ランタイム・エラー
十二両編成の新幹線は、時速二百キロを超える速度で東へ進んでいた。
窓の外では、街並みも山も目まぐるしい勢いで後方へ流れていく。それでも加奈には、ひどく遅く感じられた。
「……まだ着かないの」
東京行きの新幹線へ乗り込んでから、すでに一時間ほどが経っている。
勤務先の先輩から断片的な情報を聞き、半ば飛び出すように駅へ向かった。長期休暇の申請を出し、そのまま海斗を追うように東京へ向かったまではいい。
だが、肝心の海斗が今どこにいるのかまでは分からない。
「なんで……、カイ君が……」
口にしたところで、答えが返ってくるはずもなかった。聞かされた話のすべてを、まだ頭の中で整理できていない。
海斗が、自分の知らないところで犯罪に関わっていたこと。
大学で起きた事件にも、何らかの形で関係しているらしいこと。
そして今、その本人は自分に何も告げないまま東京へ向かっている。
分からないことばかりだった。だからこそ、直接本人から聞かなければならない。
(絶対、逃がしてやらないんだから……)
目的の終着駅までは、あと四十分ほど。
加奈は車窓に映る自分を睨みつけるように見つめながら、手の中のスマートフォンを強く握りしめた。
画面には何の通知もない。それでも一度たりとも見逃すまいと、加奈は何度も同じ画面へ視線を落とし続けていた。
「え…………」
海斗の間の抜けた声を最後に、首都高の料金所を通過した車内は重苦しい沈黙に包まれた。
――母親が、死んだ。
沙耶から告げられた言葉を頭の中でもう一度なぞってみる。意味は分かる。何を言われたのかも理解できる。
それなのに、その事実だけが自分とはまるで関係のない出来事のように、頭の中で浮いたままになっていた。
車は海沿いの幹線道路を、さらに東へ進む。それから五分ほど経った頃には、窓の外に広がる景色も、千葉県の海浜地域へと移り変わっていた。
「……そういうとこ、ホント嫌い」
「…………え………」
不意に落とされた声に、海斗は顔を上げる。
沙耶は海斗を見ていた。いつもの人懐っこい笑みはない。底冷えするような視線を向けたまま、何かを言いたげに唇を結んでいる。
「黒崎さん、ちょっとコンビニ寄ってくれない?」
「分かりました」
それ以上、沙耶が何かを言うことはなかった。黒崎がハンドルを切り、ほどなくしてバンは街道沿いのコンビニへ滑り込む。
車が停まるなり、沙耶は誰とも目を合わせずにスライドドアを開け、そのまま店内へ入っていった。
「サイトウくん……、今の――」
「気にしないでください。彼女も言ったそばから後悔しているでしょうし」
答えたのは、サイトウではなく運転席の黒崎だった。
「……まぁ、アイツが感情的になったのも、ちと分かるけどな」
サイトウは沙耶が消えていった店内へ目を向けたまま、面倒そうに頭を掻く。
「え?」
「少なくとも、真っ当な人間から見れば俺らはかなり外道なことしてると思うぜ?」
「どういう……こと?」
「お前、マジで言ってんのか?」
海斗が黙り込むと、サイトウは深く息を吐いた。
「はぁ……。――覚悟して聞けよ」
その声から、先ほどまでの軽さが消える。
「さっきアイツが言った、お前の母ちゃんの件は事実らしい。その上でだ――」
一度言葉を切り、サイトウは海斗の顔を窺う。やはり海斗は、何も言えなかった。
「少なくとも、いざ家族が居なくなって“感情がついていけません”みたいな反応されちゃ、健全な人間様はムカつくんじゃね? まぁ、俺も全く人のこと言えねぇけど、さっきのお前は露骨だったぞ」
「そ、そんなつもりは……」
反射的に否定する。だが、それ以上の言葉が続かない。
悲しくないわけではない。母親をどうでもいいと思っていたわけでもない――なら、どうして何も感じない? 自分でも答えが分からなかった。
「少なくともアイツは、そういう風に受け止めた。それだけのことじゃねーの?」
それ以上、サイトウも海斗を責めようとはしなかった。
妹を探すために三年間も裏社会へ身を沈めた彼だからこそ、今の海斗へ思うところがないはずはない。
それでも、その言葉はどこか自分自身にも向けられているように聞こえた。
「サイトウさんの言うことは、概ね的を射ていると思います。特に、彼女たちのような若くしてこの世界に飛び込んだ子は、より感情的になってしまうのかもしれません」
黒崎がバックミラー越しに店内へ視線を送る。
「彼女、たち……?」
「……私も詳しいことまでは知りません。ですが、JIAに所属している工作員の大半は、身寄りを失った少年少女たちという噂を聞いたことがあります」
海斗は思わず、ガラス越しに沙耶の姿を探した。
先ほどまで自分へ向けられていた冷たい目。それが何を意味していたのか、今の海斗にはまだ分からない。
「……念を押すようですが、あくまで噂です。まぁ、あの年でこの世界にいる彼女にも、何かしらの訳アリな事情はあるのでしょう」
そこで黒崎は一度言葉を切った。
「そういう意味では、この国の仕組みも、貴方方の世界を否定できないのかもしれませんね」
行き場を失った人間を拾い上げ、役割を与える。それだけを聞けば救済にも思える。
だが、その役割が人を騙し、傷つけ、時には命まで奪うものだとすれば――それを救いと呼んでいいのか、海斗には分からなかった。
やがて沙耶が飲み物を手に、レジの列へ並ぶ姿が見える。
「先ほどの話、私が言ったことは他言無用で。特に、彼女には」
海斗もサイトウも返事をしなかった。肯定も否定もできないまま、短い沈黙だけが車内に残る。
「それと、今さらですが――」
黒崎が思い出したように続けた。
「二人とも、スマホの電源は落としていますか?」
「え、あぁ……」
「一応、はい……」
海斗もポケットの中にあるスマートフォンを服越しに確かめる。東京へ向かう途中で電源を落としてから、一度も触っていない。
「なら結構」
それから間もなく、バンのスライドドアが開いた。
「ごめん、お待たせ」
戻ってきた沙耶の顔には、いつもの明るさが戻っていた。少なくとも、海斗にはそう見えた。
沙耶が隣へ腰を下ろすと、バンは再び駐車場を離れていく。
――母親が死んだ。
その事実すらまだ現実のものとして受け止められないまま――海斗を乗せた車だけが、もう次の目的地へ向かっていた。
海斗たちを乗せたバンが再び走り始めてから、二十分ほどが経った頃。
窓の外には、いつの間にか人通りの多い街並みもなくなっていた。
代わりに目立つようになったのは、道路沿いに並ぶ無機質な倉庫や工場ばかり。
その中でもひときわ古びた建物の前で、バンはゆっくりと速度を落とした。
「到着しました」
黒崎がハンドルを切り、人気のない敷地へ車を滑り込ませる。そこに建っていたのは、千葉県幕張地域の臨海部に残された古い倉庫だった。
ところどころ錆びついた外壁に、半ば剥がれ落ちた看板。窓のいくつかは割れ、入口付近には雑草まで伸びている。
少なくとも、国家機関の人間が利用する場所には見えなかった。
「ここ……ですか?」
「ええ。見た目は少々悪いですが、人目を避けるには都合がいい場所です」
エンジンが止まる。それでも海斗はすぐに車を降りようとはせず、ポケットに入ったままのスマートフォンへ一度だけ意識を向けた。
電源は落としたまま。当然、加奈から連絡が来ているのかも分からない。
「今さらですけど、僕たちはこの先どうなるんですか……?」
東京へ向かい、サイトウたちと合流してから、初めて自分のこれからを尋ねる。
「安全が確認できるまでは、私たちと此処に隠れてもらいます。その後については、お二人を別々の場所に移送する手はずです」
「別々……」
海斗は隣に座るサイトウへ目を向けた。
数年間、声しか知らなかった相手。つい数時間前に初めて顔を合わせたばかりだというのに、今の海斗にとっては、この場にいる誰よりも長い付き合いの人間だった。
「移送先って……?」
「それは――」
「とりまさ、早く中入ろうよ」
黒崎の説明を遮ったのは沙耶だった。
「特にハッカーさんには、落ち着いて情報教えてあげないとじゃん?」
コンビニから戻って以降、沙耶は普段通りに振る舞っている。
少なくとも表面上は、先ほどの冷たい態度など最初からなかったかのようだった。
「それもそうですね。その後については、中で落ち着いてご説明します」
黒崎が運転席のドアを開ける。それを合図にするように、サイトウ、沙耶と続き、最後に海斗もバンを降りた。
外へ出た瞬間、海から流れてきた湿った風が頬を撫でる。
目の前の倉庫は近くで見るとさらに老朽化が激しく、鉄製の扉には赤茶色の錆が浮き、コンクリートの壁にも無数のひびが走っていた。
「……ここ、本当に入って大丈夫なの?」
「少なくとも、崩れる心配はありませんよ」
沙耶たちのやり取りを聞きながら、海斗も三人の後へ続く。
半ば崩れかけたエントランスを抜けると、一階には広い搬入口らしき空間が広がっていた。
かつて荷物でも積み上げられていたのだろうか。埃を被った木製パレットや折れた角材、用途の分からない資材が壁際へ無造作に寄せられ、天井から吊られた照明の半分以上は光を失っている。
人が使わなくなって、かなりの年月が経っているように見えた。その一方で、奥へ続く通路だけは不自然なほど綺麗に埃が途切れている。
「こっちです」
黒崎が先頭に立ち、建物の奥にある鉄製の階段へ向かう。
階段の脇には古びた案内板が残されており、一階の事務室や休憩室に混じって、辛うじて『化粧室』の文字だけが読み取れた。
足を乗せるたび、鉄板が鈍い音を響かせる。
海斗は一度だけ振り返った。薄暗い搬入口の向こうには、先ほどまで自分たちを運んできたバンが停まっている。そのさらに向こうには、灰色の空。
東京駅で見知らぬ相手に連れ去られてから、自分は一体どれだけ移動したのだろう。
けれど、そのどれ一つとして自分で行き先を決めた覚えはなかった。
「ハッカーさん? 置いてくよー?」
階段の上から、沙耶の声が飛んでくる。
「あ……うん」
海斗は考えるのをやめ、再び三人の背中を追った。
やがて四人の姿は、人気のない倉庫の二階へと消えていった。
「ここ、なんか埃臭い……」
二階へ上がるなり、沙耶は服の裾で鼻を押さえた。
階段を上りきった先には細い廊下が伸び、その左右にいくつかの扉が並んでいる。壁紙はところどころ剥がれ、窓枠にも薄く埃が積もっていた。
「運送業者の跡地だったみたいですね。私も実際に来るのは初めてですが、つい最近までは不良のたまり場だったらしいです」
先頭を歩く黒崎は気にする様子もなく、廊下の奥へ進んでいく。
「そんなところ、俺たちが居ても大丈夫なのかよ」
「えぇ、そのグループはとっくに補導されてます」
「ほぉーん。そりゃ安心だ」
「そうだね。今頃どんな尋問受けてるんだろ」
「じ、尋問て……」
海斗が思わず口を挟むと、沙耶は何がおかしいのか小さく笑った。
そんな会話を交わしているうちに、黒崎が廊下の突き当たりにある扉の前で立ち止まる。
「ここですね」
錆びついたドアノブを回し、中へ入る。外観から想像していたよりも、部屋の中は広かった。かつては従業員用の休憩室だったのだろうか。
古びた長机にパイプ椅子。壁際には二人掛けのソファーが置かれ、その隣には一通りの電化製品が用意されている。
建物そのものの荒れ具合と比べれば、そこだけ妙に人が生活できそうな空間だった。
「冷蔵庫にソファーに電子レンジ……、無駄に生活感あんな……」
「ここって電気は通ってるんですか?」
「えぇ、問題なく使えます。ガス以外は」
「えっ、ってことはまさか……」
沙耶の表情が露骨に引きつった。
「はい、お風呂は使えません。というより、元よりありません」
「えぇ!」
それまで静かだった室内に、沙耶の声が響き渡る。
「お年頃のピチピチJKに、お風呂我慢しろって言うの⁉︎」
「本音はそう言いたいところですが、今回は急拵えながら用意していますよ」
「ほんとッ⁉︎ さっすが公安のエース! 頼りになるぅ!」
先ほどまでの非難がましい声はどこへやら。沙耶は一転して表情を輝かせると、その勢いのまま黒崎の身体へ思いきり抱きついた。
「あんまりベタベタしないでください。暑苦しいです」
しかし黒崎は驚く様子すら見せない。
慣れているのか、それとも単に興味がないだけなのか。鬱陶しそうに眉をひそめると、沙耶の両肩を掴んで自分から引き剥がした。
「えー、ちょっとくらいいいじゃん」
「よくありません」
そんな二人のやり取りを横目に、サイトウは手近なパイプ椅子を引き寄せる。
「そんで、なんで一回こんなとこ、居る必要があるんだ?」
「安全確認です」
「安全確認?」
海斗とサイトウの声が重なった。
黒崎はそれまでの呆れた表情を消すと、二人へ向き直る。
「今回サイトウさんの出頭に伴って、まず私たちが懸念したのは二重スパイの存在でした。貴方方を公安本部へ直接移送したところで、万が一、内部に潜伏するデリーター側の人間と接触されてしまえば元も子もありません」
「に、二重スパイて……、そんな映画みたいな話――」
思わず口にした海斗へ、黒崎の視線が向けられる。
「ひとつ、何か誤解されているようですが――」
そこで一度、黒崎は言葉を区切った。
「デリーター側にも、貴方のように指示を受けて手を汚し続ける人間は多くいます。それも貴方のように専業ではなく、本業の影で動いている人間もいるんです」
サイトウの表情から、それまでの軽さが消えた。
「それって……」
海斗もようやく、黒崎の言わんとしていることを理解する。
今まで自分たちがデリーターから受けてきた依頼も、すべてネット上だけで完結していたわけではない。誰かが情報を流し、誰かが現場で動き、その結果だけが海斗たちの元へ仕事として回ってくる。
なら、その『誰か』が普段どこで何をしている人間なのか。海斗には知る術がなかった。
「はい。今の貴方方に、敵味方を見分ける術は全くありません。それは我々のような特殊な立場の公務員も、例外ではありませんね」
海斗は部屋の中を見回した。
窓の外には、先ほどまで走ってきた臨海部の景色が広がっている。
公安を名乗る男に、JIAを名乗る少女――昨日までなら、どちらも自分の人生とは無関係な存在だった。
それが今では、誰が味方で誰が敵なのかすら、自分では判断できない。
「というかそもそも……なんで公安が、僕たちを助けてくれるんですか?」
「それは――」
「黒崎さん、それは俺が言う」
答えようとした黒崎を、サイトウが制した。
「これはさっき言った契約に絡む話だ」
「契約……」
海斗は車内で聞いた言葉を思い返す。サイトウが自分たちを助けるため、公安と交わしたという契約。
「俺たちは元々、お国の偉い奴らに恨み買って当然のクソ野郎だろ? けど同時に、向こうの偉い人たちは俺たちに興味もあるらしい」
サイトウは椅子の背もたれへ身体を預ける。
「反社会組織の下っ端がどういう奴等か――ってなわけで、今までの俺らの行動をみっちり搾り取られてから、今度はこいつらと同じ国の手下になる……」
「つまり、JIAの人間として頑張ってもらおうって訳だねっ」
沙耶が横から、まるで就職先でも紹介するような明るさで付け加えた。
JIAの人間になる――その言葉の意味は分かる。
これまでデリーターの指示でやってきたことを話し、その後は今度こそ国のために自分の技術を使う。それは少なくとも、今までよりは真っ当な生き方なのかもしれない。それなのに――。
――母親が、死んだ。
また、その言葉だけが脈絡もなく頭の中へ浮かんだ。
これから自分がどこへ連れていかれるのか。何を聞かれ、この先何をすることになるのか。
どれも自分自身の話のはずなのに、誰か遠い人間の将来を聞かされているようにしか思えなかった。
「クソハッカー」
「え……?」
呼ばれて顔を上げる。サイトウが呆れたような顔で、こちらを見ていた。
「とりまお前、少し一人の時間作ってこいよ」
「……な、なに……? 急に……」
「お前、さっきからずっと上の空じゃねーかよ」
「そ、そうだったかな……」
何か言い返そうとして、やめた。
そう言われてみれば、さっきから黒崎たちの話をどこまで聞けていたのか、自分でも自信がない。
「ごめん、そうかもしれない……」
「……そうですね。確かに今は一人の時間が必要でしょう。ですが……」
黒崎がわずかに難しい顔をする。
「大丈夫、黒崎さん」
「え?」
沙耶は近くに置いてあった荷物から、小さな黒いバンドを取り出した。
「ハッカーさん、ちょっとコレだけ付けさせてね」
「え……?」
海斗が意味を尋ねるより早く、沙耶はその場へしゃがみ込む。そして海斗の足首へ、輪っか状のバンドを手際よく巻き付けた。小さな電子音とともに留め具が固定される。
「なにこれ……」
「GPSだよ。まだ契約、履行されてないんだから当然の担保でしょ?」
「担保……」
その言葉に、海斗は一瞬だけ視線を落とした。ついさっき、同じ言葉を聞いたばかりだった。
逃げられないようにするためのもの。裏切らないようにするためのもの。形こそ違えど、意味は分かる。
「そ、それもそうだね……」
「ちなみにそれ、無理やり外そうとしたら大きな音が鳴る仕組みだからっ」
「は、はい……」
海斗は足首のバンドを眺めたまま頷いた。
「ハッカーさん、戻ってきたらでいいんだけどさ……」
「ん?」
顔を上げてみる。沙耶はまだ海斗の前にしゃがんだままだった。
「後でちゃんと、謝らせてほしい」
「あ、謝る……?」
「ほら、私、酷いことばっかしちゃってるし、今ここでさらっと言うのも違うかなって思ってさ」
先ほどの車内でのことだろうか。海斗には、それ以外に思い当たるものがなかった。
「そ、そんな気にしなくても……」
沙耶は何も言わない。
いつものように笑って誤魔化すこともなく、ただ海斗の返事を待っていた。
その様子に押されるように、海斗は小さく頷く。
「……わ、分かったよ……」
「うん、ありがとっ」
ようやく沙耶はいつもの笑みを浮かべると、その場から立ち上がった。
「ハッカーさん、いってらっしゃい」
「う、うん……。行ってきます……」
促されるまま、海斗は一人で部屋を出る。
背後で扉が閉まる直前――何気なく口にしたその言葉だけが、なぜか妙に耳の奥へ残った。
「ここくらいしか、無いよね……」
誰に聞かせるでもなく呟きながら、海斗は一階へ続く階段を降りていった。
行き着いたのは、先ほど通ったエントランス兼出荷場。広い空間には人の気配もなく、天井に残された照明のいくつかが頼りなく床を照らしている。
壁際には古びた木製パレットや角材が積み上げられ、そのすぐ近くには、今にも崩れ落ちそうな木製の踏み台が残されていた。海斗はその上へ腰を下ろす。
開け放たれた搬入口の向こうでは、すでに陽が落ちていた。
北の空に残っていたわずかな明るさも消えかけ、遠くに並ぶ建物の灯りだけがぼんやりと夜を縁取っている。
「今日は……色々ありすぎたな……」
口に出してみても、何から考えればいいのか分からなかった。
朝までは、自分がこんな場所にいるなんて想像すらしていなかった。東京へ向かい、初めてサイトウと顔を合わせた。公安やJIAなんて組織の存在を知った。
そして――、母親が、死んだ。
それだけは何度頭の中で繰り返しても、未だに現実味がなかった。
「そうだ……、電話、しなきゃ……」
ふと、そんな言葉が口から漏れる。
「って、出るわけないか……」
自分で言って、自分で否定する。出るはずがない。
沙耶もサイトウも、母親はもう死んだと言った。なのに、どうしても自分の中で何かが引っかかっていた。
「……どうして、泣けないんだろ……」
悲しくないわけではない。母親のことをどうでもいいと思っていたわけでもない。
それなのに、胸の奥には穴でも空いたような感覚があるだけで、涙は出てこない。
「……こんなんじゃ、加奈のほうが悲しんじゃいそうだな……」
あいつなら、きっと泣くだろう。自分の母親でもないのに、海斗以上に泣いて、それから海斗が泣かないことにまで怒るかもしれない――そんな姿が簡単に想像できた。
「……なんで、こんなこと、なっちゃんたんだろ……」
答えてくれる人はいない。ふと海斗は、ポケットへ手を入れた。
指先に触れたスマートフォンは、黒崎に言われた通り電源を落としたままだ。
一瞬だけ――、着信を確認するだけなら――。
そんな言い訳を自分にしながら、海斗は電源ボタンを長押しした。
暗かった画面にメーカーのロゴが浮かび、やがてホーム画面が立ち上がる。
同時に、大量の通知が画面を埋めた。
加奈からの不在着信――二十件、三十件。
その数は、数える気が失せるほど積み重なっている。
「もう、一生恨まれちゃうだろな……」
苦笑しようとした。けれど、うまく笑えなかった。
加奈にも何も言わずに家を出た。母親にも詳しいことは何一つ説明しなかった。
東京へ行くと決めたのだって、サイトウに言われたから。
その前も。もっと前も――大学を辞めた時も、ビーンズに手を出したのも。
そして、デリーターから送られてくる仕事を続けていたことも――。
「……ずっと、人に流されてばかりだ……」
思い返してみれば、自分で選んだと言い切れるものが、どれほどあっただろう。
その瞬間。頬に、生温かいものが流れた気がした。海斗は指先で触れてみる。濡れていた。
自分でも気づかないうちに、一筋の涙が頬を伝っていた。
「……今さらだよね……」
それでも、その涙を拭う気にはならなかった。
海斗はスマートフォンを握り直す。連絡先からではなく、頭に残っている番号を一つずつ入力した。
最後の数字を押したところで、一瞬だけ指が止まる。それでも海斗は、通話ボタンを押した。
耳元で止むはずのないコール音が鳴り始める。
一回、二回、三回、四回。
当然、誰も出ない。出るはずもない。
「ほんと今さら、何やってんだろ……」
それでも海斗は電話を切らなかった。
五回、六回、七回、八回。
そして、九回目のコール音が途切れた瞬間――。
『ガチャ』
明らかに、受話器を取る音だった。
「えっ…………」
海斗は反射的に立ち上がる。
『…………』
「……も、もしもし……?」
返事はない。
代わりに――。
『ピーッ、ピーーー、ピポピポッ』
耳障りな電子音が、受話器の向こうから流れ込んできた。
「え、なにこれ…………」
規則性があるようで、ない。何かを通信しているようにも聞こえる。
やがて機械音が途切れ、数秒の静寂が訪れた。
海斗はスマートフォンを耳へ押し当てたまま、息を止める――その直後だった。
微かなノイズに混じって、聞き覚えのあるメロディーが流れ始める。
音量は小さい。どこか古い録音を再生しているように、音質も少しざらついていた。
「……これって……、五時のチャイム……?」
オルゴール調にアレンジされた、『遠き山に日は落ちて』。
海斗たちの町では、夕方五時になると北側の山からその旋律が流れる。子供の頃から、何度となく耳にしてきた音だった。
海斗はスマートフォンの画面へ視線を落とす。時刻は、すでに夕方六時を過ぎている。
「……なに、これ……」
今、現地で鳴っているはずがない。
そもそも、どうして自宅へかけた電話からこの音が流れてくる?
「どういうこと……」
問いかけても、メロディーは止まらない。まるで海斗の混乱など最初から考慮していないかのように、淡々と終盤へ差しかかっていく。
そして最後の一音が消えた――その瞬間。
『――判定の時だ。小高海斗』
「…………え?」
性別すら判然としない、機械的な声だった。
抑揚も感情もない。ただ名前だけを正確に読み上げ、海斗へ一方的に告げる。
「ちょ、待っ――」
通話はそこで切れた。画面には、無機質な通話終了の表示だけが残る。
「え…………」
何だったのか、まるで分からない。
誰が電話に出た? なぜ五時のチャイムを流した?
――『判定』とは何のことだ?
考えようとするほど、背中を這う悪寒だけが強くなっていく。
だが、それを整理する暇すら与えられなかった。
――バンバンッ!
「ヒッ……!」
乾いた破裂音が短く二回頭上から響いた。一瞬遅れて、倉庫の中に反響した音が海斗の身体を震わせる。
「じゅ、銃声……?」
映画やニュースでしか聞いたことのない音。それでも、今の海斗には他の何かだと思い込めなかった。
音がしたのは二階――黒崎たちがいる部屋の方向だった。
「…………」
行かなければ……。そう思うのに、足が動かない。一歩踏み出すだけで膝が震え、靴底が床を擦った。
逃げたい――けれど、二階にはサイトウたちがいる。
海斗は周囲を見回す。何でもいい。何か手に持っていないと、とても階段を上がれそうになかった。
視線の先に、先ほど目にした廃材の山がある。海斗はそこへ駆け寄ると、腐りかけた木片を一本拾い上げた。ところどころひび割れ、強く振ればそれだけで折れてしまいそうな代物。それでも、素手よりはましだった。
両手で木片を握りしめ、海斗は階段へ向かう。鉄板を踏むたびに鳴る音が、やけに大きく聞こえた。
二階まで上がっても、人の声はない。
さっきまで沙耶やサイトウの声が響いていたはずの廊下は、不自然なほど静まり返っている。
海斗は息を殺した。三人がいる部屋は、もうすぐそこだった。壁際に身体を寄せ、少しずつ入口へ近づく。
慎重に中を覗こうと、海斗が身を乗り出した――そのとき。
「何してるの?」
「うわぁあああ!」
真後ろから声を掛けられ、海斗は反射的に振り返った。握っていた木片を、人影へ勢いよく突き出す。
「うわぁ⁉ ちょ、ちょ、ちょッ⁉ いきなりどうしたの⁉」
「って、村上さんっ……?」
木片の先で両手を上げていたのは、沙耶だった。
「は、ハッカーさん、何してんの……?」
「さ、さっき下に居たら、上から銃声みたいなの聞こえてきて……」
「じゅ、銃声⁉」
沙耶が思わず声を上げる。
「しっ、声大きい!」
「ご、ごめんっ」
沙耶も慌てて口元を押さえた。
「村上さんは何も知らないの……?」
「うん……、さっきまで私も下のトイレ居たから……」
「き、気づかなかったよ……」
「水流す音聞かれてなくてよかったですっ」
「そんな冗談言ってる場合じゃないでしょ……」
「ご、ごめんなさい……」
それでも沙耶の顔からは、いつもの軽さが完全には消えていない。
そのことに少しだけ安心した自分がいることへ、海斗は気づかなかった。
「とりあえず、部屋の中見てみよっか……」
「そうですね……。ハッカーさん、お願いします」
「なっ……、僕たちを守ってくれるんじゃなかったの……?」
「私だってか弱き乙女ですよ? 男らしいところの一つや二つ、見せてくださいっ……」
「うっ……」
そう言われても、木片を握る手の震えは止まらない。
けれど沙耶に任せきりにするのも情けない気がして、海斗は小さく息を呑んだ。
「わ、分かったよ……」
壁に身体を沿わせ、恐る恐る部屋の中を覗き込む。暗い。照明は消えていた。
窓の外から差し込む街灯だけが室内をぼんやりと照らし、家具の影を長く床へ伸ばしている。その中に――。
「…………?」
窓際。並んで座る、二人の人影が見えた。
「黒崎さん? サイトウくん……?」
恐る恐る声を掛けてみる。返事はない。ただ、布が擦れるような小さな音だけが室内から返ってきた。
「ねぇ、居るなら返事――」
海斗は木片を胸の前で構えたまま、ゆっくり中へ入る。逆光で黒く潰れていた二人の輪郭が、少しずつ見えるようになる。
「ンーッ‼ ンッ、ンー!」
「えっ――」
海斗の足が止まった。そこにいたのは、紛れもなく黒崎とサイトウだった。
だが今の二人は手足を縛られ、口には猿轡を噛まされている。
「ど、どうしたのッ⁉」
海斗は慌てて二人のもとへ駆け寄った。その瞬間、靴底が何かに触れて、わずかに滑る。
「……ッ?」
足元へ目を落とす。床を濡らしていたのは、水ではなかった。
暗がりの中でも分かるほど濃い赤。その先を辿れば、黒崎の服にも同じ色が滲んでいる。
「く、黒崎さん……?」
「ンッ……!」
「だ、誰か来たのッ⁉」
当然、二人は答えられない。けれど――その質問には、別の場所から返事があった。
「誰も来てないよ?」
「…………え?」
すぐ背後。聞き慣れた声だった。なのに、その瞬間だけは別人のもののように聞こえた。
海斗は喉の奥が強張るのを感じながら、ゆっくりと振り返る。そこに立っていたのは、沙耶だった。
海斗へ向けて、真っ直ぐに銃口を構えている。
そしてその顔には――いつもと変わらない笑みが、浮かんでいた。




