ロールバック
槙尾翔真が職場の警察署から解放されたのは、夜の七時過ぎのことだった。
深いため息と共に車を降りると、翔真は正面に佇む一軒の居酒屋を睨みつける。
特別高級な店でもない、どこにでもありそうな庶民的な地方の居酒屋。
店先に吊るされた赤提灯の明かりが、薄暗くなった駐車場のアスファルトをぼんやりと照らしていた。
かつての恩師の突然の死と、後輩の休職。そんな日常が一度に覆った長い一日を終えた翔真は、ようやく家へ帰れると思った矢先、また一つ日常とかけ離れた誘いを受けていた。
「……ったく、なんだって今日なんだよ……」
愚痴を零しながら店内へ入り、店員に案内されるまま奥へ進む。一番奥の個室の前で足を止めると、しばらくして襖が開いた。
「……久しぶりだな、翔真」
「おう……」
座敷の奥に腰を下ろしていた男へ、翔真は気のない返事を返す。
槙尾――という同じ名字を持つその男は、県警本部長という肩書きを持つ警察官。
そして同時に、翔真の実の父親だった。
「私もお前も、業務外だ。今は親子として話せばいい」
だったら、わざわざ外で会う必要なんてあるのか。
そんな疑問が浮かんだが、口にはしなかった。
「まぁ、座りなさい。お前も何か飲め」
「いや、俺車だし」
「なに、代行使えばいいだろ?」
「こっからだと高っけーんだよ……。俺まだ下っ端だぞ?」
「気にするな。それくらい出してやる」
「……んだよ、調子狂うな……」
仕事中ならともかく、父親と二人で酒を飲むことなど滅多にない。
妙に気を遣われると、それはそれで居心地が悪かった。
「ほら、何か頼むといい」
父親から品書きを差し出される。翔真は目を落とすことすらせず、
「……ビールで」
すぐ隣で注文を待っていた店員へ告げた。
父親が口を開くより先に座布団の上へ胡坐をかき、テーブルを挟んだ正面へ視線を向ける。
「単刀直入に聞くけど、俺を呼び出したのは、今朝の事件のことだろ?」
翔真の問いに、父親は眉一つ動かさなかった。
「……露骨すぎたか」
やはりそうだった。
久しぶりに親子で酒でも飲もう――そんな殊勝な理由で呼び出されたとは、最初から思っていない。
「お前はこの件、何処まで聞いている?」
「……この件って?」
「有明教授が、お前の後輩の幼馴染の家で殺された件だ」
「……どういう意味、だよ……」
「そのままの意味だ」
「だからどうして、教授が“殺された”なんて断定してんだよ……」
少なくとも翔真が署を出るまで、そんな話は聞かされていない。
有明と海斗の母親が死亡したことは知っている。だが、現場の捜査はまだ始まったばかりだったはずだ。
父親はすぐには答えない。
「……もしかして、公安からの情報なのか?」
「詳しいことは私も分からない。だがあの事件は、ただの殺人事件で済ませられない事情が出てきた」
「んだよ、それ」
「私も単刀直入に聞く。翔真お前、教授から最後にメール、受け取ったな?」
今度は翔真が黙る番だった。
脳裏に浮かんだのは、死んだ有明から届いた不可解なメール。
そして、その先に隠されていた一つの研究資料。
「お待たせいたしまし――」
「そこに置いておいてくれたまえ」
料理を運んできた店員の声を、父親が遮る。
「は、はいっ……、失礼いたします……」
張り詰めた空気を察したのか、店員はテーブルへ料理と酒を並べると、足早に個室を出ていった。
「……飲まないのか?」
目の前には、運ばれてきたばかりのビール。
だが翔真はグラスへ手を伸ばさなかった。
「……親父、何処まで知ってんだよ」
「知らないことだらけだ。だから聞いている」
「それは事件か? それとも息子のことかよ」
「今は少なくとも、どちらもだな」
「……メールの中身は、見てんのかよ……」
「……ファイルの中身以外は知っている。だが肝心な暗号が解けていない」
やはり、そこまでは掴まれている。翔真はテーブルの下で拳を握った。
有明が自分たちに残したものを、父親へ見せていいのか。
相手は県警本部長だ。だが今ここにいるのは、父親でもある。
その二つを簡単に切り離せるほど、翔真も器用ではなかった。
「……これは――オフレコだぞ」
悩みに悩んだ末、翔真はポケットからスマートフォンを取り出した。
保存していた論文のファイルを開き、父親へ画面を向ける。
「……ッ⁉」
それまでほとんど表情を変えなかった父親の目が、大きく見開かれた。
「お前、これをどこで……」
「あのメールにくっついていたファイルの中身」
父親は返事をしない。画面に表示された題名を凝視したまま、僅かに顔を強張らせている。
翔真が今日一日見てきた誰よりも、この男は冷静だった。その父親が、明らかに動揺していた。
「このファイル……、どうやって開いた?」
「あ?」
「どうやって開いたと聞いている」
先ほどよりも低い声だった。
「教授が残した文面使って、横山が暗号解いた……」
「暗号……」
父親の視線が、スマートフォンから翔真へ移る。
そして次の瞬間、
「悪いことは言わない、早くデータを消せ」
「はっ?」
「いいからっ、さっさとやれッ……」
「な、なんだよ急に……」
思わずスマートフォンを自分の方へ引き戻す。
父親の声には、先ほどまでなかった焦りが滲んでいた。
「お、おい……、親父……?」
「お前、まさか“ビーンズ”に手出ししてるんじゃないだろうな……?」
「は?」
今日二度目に聞く名前だった。
「ネット上で都市伝説化してる謎解きの話、聞いたことないか?」
「いや、まさに今日聞いたばかりだ……」
「誰から聞いた?」
「サイバー対策課にいる同期からだけど……」
父親の表情が、さらに険しくなる。
「おい、なんだよ質問ばっか……」
「今年のゲームに、その子は参加してるのか?」
「いや、そこまでは知んねぇけど……、前にグループで解いてるとか何とか言ってた」
横山が話していたのは、以前挑戦した時のことだったはずだ。
少なくとも、今年も参加しているとは聞いていない。
「そうか……」
「おい、訳わかんねぇーぞ……」
父親だけが何かに納得している。それが余計に腹立たしかった。
「んだよ、ファイルもビーンズも、今回の事件に何の絡みがあんだよ……」
「翔真、結論だけ言う」
「お、おうっ……」
父親は一度だけ周囲を気にするように襖へ視線をやる。それから、翔真へ向き直った。
「今回の事件、絶対に関わるな。データはすぐ消せ。それとしばらくは実家に帰ってこい。警護もしばらくはつけてやる」
「……は?」
あまりにも予想外の言葉に、間の抜けた声が漏れた。
「お、おい……、流石にそれはいくら何でも過保――」
「過保護ではないッ」
父親の声が、狭い個室に響く。翔真は思わず口を閉ざした。
「……そんなにヤバいのか、俺らは……」
「……私も公安の人間から軽く聞いた程度だが……」
父親はそこで一度言葉を切った。何処から話すべきか迷うように、お猪口へ視線を落とす。
「昔、とあるカルト教団が妙な技術を作ったという話は知っているか?」
「……人間を洗脳するプログラムがどうとかってやつか?」
「あぁ」
翔真にも聞き覚えがあった。
ネット上では何年も前から語られている、眉唾物の都市伝説。
「公安から聞いた話が事実なら、少なくともあの噂は、全てが作り話というわけではないらしい」
「は…………?」
「その教団は、例のプログラムと信者を利用し、テロ未遂を起こした」
「……マジ、かよ……」
「あぁ……、あくまで未遂で留めたらしい――だが、政府は同様の事態に対処するため、その技術の解析と研究を始めた。人間の感情や思考へ、コンピュータプログラムを介して干渉する研究だ」
父親が、翔真のスマートフォンへ目を向ける。そこには今も、有明が残した論文が表示されている。
「だが倫理的にもそうだが、技術的にも危険すぎる。故に研究そのものは、機密扱いになった――そう聞いている」
ただの都市伝説だったはずの話が、急に現実味を帯びてくる。しかも、その先にある研究資料が今、自分の手の中にある。
「……だがな――」
「だが?」
父親はすぐには答えず、お猪口に残った酒を見つめた。
「私はこの話を、真っ向から信じてはいない」
「公安の方からの情報だろ?」
「あぁ。公安からの情報だから、それがすべてではないことくらい察しが付く」
「……事件が起きた県警本部長にすら、言えることと言えねぇことがあるって訳かよ……」
「奴等から見た私は、官庁と現場の間にいる中間管理職だろうからな」
「県警本部長ってそういうもんなのかよ……」
思わず呆れた声が漏れる。翔真からすれば、父親の肩書きだけでも十分すぎるほど偉い。
だが、その父親でさえ知らされない情報がある――いや、知ってはいけない情報もあるらしい。
「……さっきの研究とビーンズの関係だけどな、アレは公安側もいくつか仮説を立ててるらしい」
「それってつまり、公安側もビーンズの実態、よく分かってねぇーって事かよ」
父親はお猪口を一口つける。
「どうやらそうらしい。だが――」
僅かに声を落とす。
「ビーンズを主催している連中は、反政府勢力――さっき言ったカルト連中から派生した、武闘派の集まりである可能性があるそうだ」
「……仮にそうだとして、例の研究とどんな関係があるんだよ……」
「言っただろ? あの研究の元は、例のカルト教団だ」
父親の視線が、再びスマートフォンへ落ちる。
「政府だって、それなりに研究費を出しているのだとしたら――」
「ッ……」
その先を、父親は言わなかった。だが翔真にも、いくつか嫌な可能性は想像できた。
利用する価値がある。あるいは――消したい価値がある。
有明のやつれた顔が脳裏に浮かぶ。
昼間には意味の分からなかった言葉。そして数時間後、その本人は死んだ。
「何度も言っとくぞ。これは仮説の一つだ。私の仮説も混じっている。真実は遠いものかもしれない」
「…………」
「それより翔真」
「……んだよ」
話題を切るように名前を呼ばれ、翔真は顔を上げる。
父親は先ほどまでとは違う目で、自分を見ていた。
「私も今の職に就いてから、知りたくもなかった現実を随分と見てきた――私はもう、後戻りできない。だが翔真、お前ならまだやり直せるんだぞ?」
「……何が言いてぇんだよ……」
問い返しても、父親はすぐには答えなかった。
「……もう、自分の人生を生きてもいいんじゃないのか?」
「ッ……」
一瞬、息が詰まった。事件とは関係のないところへ、不意に踏み込まれた気がした。
「……言っただろ、俺がここにいるのは、俺の意志だから」
「それは美玖ちゃんの意志を被った、お前のエゴじゃないのか?」
その名前を聞いた瞬間、翔真の表情が固まった。
何か言い返そうと口を開く。だが、言葉は出てこなかった。
代わりに、テーブルの上へ置いていたスマートフォンを乱暴に掴む。
「……帰る」
「翔真……」
「代行、いらねぇから」
ほとんど口をつけていないビールを残し、翔真は立ち上がった。
父親は追いかけてこない。個室の襖へ手を掛ける。ほんの一瞬だけ足が止まった。
それでも翔真は振り返ることなく、そのまま襖を閉めた。
それが、翔真と父親の最後の時間だった。
海斗が東京駅に到着して、約十五分後。
人でごった返す新幹線の乗り換え口とは打って変わって、海斗は顔も性別も分からない人間に脅されるまま、薄暗い地下駐車場まで連れてこられていた。
「乗れ」
「っ……」
背中を押されるようにして、停められていた一台の車へ乗り込む。
後部座席へ身体を滑り込ませた直後、海斗を連れてきた人影も隣へ乗り込み、スライドドアが乱暴に閉められた。
逃げようと思えば、まだ逃げられるかもしれない。
そんな考えが一瞬だけ頭を過ったものの、すぐ隣から腰へ押し当てられた硬い感触が、それを許してはくれなかった。
車が勢いよく発進する。
窓の外を流れていた地下駐車場の柱が途切れ、料金所のゲートをくぐると、そのまま直結する首都高速へと入っていった。
何処へ、誰に連れていかれるのか――何一つ想像もつかない。
海斗は背筋を強張らせたまま、隣に座る人影の様子を窺っていた。
すると、
「ぷっはぁー」
「……え?」
それまで海斗の横で得物を押し当て続けていた人影から、場違いなほど可愛らしい声が聞こえてきた。
「もぉ、夏だってのに長袖長ズボンにマスクって、やっぱありえないっ……」
先ほどまでの低い声は何だったのか。
人影は海斗の存在など気にも留めず、鬱陶しそうにマスクを外した。
続いてサングラスまで取り去る。
隠されていた素顔が、車内を流れる街灯の光に照らされた。
「…………」
見覚えのない少女だった。
年はまだ十代中ごろだろうか。髪は後ろで一つに結ばれ、黒いパーカーの隙間からは白いシャツと赤いリボンが顔を覗かせている。
逃げることも叫ぶこともできず、そのまま地下駐車場まで連行してきた相手。
頭の中にあった人物像と、目の前にいる少女の姿がまるで一致しない。
海斗が呆気に取られたまま、その横顔を凝視していると、
「ん? あぁごめんなさいっ、もしかして汗臭かったですか?」
少女が自分のパーカーを摘まみながら、小首を傾げた。
「い、いや……、そういう事じゃなくて――」
「拉致ってきた相手に初めて言うことがそれかよ……」
助手席から、呆れ交じりの男の声が飛んでくる。
「……?」
反射的に視線を向ける。助手席に座っていた男が、シート越しに海斗を振り返った。
見た目の歳は、海斗とそう変わらない。背格好も平均くらいだが、目つきだけがやたら鋭い男だった。当然、その顔にも見覚えはない。
今日だけで一体何人の知らない人間と出会えばいいのか。
そんな海斗の困惑などお構いなしに、男は片手を軽く上げた。
「よっ、クソハッカー。初めましてだな」
「その口調……、もしかして……」
顔は知らない。だが、その声と口の悪さには聞き覚えがあった。
「あぁ、お前のバディのサイトウだ」
「は、はじめまして……って、えっ?」
あまりにも突然すぎる初対面だった。本名も顔も知らず、互いに知っているのはネット上の名前と声くらいだったはずの男が、今は目の前にいる。
「混乱すんのも無理ねぇけど、ひとまず落ち着け。とりま俺らには護衛がついたようなもんだから、安心しろ」
安心しろと言われても、安心できる要素が一つも見つからない。
自分はつい先ほどまで銃らしきものを突きつけられ、見知らぬ車に押し込まれたばかりなのだ。
「サイトウさんって、やっぱ口悪いですよねぇー。裏社会の人って、みんなそんな感じなんですかー?」
隣の少女が、面白がるように身を乗り出す。
「やっぱお前……、ガキの癖に挑発はいっちょ前だな……。つか、お前だって裏社会の一部みたいなもんだろ」
「あ、あの……、二人はどういう関係なの……?」
目の前で始まったやり取りについていけず、海斗は恐る恐る口を挟んだ。
サイトウが少女へ視線を向け、面倒そうに顎をしゃくる。
「お前の隣にいるガキは、政府の諜報機関様の工作員だ。んで、俺の隣にいる堅物は、公安の人」
「こ、公安の人に、工作員……?」
理解できない単語が、さらに二つ増えた。
「国家公安局の黒崎と申します」
それまで黙ってハンドルを握っていた男が、バックミラー越しに一度だけ海斗へ目を向けた。
年齢は四十代前後だろうか。隣の二人とは対照的に、落ち着いた低い声だった。
「JIAの村上沙耶ですっ」
対して少女は、先ほどまで海斗へ銃を突きつけていた人物とは思えないほど明るく名乗る。
「じぇ、じぇい・あい・えー?」
「国家情報局の略です! いわゆる、日本版のCIAですね。ただ公安さんと違って秘匿組織なので、ご存じじゃなくても仕方なしですっ」
「は、はぁ……」
分かったような、余計に分からなくなったような。
少なくとも、昨日まで自室に引きこもっていた人間が突然関わるような組織ではない。
「要するに、公安がやってることより、政府様が隠したがってるもっとヤバいことやってるイカれたガキだってことだ」
「ひっどぉーいっ! 私だって人知れず国に奉仕してる公務員なのにぃ……。ちょっと黒崎さんからも言ってやってくださいよっ!」
「民間人の知り得ないところで活躍されているのは分かりますが、私たちより過激なのは否定できませんね」
黒崎は前を向いたまま、淡々と答える。
「ほぉーらっ、イカれてんのは変わりねぇじゃねーか」
「な、なんですとぉ……っ⁉」
沙耶が不満そうに頬を膨らませる。
海斗はそんな三人を交互に見比べた。サイトウはともかく、沙耶と黒崎まで妙に馴染んで見える。
「や、やっぱり二人は元々知り合いなの……?」
「いや、コイツら――いや、お前もか……。皆初対面だ」
「初対面とは思えない……」
思わず本音が漏れた。
「ホントだよな。ったく、本当に礼儀がなってねぇガキだわ」
「フンっ、悪いコトばっかやってきたくせして、人に礼儀を問いますかぁ。しかもサイトウさんが泣きついてきたから仕・方・な・く協力してあげてんのになぁ」
「な、泣きついてはねぇだろ……」
先ほどまで威勢のよかったサイトウの声が、僅かに弱くなる。
「ニュアンスは異なりますが、私たちから見てもあなた方の要望は都合が良すぎますよ。まぁ、契約して動いている手前、任務は全うしますが」
黒崎の言葉に、海斗は眉を寄せた。
護衛、工作員、公安。そして今度は、契約。
東京駅に着いてから三十分も経っていない。
その短い時間で、自分の知らない話だけが次々と積み上がっていく。
「要望? 契約……? ごめん、話が読めなさすぎるんだけど……」
「無理ねぇよ。俺が勝手に動いてんだからな」
サイトウが助手席へ深く身体を預ける。
窓の外では、高速道路を流れる街並みが後方へ消えていった。
「……とりままだ時間かかるみてぇだし、すり合わせすっぞ」
先ほどまでの軽い調子が、ほんの少しだけ消える。
赤いテールランプの列へ紛れるように、海斗たちを乗せたバンは首都高速を走り続けた。
「クソハッカー、お前は今どの辺まで状況理解してんだ?」
「い、いや……、何も分かってないんだけど……」
何処から説明してほしいのかすら分からない。
東京へ来いと言われ、その言葉に従った結果、見知らぬ少女に拉致され、気付けば公安やら諜報機関やらと同じ車に乗っている。
むしろ、この状況を理解できている方がおかしい気がした。
「まぁ、いきなり拉致る真似すりゃ無理もねぇーわな」
「発案者の性格がうかがい知れますねぇー」
「おい、クソガキ。今は黙ってろ」
「そういえば、なんであんな……、その……」
海斗は隣に座る沙耶へ視線を向ける。つい先ほどまで腰に押し当てられていた硬い感触を思い出すと、今になって背筋に薄ら寒いものが走った。
「んな、手荒な真似したかってか?」
「う、うん……」
サイトウが小さく息を吐く。
「結論から言うぞ。俺とお前はもう既に、デリーターからみりゃ裏切りモンだ」
「…………へ?」
聞いたことのない名前に、海斗は間の抜けた声を漏らした。
「誰」と聞き返すより先に、サイトウが続ける。
「あの不気味な電話野郎から、逃げてるってことだよ」
「え……、ちょ、ちょっと待って……」
そこでようやく、海斗の頭に一人の男が浮かんだ。
大学の電源を落とす仕事を依頼し、三千万円もの報酬を支払った男。
「あの人たち」としか認識していなかった存在に、突然知らない名前が与えられる。
「ま、待って……、そもそも僕らは、ビーンズっていう組織に飼われてたんじゃないの?」
「ビーンズはあくまで、あのゲームの名称に過ぎません」
それまで黙って運転していた黒崎が、前を向いたまま口を開いた。
「ビーンズを主催していたのは、反政府組織の一つ――“デリーター”と呼ばれる組織です。彼らの目的は私たちも正直定かではありません。ですが、国民の安全を害する組織という点は紛れもない事実です」
黒崎は淡々と言葉を続ける。
「貴方方がやってきた犯罪の数々を思い返せば、否定はできないはずです」
「……し、知らなかった……」
言われてみれば、これまで自分が受けてきた仕事の目的を考えたことなど、ほとんどなかった。
「まぁ、パシられてた側からしてみりゃ、知ってたところでどうしようもなかったけどな」
「で、でもさ……、なんでいきなり君は、その――」
「自分から捕まりに行く真似したか、ってか?」
また言葉を先回りされ、海斗は目を瞬かせた。
「……なんでそんなに、僕の聞こうとしてること――」
「何年声だけでやり取りしてたと思ってんだよ。顔まで見えりゃ、もうだいたい想像できるわ」
初めて会ったはずなのに、初めて会った気がしない。
顔も本名も知らなかった相手に、自分でも上手く言葉にできない疑問をあっさり見抜かれてしまう。妙な感覚だった。
「さっきの答えだけど、もう潮時だって思ったんだよ」
「潮時?」
「あぁ……」
短く答えたサイトウは、それきりしばらく言葉を続けなかった。
フロントガラスの向こうを流れる赤いテールランプの光が、助手席に座る男の横顔を僅かに照らしては消えていく。
「もう、色々諦める踏ん切りがついたんだよ」
先ほどまでとは違う声だった。
何を諦めたのか。海斗が尋ねるより先に、隣から沙耶が口を挟む。
「踏ん切りって……、犯罪者さんはデリーターで何か探してたの?」
「別に、大したもんじゃねーよ」
サイトウは沙耶を見ることもなく、前方へ視線を向けたまま答える。
「ただちょいと、人探ししてただけだ」
その言い方だけを聞けば、本当に大したことではないようにも聞こえる。
けれど、何年も裏社会に身を置き続けた男が探していた相手を、海斗はどうしても「ただの人探し」とは思えなかった。




