた時間が、たった今知らされた事実によって別の意味へ塗り替えられていく。

 けれど、妹が見つかったわけではない。帰ってきたわけでもない。ただ、探し続けていた理由だけが、突然なくなった。

 「でも――」

 サイトウは掠れた声で続ける。

 「その先でお前と出会って、今もアイツのために後悔しんなら、アイツにとっては十分報われてんのかもな……」

 沙耶がわずかに顔を歪める。

 「正直なこというけど、もう訳わかんねぇよ……。必死に妹を探すために飛び込んだってのに、妹はその真逆の場所に居て――、よくわかんねぇ理由で殺されて、ソイツもめっちゃ後悔してて――」

 途中から、誰へ向けた言葉なのかすら分からなくなっているようだった。

 沙耶でもない。海斗でもない。もういない妹へ話しかけているようにも聞こえた。

 「俺はもう、何のために生きてけばいいのか、本当に分かんねぇよ……」

 沈黙が落ちる。窓の外を走る車の音だけが、遠くから微かに聞こえてくる。

 「なぁ、一つだけ、頼まれてくれねぇか?」

 サイトウが顔を上げる。

 そこに、いつもの悪態を吐く男の面影はほとんど残っていなかった。

 「もう、疲れちまったよ……。どうせ、俺らは奴らに殺されるんだろ? んならもういっそ、お前の手で殺してくれ……」

 「…………なんで……」

 沙耶が呆然と呟く。向けていた拳銃が、僅かに震えた。

 「なんで、怒ってくれないの……?」

 声も僅かに震えていた。

 「なんでそんなに、諦めがいいの……ッ?」

 次第に沙耶は、今までの理不尽を呪うように叫ぶ。

 「なんで……、なんでそんなに…………、野乃花ちゃんに似てるの……ッ⁉」

 最後の言葉だけが、悲鳴のように倉庫へ響いた。

 サイトウは何も返さない。その横顔を見ながら、海斗の中に一つの考えが浮かぶ。

 正しいかどうかなんて分からない。

 今日初めて会った人間たちのことを、分かったつもりになる資格なんてない。それでも。

 「みんな、すごく優しいんだね……」

 突然の海斗の一言に、他の3人は戸惑い交じりにただ視線を彼に向ける。

 「……んだよ、クソハッカー。知ったような口、聞いてくれてんじゃん……」

 「……ホントに、そうだね……」

 海斗自身も小さく苦笑する。

 「サイトウ君も、村上さんも今日会ったばかりなのに、おこがましいよね……。でも――」

 脳裏には、今朝までの自分が浮かんでいた。

 仕事も、金も、犯罪も。言われたからやった。流されたから続けた。

 それなのに目の前の二人は、結果が間違っていたとしても、誰か一人のために自分から人生を変えている。

 「結果的にいい道じゃなくたって、誰かのために自分の意志で行動できるって、本当に優しい人しかできない事だと思う……。少なくとも、僕とは正反対だ……」

 「…………ハッカーさんこそさ、人のこと言えないよ……」

 「……え?」

 「ハッカーさん、幼馴染さんがいるよね?」

 「…………なんで今、そんなこと……」

 「私、知ってるよ? 家から逃げる時、“ログデータの削除、してなかった”よね?」

 「あれは本当に、慌てて忘れちゃってただけで――」

 「“大好きな幼馴染”が何も知らないまま、自分だけ消される未来まで想像できてた君が? 最後に幼馴染を裏切るような証拠を残して? 地頭がいいはずなのに、そんなところに気が回らない訳ないよね?」

 「……それもやっぱり、盗聴器で……?」

 背筋に冷たいものが走る。部屋で何を話したか。何を見られていたのか――思い返そうとしても、範囲が広すぎた。

 「君の行動は、全部お見通しだったよ。だって――」

 沙耶は一度だけ目を伏せる。

 「君たちの指示役、私だったから」

 「えっ…………」

 「は?…………」

 海斗とサイトウの声が重なる。

 「え……、ほんとに……?」

 またも漏れた海斗の戸惑う声に、沙耶は答えない。その沈黙だけで十分だった。

 何も答えないまま二人の背後へ回ると、沙耶は縛りつけていた結束バンドをすべて切っていく。

 突然自由になった手首を、海斗はしばらく動かすことすらできなかった。

 「な、なんだよ……」

 サイトウの動揺をよそに、沙耶は黒崎の拘束も解いていく。

 しばらく静かだった黒崎は、全く微動だにしていなかった。沙耶はその傍らへ膝をつく。

 そして何も言わず、自前のハンカチをそっと彼の顔へ掛けた。

 「また大っきい罪、作っちゃった」

 呟きは、誰へ向けたものでもないように聞こえた。

 「ハッカーさん、君は私のこと、誰かのために自分の意志で動ける人だって言ってくれたよね?」

 「う、うん……」

 「ごめんね……。それ、過大評価っ……」

 言いながら沙耶は、その場に膝から崩れ落ちるように項垂れる。

 「私ももう、誰かの言いなりになるの、疲れちゃった……」

 沙耶は握っていたナイフを、二人の足元へ力なく落とした。金属音が、やけに大きく響く。

 「君のお母さん、殺されたって言ったけど、私も殺した一味だもん……。野乃花ちゃんのお兄ちゃんだって、利用してばっかり……。どうせ私も、消されちゃうんだし……もう、好きにして」

 それは降伏というより、何もかもを手放した人間の声だった。

 海斗は足元のナイフを見る。使えば、今すぐ沙耶を傷つけることだってできる。

 母親を殺した側の人間。自分たちを騙していた人間。怒る理由なら、いくらでもあるはずだった。

 なのに――。

 「……グスっ…………」

 先に頬を伝ったのは、怒りではなかった。

 「えっ……」

 「お、おい……、なんでお前が泣いてんだよ……」

 自分でも分からない。母親が死んだと聞いた時ですら、まともに泣けなかった。

 それなのに今は、目の前の二人を見ているだけで、勝手に涙が溢れてくる。

 「だってっ……、みんな理不尽じゃん……」

 不思議と感情が涙と共に、口からこぼれ出てくる。

 「みんな何かに巻き込まれて、それでもまた誰かを巻き込んで、どうしようもなくなって……。生きること自体諦めるしかないなんて……、みんなもう、理不尽だよ……」

 誰か一人だけが悪いなら、もっと簡単だった。誰か一人を憎めば終われるなら、その方がずっと楽だった。

 けれど、海斗の目に映る三人は皆、誰かに傷つけられながら、別の誰かを傷つけている。

 「二人とも――」

 「しっ」

 突然、沙耶の表情が変わった。

 海斗が言いかけた瞬間、沙耶は彼の口を手のひらで塞ぎ、鋭く周囲へ視線を走らせる。

 「……んだよ?」

 サイトウも声を潜める。沙耶は返事をせず、耳を澄ませた。

 やがて、倉庫の外から微かな物音が聞こえる。複数人分の足音。こちらへ近づいている。

 「来ちゃったみたい……」

 「来ちゃったって……」

 沙耶はすぐに立ち上がった。

 先ほどまでの弱々しさを無理やり押し隠すように、拳銃を握り直す。

 「二人とも、隠れて」

 まただ――誰かが決めた道を、言われたまま進む。

 ついさっきまでなら、海斗はきっとそうしていた。けれど――。

 「……嫌だ」

 自分の口から出たその一言に、海斗自身が一番驚いた。

 「……はっ」

 沙耶が振り返る。

 「何言ってるの? バカじゃないのっ?」

 「村上さんには言われたくないよ」

 今度は、迷わなかった。

 「逃げるならみんなで逃げよ。誰か一人でも死ぬつもりなら、僕も諦めるから」

 「……ハッカーさん……、それは卑怯すぎるよ……」

 沙耶が困ったように眉を下げる。

 「……はぁ……」

 その隣でサイトウが深く息を吐いた。

 「やっぱ、地頭いい奴はクソだわ……」

 悪態だったけれど、今までで一番いつものサイトウらしい声に聞こえた。

 「それで、此処は抜け道とかあるの?」

 「分からない……、此処は公安さんが用意した場所だから……」

 「んならいっそ、飛び降りっか?」

 「骨折って死んじゃったら元も子もないでしょ……」

 僅かなやり取りの間にも、外の気配は近づいてくる。

 沙耶は暗い室内を見回し、最後に扉へ目を向けた。

 「……抜け道がないなら、強行突破しかないね」


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