ロスト・ログ
サイトウがこの世界に足を踏み入れたきっかけは、いわゆる闇バイトの勧誘だった。
とはいえ、当時のサイトウは家庭環境が悪かったわけでも、金に困っていたわけでもない。
むしろ、その人生は順風満帆だったと言っていい。
小学生の頃から体操に打ち込み、周囲からも筋がいいと才能を認められていた。本人もいつしか、オリンピックの舞台に立つことを本気で夢見るようになった。
高校は体操の強豪校へ進学。大会でも結果を残し、卒業後は大学へ進んで競技を続けるつもりだった――少なくとも、高校二年の夏までは。
すべてが変わり始めたきっかけは、父親だった。
当時のサイトウには、父親が突然、精神的に病んでしまったようにしか見えなかった。
その原因らしきものが分かったのは、しばらく後のことだ。
父親は高校時代の知人だった女性に誘われ、あるセミナーへ参加していた。
何を目的としたセミナーだったのか。詳しいことは、今でも分からない。
ただ一つ分かっているのは、そのセミナーが過去にテロ事件を起こしたカルト教団――そこから派生した後継組織によって開かれていたということだけだった。
組織は主催者の名を偽り、全国各地で同じような勧誘活動を繰り返していたらしい。
父親もまた、それがカルト教団に繋がるものだとは知らず、知人からの誘いにほんの少し興味を持っただけだった。
そして少なくとも、セミナーへ参加した直後は何も起こらなかった。
家族へ妙な思想を語ることもなければ、何かを勧めてくることもない。
毎朝いつも通り職場へ向かい、夜になれば家へ帰ってくる。自宅にいれば、いつもの少しウザい親父だった。
だからサイトウも、何も疑わなかった。
その裏で既に、家族の歯車が狂い始めていることなど、この時はまだ知る由もなかった。
状況が急変したのは、父親がセミナーに参加してから二か月ほど経った頃だった。
その日も父親は、いつもと変わらない時間に会社から帰ってきた。
ただ、様子だけが明らかにおかしかった。
普段は体育会系らしい快活な父親が、何かに思い詰めたような表情を浮かべている。
怒っているようにも見えた。何かに怯えているようにも見えた。
声を掛けづらい雰囲気を感じたサイトウは、特に理由を尋ねることもなく、そのまま自室へ戻った。
それでも夕食の頃には、父親はいつもの調子に戻っていた。テレビを眺めながらくだらないことで笑い、母親と言葉を交わす。
つい数時間前の様子がおかしかっただけで、結局は仕事で嫌なことでもあったのだろう。
サイトウも、その程度にしか考えていなかった。だが母親だけは、そうではなかったらしい。
その日の晩。二階の自室にいたサイトウの耳へ、突然、母親の悲鳴が届いた。
続けて、何かが床へ落ちる音。食器の割れる甲高い音が家中に響いた。
「……っ?」
サイトウは椅子を蹴るように立ち上がり、慌てて階段を駆け下りた。
居間へ飛び込んだ瞬間、足が止まる。床には割れた食器が散乱し、ダイニングテーブルも大きく位置をずらしている。
その傍らで母親が怯え切った表情を浮かべ、父親は母親を見下ろすように立っていた。
強く握られた、その拳だけが小さく震えていた。
「お、おい……、親父……?」
返事はなかった。父親は何かを堪えるように、荒い呼吸を繰り返している。
「ただい……ま……」
サイトウが状況を整理し終えるよりも先に、玄関から三つ年下の妹の声が聞こえた。
居間までやってきた妹は、目の前の惨状を見て足を止める。
「なに……、これっ……」
その声に反応するように、父親の肩が僅かに揺れた。
「す、すまない……ッ」
それだけを言い残し、父親は逃げるように玄関へ向かった。
サイトウも、母親も、妹も。誰一人として、その背中を追うことはできなかった。
そして、そのまま父親は姿を消した。
更なる異常が分かり始めたのは、それから二日後のことだった。
家族で使っていた口座から、ほとんどの金が引き出されていることが判明した。
最初は借金でも抱えていたのではないかと疑った。
だが、調べるほどに出てくる事実は、それ以上に不可解なものだった。
父親名義だった自宅まで、既に売却へ向けた手続きが進められていたのだ。
つまり、あの夜に衝動的に家を飛び出したわけではない。父親は姿を消す以前から、自分の財産を現金へ換え、家族の元を去る準備を進めていたことになる。
どうしてそんなことをしたのか。金を何に使うつもりだったのか。そして、父親が今どこにいるのか。何一つ分からなかった。
分かっているのは、昨日まで当たり前だった生活が、もう戻ってこないということだけだった。
そして、それまで気丈に振る舞っていた母親も、ほどなくして心身の調子を崩し、入院することになった。
順風満帆だったはずの家庭は、僅かな時間で原形すら残さないほど崩れていった。
心の整理もつかないまま、サイトウと妹は隣の市にある母方の祖父母宅へ預けられた。
普段から家族で顔を見せに行くことも多く、二人にとって祖父母は親類の中でも特に身近な存在だった。
事情を一通り聞いていた祖父母も、突然居場所を失った兄妹を温かく迎え入れてくれた。
幸い、サイトウは祖父母宅からでもそれまでの高校へ通うことができた。数日学校を休むことにはなったが、友人も、体操部も、それまで積み上げてきた生活も辛うじて残っている。
だが、中学三年だった妹は違った。
祖父母宅はそれまで通っていた公立中学の学区外にあり、妹だけは転校を余儀なくされた。
父親が消え、母親は入院した。そのうえ妹は、学校や友人とまで離れなければならなかった。
それでも当時のサイトウには、妹のことばかりを気に掛けていられるほどの余裕がなかった。
高校へ通い、体操を続け、入院している母親のことを気にしながら、新しい生活に慣れる。
それだけで精一杯だった。妹も同じように、どうにか現実を受け入れようとしている。
サイトウは、そう思っていた。
だが祖父母宅で暮らし始めてから、半月ほど経ったある日のことだった。
「ねぇ、お兄ちゃん」
学校から帰ってきた妹が、唐突に声を掛けてきた。
「んだよ」
「もしさ、私が急にグレちゃったら、お兄ちゃんは困る?」
「急になんだよ……」
あまりにも脈絡のない質問に、サイトウは妹の顔を見る。
だが、何か深刻な相談を持ち掛けているようには見えなかった。
「んな事、反抗期の兄貴に聞くことか?」
「そんなんじゃないよ。反抗期よりも、もっと大きなこと」
「はぁ?」
妹はそれ以上、何も説明しなかった。
「…………もういい」
それだけを残して、自分に与えられた部屋へ戻っていく。サイトウも深く追及することはなかった。
何か言いたいことがあるなら、そのうち向こうから話すだろう。その程度にしか考えていなかった。
――サイトウが妹と言葉を交わしたのは、それが最後だった。
翌日、妹は学校へ行かなかった。
そして夜になっても、祖父母の家へ帰ってこなかった。
連絡もつかない。当然、祖父母は警察へ通報した。
サイトウも何か手掛かりがないかと、妹に与えられていた部屋へ入った。
学習机の上には、転校したばかりの学校で使う真新しい教科書が雑然と積まれている。
壁には以前の学校と転校先――二着の女子用制服が並んで掛けられていた。
引っ越してからまだ半月。荷解きすら完全には終わっていない部屋だったが、それを差し引いても、自分から出て行ったような形跡は驚くほど見当たらなかった。
これからこの家で生活するための物が、何一つ変わらず残されている。
「んだよ……」
結局、何も見つけられないまま部屋を出ようとした時だった。
ふと、机の脇に置かれたごみ箱が目に入った。中には、クシャクシャに丸められた紙が一枚だけ捨てられている。
何気なく拾い上げ、皺を伸ばす。そこに書かれていた文章を読んだ瞬間、サイトウの指が止まった。
――この度はご英断いただき、誠にありがとうございます。
――万が一の契約違反があった場合、左記ご関係者を処分させていただきます。
「…………は?」
意味が分からなかった――いや、意味を理解したくなかった。
文章の脇には、関係者としてサイトウたち一家の名前が記されている。
それだけではない。祖父母の名前――そして、今まさに自分たちが暮らしている、この家の住所まで。
「んだよ……これ……」
宛名もなければ、送り主の名前もない。
ただ家族を『処分する』という一文だけが、妙に事務的な文面の中に紛れ込んでいる。
背筋に冷たいものが走った。妹は、何かに巻き込まれている。
そんな考えが浮かんだ瞬間、昨日の会話が蘇った。
『もしさ、私が急にグレちゃったら、お兄ちゃんは困る?』
『そんなんじゃないよ。反抗期よりも、もっと大きなこと』
『…………もういい』
「……っ」
あの時、もう少し真面目に話を聞いていれば。
何を意味しているのか、ちゃんと問い詰めていれば。
そんな後悔が、今さらになって胸の奥から込み上げてくる。
警察に見せるべきだ。頭では、そう分かっていた。
この紙を持って階下へ降りて、今来ている警察官に渡せばいい。
それだけのことだった――だが、足が動かなかった。
――契約違反。
もう一度、その四文字へ視線を落とす。
妹が誰かと何らかの契約を交わしていたのだとしたら。
この紙を警察へ渡すことまで、相手にとっての『契約違反』になるのではないか。
そうなれば、妹はどうなる? 入院している母親は? 同居している祖父母は?
ここに住所まで書かれているということは、相手は自分たちの居場所を知っている。
もしかしたら、今この瞬間も――。
考えれば考えるほど、身体が動かなくなった。
合理的な判断ではなかったのかもしれない。
それでも高校二年だったサイトウには、自分の行動一つで妹や残された家族まで失うかもしれないという恐怖を振り切ることができなかった。
昨日、妹の言葉を聞き流したのは自分だ。ならせめて、今度は間違えたくない。
サイトウは皺だらけの紙を小さく折り畳むと、そのままズボンのポケットへ押し込んだ。
結局、その紙が警察の目に触れることはなかった。
妹が姿を消してから、三日後の朝。祖父母宅の居間に、固定電話の呼び出し音が響いた。
電話を取ったのは祖母だった。
妹の捜索について何か進展があったのかもしれない。そんな僅かな期待から、サイトウも自然と耳を傾けていた。
だが、祖母の表情はみるみる険しくなっていった。
「どういうことですかっ、まだ見つかってないんでしょう? なのになんで――」
電話の向こうから、サイトウには聞き取れない声が返ってくる。
「そんなバカな事がありますかっ⁉」
普段は滅多に声を荒らげない祖母だった。それだけで、良い知らせではないことくらい分かった。
サイトウは座っていたソファから身を起こす。
「そ、それなら私たちで、世間にも呼び掛けを――」
そこまで言ったところで、祖母の言葉が止まった。
何かを言い返そうと口を開き、それでも声が出てこない。
やがて祖母は力なく受話器を置いた。
「ばぁちゃん……? どうしたんだよ……」
祖母はすぐには答えなかった。受話器に置いた手を離せないまま、呆然と電話機を見つめている。
「……これ以上、大きくは動けないって……」
「は、はっ?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「なんだよ、それ……。見つかってねぇのに、もう探さねぇってのかよ? まだ三日目だろ?」
「……事件性がないって」
「は?」
「あの子は、自分の意思で家を出た可能性が高いからって……。だから、これ以上は警察でも大きく動けないって……」
「ふざけんなよッ!」
思わずサイトウは立ち上がった。
「三日前まで普通に学校行ってた中学生だぞ⁉ 財布も服も置いたまま消えてんだぞ⁉ それのどこが家出なんだよ!」
言いながら、ズボンのポケットへ手が伸びかけた。
――事件性ならある。
脳裏に浮かんだのは、妹の部屋で見つけた一枚の紙だった。
『万が一の契約違反があった場合、左記ご関係者を処分させていただきます』
あれを見せれば、少なくともただの家出ではないと分かってもらえるかもしれない。
それでも、紙を取り出すことはできなかった。
――契約違反。
その言葉が、またサイトウの手を止めた。
「私だってそう言ったわよ……。でも……」
「でも、なんだよ」
「…………もう決まったことです、って。それに……」
祖母は躊躇うように視線を落とした。
「あまり世間を騒がせない方が、妹ちゃんのためでもあります、って……」
「……は?」
「万が一、妹ちゃんの身に何かあれば、それこそ取り返しがつかなくなるって……」
「んだよ……」
奥歯を噛み締める。
「それってアイツが無事かどうかも分かんねぇのに、探すのやめるってのかよッ!」
怒鳴った声が、静かな居間に響いた。祖母は何も答えない。答えられるはずもなかった。
だが、怒りに任せて吐き出した直後――サイトウの中で、何かが引っ掛かった。
事件性はない。妹は、自分の意思で家を出ただけ――警察はそう判断したはずだ。
だったら、どうして――。
『あまり世間を騒がせない方が、妹ちゃんのためでもあります』
『万が一、妹ちゃんの身に何かあれば――』
どうして、そんな言い方をする?
ただの家出なら、何を警戒している? 誰から、妹を守ろうとしている?
ポケットの中に隠した紙の感触が、急に重くなったような気がした。
警察は何かを知っている。それなのに、自分たちには何も話さない。
何も話さないまま、これ以上騒ぐなと釘を刺している。
それが事実だったのか、ただサイトウが、そう思い込んだだけだったのか。
当時の彼に確かめる術はなかった。
ただこの瞬間から、サイトウの中で警察という存在は、妹を探してくれる相手ではなくなった。
「――そんで、俺はひとまず手ごろな裏世界の入り口を探してたら、此処に行き着いたって訳だ」
サイトウが語り始めてから、三十分ほどが経っていた。
車はいつの間にか都内を抜け、千葉県の臨海部を走っている。
窓の外には無機質な倉庫や工場が並び、その隙間を縫うようにバンは走り続けていた。
「その……、なんでコッチの世界に行こうって思ったの? 警察とか目指した方が、資料だって見れたんじゃない?」
これまで黙って話を聞いていた海斗が尋ねる。
妹を探すことが目的だったのなら、わざわざ犯罪へ足を踏み入れる必要はなかったはずだ。
少なくとも、今までの話を聞いただけではそう思えた。
「さっきも言っただろ。まだ成人もしてねぇガキが消えて、たった3日で捜査は打ち切り――しかも事件性はねぇっつっといて、世間を騒がせたら妹の身が危ねぇとか言いやがる。変な話だろ?」
言われてみれば確かに、その二つはどうにも噛み合わない。
ただの家出だと判断したのなら、どうして妹の身に危険が及ぶ可能性まで口にしたのか。
「だから思ったんだよ。警察が何も知らねぇんじゃなくて、知ってるから動かねぇんじゃねぇかって」
「……警察が、何か隠してるってこと?」
「当時はそこまで分かんねぇよ。ただ、少なくとも警察に入って上から順番に調べてたんじゃ遅すぎる。俺が警官になれる頃には何年経ってると思ってんだ」
当時のサイトウは、まだ高校二年生だった。仮に警察官を目指したとしても、その立場を利用して妹を探せるようになるまで、一体どれほどの時間が必要だったのか。
そもそも警察自体が何かを隠していると疑っていたのなら、そこへ自分から入ろうとは思えなかったのかもしれない。
「それで、裏社会……?」
「妹が踏み込んだのがそっちなら、同じ穴から入った方が早ぇだろ」
正しい選択だったとは、海斗にも思えなかった。
だが、間違っていると簡単に切り捨てることもできなかった。
「おいガキ、急に静かになってなんだよ……」
「いや、流石に人のシリアスな過去聞いて、茶化す気にもなれないって……」
沙耶は変わらず真面目な表情で返す。
東京駅で出会ってから、何かとサイトウへ突っ掛かっていた彼女にしては珍しい。
「ねぇ、それってどれくらい前のことなの?」
「三年前だ」
「えっ⁉ ってことはサイトウさん、僕より年下だったの⁉」
思わず海斗はサイトウの横顔を見た。これまで声だけで何年もやり取りしてきた相手だ。
互いの素性を詮索しないことが当たり前だったとはいえ、まさか年下だとは思っていなかった。
「んだよ、歳はんな変わんねーだろ?」
「いや、流石に五歳も下の子とバディ組んでたとは思ってなかったよ……」
「ともかく、俺は金払いが良さそうなとこに入った結果、こうしてお前の厄介ごとに巻き込まれたっつーわけ」
「ん? さっきの話ぶりだと、サイトウさんは妹を探すために悪者さんになったんだよね? 結局お金も欲しかったの?」
今度は沙耶が首を傾げる。
「そりゃ、金はあった方がいいけど、そういう事じゃねーよ」
「?」
「金払いがいいってことは、それなりにデカい案件も多いはずだろ? それなりにヤバいことやってるとこなら、それなりの連中とも接点持てると思ったんだよ」
「なるほど……、そういうことか」
やけにつまらなそうな口調だった。もっと単純な金目当てだと思っていたのか、期待していた答えではなかったらしい。
「で、そんな大事な妹さん探しを諦めてまで、なんで私たちに協力求めたわけ? この先こっち側に就くって確約までしてさ」
「さっきも言っただろ? もう、潮時だと思ったんだよ。考えたくねーけど、この世界は人がすぐ消される。組織裏切る意思がなかった奴だって、奴等から見て都合悪いこと知ってしまったらすぐお払い箱って世界だぞ? もう、いい加減現実受け入れた方がいいって思ったんだよ」
「……そっか」
沙耶はそれ以上、何も言わなかった。
サイトウもまた、妹がもう生きていないとは口にしない。
ただ、三年間探し続けても見つからなかったという事実だけが、彼に一つの決断をさせたのだろう。
「一応言っておくけど」
少し重くなった空気を切るように、サイトウが続ける。
「俺たちはほとんどこの世界に足突っ込んだタイミング一緒だけど、他のバディの情報屋はころころ変わってるらしい」
「ころころって?」
「一年で三~四回転、速いと六回情報屋がお払い箱になってるらしい」
「そ、そんなに……」
海斗は思わず眉を顰めた。自分に仕事を回していた人間が誰なのか。
その裏で、どれだけの人間が消えていたのか。今まで深く考えたことすらなかった。
「だから俺らはまぁ、異例な方だな」
「確かに、なんでそんな続けられてたんだろ……」
何気なく漏らした疑問に、これまで運転へ集中していた黒崎が答えた。
「それは、小高さんがかなりの実力を持ってるからでは?」
バックミラー越しに、一瞬だけ黒崎と視線が合う。
「クラッカーとして私たち公安は、正直あなたをマークしていました」
警察側にまで目を付けられていた。
改めてそう言われても、今さら驚くべきなのか海斗には分からなかった。
「そもそも初めてビーンズの最終問題まで行き着いた貴方は、それまで彼らが抱えていたクラッカーには持っていない、ある担保があります」
「他のクラッカーにはない担保?」
黒崎は僅かに間を置いた。
「それまでデリーターが抱えていたクラッカーたちは、家族や親類などの身寄りのない、言わば“行き場も死に場もない”者たちの集まりでした。もっと言えば彼らには、失うものが何もない。だからデリーターの内情を知った使い捨ての人間は、簡単に切り捨てられてきました。密告やスパイの可能性がある人間が蔓延るリスクを減らすために」
海斗たちは口を開くことなく、ただ黒崎の言葉を待つ。
「だけどそれでは、安定した任務の遂行ができなくなる。組織としても、優秀な人間をそうそう使い捨てにするのは、コストパフォーマンスも良くありません」
淡々と語られる話を聞きながら、海斗はこれまで自分がこなしてきた仕事を思い返す。
仕事の向こう側に誰がいて、その結果どうなるのか。そんなことを考えたことは、ほとんどなかった。
「だから、本人が執着を見せないくせに、切れない人間関係だけは持ってる奴を――長く使い潰せる人間を選抜してたわけか……」
サイトウが吐き捨てるように言う。
「一言で言えば、そうなりますね」
――切れない人間関係。
その言葉に、海斗の頭へ自然と二人の顔が浮かんだ。
毎日ろくに働きもしない息子へ、それでも飯を用意していた母親。
そして、何度追い返しても懲りずに部屋へやってきた幼馴染。
自分から大事にしているつもりなんて、なかった。それでも外から見れば、あの二人は自分を縛るための『担保』として十分だったということなのだろう。
「だけど何で、奴らは消すつもりがなかったはずのコイツを消そうとしてんだよ……」
「都合が悪くなったからだよ」
沙耶があっさりと答えた。
「は?」
「それって、どういう……」
「実は私たち、最近になって小高さんのことチョーっとだけ盗聴させてもらってたんだけど――」
「ちょっと待ってっ」
反射的に海斗は身を乗り出した。
「ん? 何かな?」
「いや、何でさも当たり前のように人のプライバシーを侵害することぶっちゃけてくれてるわけっ⁉」
「いや、逆になんで私たちにも目、つけられてないと思ったの?」
「そりゃそうかもしれないけどさ……」
納得はしたくない。だが、つい先ほど公安からマークされていたと聞かされたばかりでは、強く否定することもできなかった。
「話戻すね」
沙耶は悪びれる様子もなく続ける。
「小高さん、警察官の幼馴染いるでしょ?」
「…………いるけど……、もしかしてそれが……?」
海斗の脳裏に、今朝まで自分の部屋にいた加奈の姿が浮かんだ。
「半分そうだけど、半分違うかな」
「……?」
「警察関係者が近くにいることを、デリーターたちが警戒しているのも一つ。だけど、決定的なのは、タイミングとその幼馴染の先輩たちの方かな」
「加奈の先輩……?」
加奈の口から、何度か聞いた覚えはある。だが、それが自分やデリーターとどう繋がるのか。
「今日、君の幼馴染さんとその先輩の恩師だった教授が殺されたの。君の実家でね」
「……ッ」
一瞬、沙耶が何を言ったのか理解できなかった。
――実家。
その二文字を理解した途端、海斗は身構える。
なぜ大学の教授が、自分の家で殺される? そして今、自宅には――。
「村上さん……。そこまで彼に話す必要は……」
黒崎が静かに制止する。
「仕方ないじゃん。いずれ受け入れなきゃ行けないことだし」
「受け入れなきゃ、行けないこと……?」
嫌な予感だけが、輪郭を持ち始める。
「ハッカーさん、単刀直入に言うね」
沙耶は、初めて目を逸らさなかった。
「君のお母さん、デリーターに消されたんだよ」




