タスク・キル
加奈たちが現場の警備を終えたのは、夕方四時過ぎのことだった。
「つ、づがーれーだぁ……」
ようやく西門の警備を交代した加奈は、情けない声を漏らしながら肩を落とす。
夜勤明けからほとんど休む間もなく、炎天下で数時間。足は重く、制服の内側には汗がまとわりついている。
あとは制服を着替えるために帰るだけ――そう思えば、辛うじて足を動かすこともできた。
「おい、まだ溶けんの早いぞ……」
隣を歩く槙尾が呆れたように声をかけてくる。
「そうだった……、車はもっと暑いんじゃん……」
加奈の頭に浮かんだのは、大学まで乗ってきたエアコンの壊れたパトカーだった。帰りも当然、あの灼熱地獄が待っている。
「思い出させんなよ……」
「先輩が言ったんじゃないですか……」
「俺はまだ引継の内勤があるぞって意味だ」
「そ、そうだった……」
恨めしそうに横目を向ける。もっとも槙尾も、加奈ほど露骨に態度へ出していないだけで、疲労の色は隠せていなかった。
二人して重い足取りのまま、警察車両の集まる一角へ戻ろうとした――その時だった。
「おいッ、戸石ッ!」
背後から飛んできた怒声に、加奈の肩が跳ねる。
「は、はひぃ⁉」
振り返ってみると、そこには頭頂部が程よく日焼けしたらしい課長が足早に近づいてきていた。その手には一台のタブレットが握られている。
「お前、今から別の警ら車使ってこの住所に急行しろ」
「えぇ……、一体何時間働いてると思ってんですか……」
反射的に文句が漏れる。だが、いつもなら即座に怒鳴り返してくるはずの課長は、眉間に深く皺を寄せたままだった。
「んなこと言ってる場合かッ! お前の知り合い、とんでもないことになってんぞ」
「えっ……」
その声音に、加奈の表情から僅かに疲労が消える。
差し出されたタブレットを覗き込み、画面に表示された情報へ目を走らせた。
「こ、此処って……」
「被害者の数も、事案の詳細も今は分からない。だけどコレ、お前の恩師だろ……?」
課長の指が、画面に表示された一枚の顔写真を示す。
有明教授――ほんの数時間前、この大学で言葉を交わしたばかりの恩師だった。
だがその写真の横には、つい数時間前まで生きていた人間へ向けるにはあまりにも無機質な四文字が並んでいた。
『死亡確認』
「…………え」
一瞬、意味を理解できなかった。
教授が死んだ。今日会ったばかりの人間が、もういない。
そんな事実を頭が受け入れるより先に、加奈の視線は画面の別の箇所で止まった。
指定された出動先の住所。そこにも、見覚えがあった。
いや――見覚えがあるどころではない。子供の頃から、何度訪れたか分からない場所だった。
「……ッ⁉」
疲労も眠気も、一瞬で吹き飛んだ。
それまでの気怠そうな声は消え、加奈は反射的に駐車場に向かって走り出す。
「132号車だからな‼ くれぐれも事故するんじゃねぇぞ‼」
「はいッ!」
返事を残し、加奈は指定された警ら車へ向かって急ぐ。
その背中を見送りながら、槙尾は険しい表情で課長へ向き直った。
「課長、何があったんですか?」
「……お前も確か、この大学の有明氏とは顔見知りなんだよな?」
「え、えぇ……、そうですけど……」
課長は一度言葉を呑み込み、それから低い声で続ける。
「断定はできないが――」
僅かな間を置いて、
「戸石の幼馴染の家で、有明氏と中年の女性の遺体が発見されたらしい」
槙尾は、何も答えることができなかった。
自宅を出て約1時間後。
海斗は最寄りのローカル線を乗り継いで、新幹線の切符を購入しようとしていた。
今時、スマホからチケットレスで新幹線に乗れる時代だが、海斗はあえて券売機で現金を使って紙切符を購入する。
理由は単純――余計な電子記録を残したくなかった。
とはいえ、駅の監視カメラや物理的な尾行をされていれば、完全に自分の姿を消すことは難しい。
だが何もせず丸腰でいるよりも、こうして念には念を入れて行動することで、自分の恐怖心を多少紛らわせることが出来ていた。
こうして購入した切符を、改札口に通してホームに上る。
ちょうど新幹線が入線するタイミングだったらしく、海斗は比較的スムーズに列車に乗り込んだ。
赤を基調としたシートが並ぶ普通車は、平日の昼すぎのせいか余裕がある。
だけど海斗は、素直に喜んでそのシートに腰を下ろす気分にはなれなかった。
自分を追う敵がどんな客層に化けているのか分からない。
今唯一信じられるのは、自分自身と口の悪い情報屋だけだ。
結局海斗は、2両目後方のデッキ――進行方向左側のドアに身を預ける。
目的地であり、この列車の終着駅まで残り1時間半ちょっと。車窓は見慣れた景色が一瞬で塗り替えられていく。
そんな景色を眺めながら、海斗はただ無感動に猛烈なモーター音が轟くデッキの音を聞き流すことしかできなかった。
「いや、その……、なんて言えばいいんだろな……」
夕日が空を色濃く染め上げる頃。
加奈とその上長である課長は、いたたまれない空気が満ちた取調室の中で向かい合っていた。
窓から差し込む西日が、無機質なスチールデスクの上を橙色に照らしている。
事情聴取を終えてから、どれくらい経っただろう。
加奈はパイプ椅子に腰かけたまま俯き、膝の上で両手を強く握り締めていた。
「とりあえず、辛い中調書取らせてもらって助かった。お前には今日の臨時勤務分を含めて、何かしら特別休暇が出ると思う」
返事はない。聞こえていないわけではなかった。
ただ、何と答えればいいのか分からなかった。
「とりあえず、この捜査は本部の刑事に委託するから――」
「……ない、です……」
消え入りそうな声に、課長が言葉を止める。
「えっ」
「休み、いらないです……。だから……」
膝の上で握り締めていた指先に、さらに力が入った。
「だから私も、捜査……参加させてください……」
「アホ、今のお前は冷静じゃ――」
「頭に血が上ってることくらい分かってますッ‼」
突然張り上げられた声が、狭い部屋の中に響いた。
「っ…………」
課長の目が見開く。加奈自身も、声を荒らげるつもりなどなかった。
けれど一度吐き出してしまった感情は、もう簡単には押し込められなかった。
「だけど……」
強く握りすぎた拳が、小さく震えている。
「……だけど、これで素直に納得できるはず、無いじゃないですか……」
今朝まで、いつもと変わらなかった。
夜勤を終えて海斗の家へ行った。くだらない話をして、いつものように軽口を叩いて――大学では、久しぶりに恩師とも再会した。
それなのに、たった数時間で何もかもが変わってしまった。
「急にカイ君が行方不明になって、朝に会ってたはずの教授とカイ君のお母さんまで殺されて……、現場はあ、あんなっ――」
そこまで口にした瞬間だった。
鼻の奥に、あの家の臭いが蘇った。その記憶に、ほんの数時間前に目にした光景が重なりかける。
「うっ……」
加奈は反射的に口元を押さえた。
「思い出すなっ、ほれ、袋……」
課長が慌てて手元に用意していた袋を差し出す。加奈はそれを受け取ることなく、何度か浅く呼吸を繰り返した。
「だいじょうぶ……です……」
「はぁ……」
どう見ても大丈夫ではない。課長もそう言いたげだったが、それ以上は何も言わなかった。
代わりに一度深く息を吐くと、椅子へ座り直す。
「戸石、あえて率直に言う」
それまでとは違う声音に、加奈が僅かに顔を上げた。
「小高海斗――お前の幼馴染の自室から、盗聴器が数点発見されたと報告が上ってる。おまけに、近隣住民からの聞き込みと監視カメラ映像で行方を追ってみりゃ、ひとりで新幹線に乗ったところまで確認できてる。自分の家が襲撃される一時間前にな」
「え…………」
言葉の意味が、すぐには頭へ入ってこなかった。
盗聴器。新幹線。襲撃の一時間前。
それぞれの言葉だけが、ばらばらのまま頭の中に残る。
「どういう、ことですか……?」
「知らん。だが少なからず、お前の幼馴染は何かしらに関与している可能性が高い」
「…………」
「俺らは多角的な視点で捜査を進めなきゃいかん。警察官になって間もないお前でも、それがどういう事を意味してるか、分かるな?」
分かっていた。分かっているからこそ、認めたくなかった。
「なんで……ですか……」
加奈の中で、警察官としての理屈よりも先に別の感情が口を開く。
「たかが急に家に居なかっただけで、カイ君が容疑者みたいな扱い受けなきゃなんですかッ⁉」
「お、おい……、落ち着け戸石……」
「だって、カイ君がやったって証拠なんて――」
「確かに少し外出したくらいじゃあ、俺らだってそんな扱いしない。だけどな――」
課長は加奈の言葉を遮ると、一度だけ視線を落とした。
それから躊躇うようにポケットへ手を入れる。
「お前の幼馴染の自室から、こんなブツが出てきちまったんだよ」
硬い音を立てて、スチールデスクの上に何かが置かれた。
証拠品袋に入っていたのは、一つのUSBメモリだった。
エメラルドグリーンの無駄に綺麗な、小さな記録媒体。それだけなら、どこにでもある代物にしか見えない。学生時代なら、こんなものが鞄の中に転がっていても気にも留めなかった。
「なんですか、これ……」
「見てのとおりUSBメモリだ。詳しい解析はまだ終わってないが、もし中身が本物なら、お前の幼馴染の捜査は俺らの管轄じゃなくなる」
「どういう……、事ですか……」
課長はすぐには答えなかった。机の上に置かれたUSBメモリを見つめ、それから重々しく口を開く。
「この中身、話を聞く限りだが、今朝の大学爆発事故と同時に流出した、八千人分の学生データが入っていたそうだ」
「…………え」
今度こそ、加奈の思考が止まった。
今朝、海斗の部屋で目にしたニュース記事が脳裏をよぎる。
あの時の海斗は、確かに何かを隠していた。そう考えた瞬間、加奈は自分の中に浮かんだ疑念を振り払うように唇を噛んだ。
「不自然だろ。指紋までしっかり拭き取られているが、見つかった場所が場所だからな」
反論したかった。そんなもの、誰かが置いたのかもしれない。
盗聴器だってあったのなら、むしろ海斗も何者かに狙われていたのかもしれない。
いくらでも可能性は浮かぶ。けれど、それを警察官である自分が口にしたところで、今は幼馴染を庇っているとしか受け取られないことも分かっていた。
「……だから戸石、お前を一度外すのはこれも要因だ。それよりも――」
課長はそこで一度言葉を切った。机を挟んだ向こう側にいる加奈を見て、深く息を吐く。
「お前は一度、ちゃんと休め。休みが足らないなら何とかする。とにかく、心身どっちも落ち着けてこい。いいな?」
いつもの怒鳴り声とは違う。不器用なくらい、静かな声だった。
加奈はしばらく俯いたまま動かなかった。やがて、握り締めていた拳から僅かに力を抜く。
「……はい……」
それ以上、今の加奈には何も言えなかった。
「お、お疲れだったな……」
取調室を出た加奈に声をかけた槙尾は、いつもより明らかに言葉を選んでいた。
普段なら軽口の一つでも飛ばしてくるところだが、今ばかりはそんな気分になれないらしい。
加奈もそれを察しながら、小さく頭を下げる。
「先輩、急で申し訳ないんですけど、しばらくお休みいただくことになりました……」
「そ、そうか……。まぁ、なんつーか、無理すんなよ?」
「はい、ありがとうございます」
それだけ言って、加奈は踵を返しかける。今はもう、誰かと話す気力すら残っていなかった。
だが――、
「槙尾くんー、頼まれてたメールの解析終わったよー」
場違いなほど軽い声が、廊下の向こうから聞こえてきた。槙尾の肩が大きく跳ねる。
「横山ッ⁉ おまっ、バカッ‼」
加奈が振り返ると、ノートパソコンを抱えた細身の男が、こちらへ歩いてきていた。
どこか眠たげな目つきと気の抜けた声音。加奈もその顔には見覚えがある。
槙尾の同期であり、県警本部のサイバー犯罪関連部署に籍を置く横山だった。
「ん……? せっかく君の恩師だか分かんないけど、タダで中身も訳分からないメールのファイル分析、頼まれてあげたのになぁー」
「……恩師? ファイル……?」
加奈の足が止まる。
「だからお前ッ、それは戸石にだけは秘密だって――」
槙尾が慌てて横山の言葉を遮る。その態度だけで、何かを隠しているのは明白だった。
「先輩、何隠してるんですか?」
「……な、なんでもねぇよ……。お前は早く帰りやがれ……」
槙尾はあからさまに視線を逸らした。
「怪しい……」
「あ、怪しかったら何なんだよ……」
「先輩、そのファイル、私にも見せてください」
「んな事できる訳ねぇーだろ……」
即答だった。だが、今の加奈に引き下がるという選択肢はない。
「いいんですか? 先輩の御父さんのこと、口軽そうな横山先輩に言っちゃって」
「……お前、流石にそれは卑怯、だろ……」
槙尾の表情が、目に見えて強張った。先ほどまでの困惑とは違う。
本気で触れられたくないところを突かれた顔だった。
「こっちだって真剣なんです」
槙尾は何も言わない。それでも加奈は止めなかった。
「もしこんなこと退勤前にうっかり口滑っちゃったら、どうなっちゃうでしょうかねー」
「べ、別にどうもしねぇーだろ……」
「確かに? 一警官のご両親事情なんて気にする人は普通いません」
加奈はそこで一度言葉を切る。
「――でも」
槙尾が僅かに眉を寄せた。
「100パーセント実力で叶えた先輩の夢も、噂次第じゃ足元揺らいじゃいますよね?」
「…………お前、それはマジでクズだぞ……」
低い声だった。軽蔑さえ、孕んだ声音だった。
冗談めかした響きは、どこにもない。加奈も一瞬だけ言葉を失う。
それでも、俯くことはしなかった。
「もう今更、手段は選ぶつもりありませんから」
槙尾はしばらく黙り込んだあと、深々と息を吐く。
「…………今から言うことは、全部独り言だけどな――」
わざとらしい言葉とは裏腹に、未だ迷いが残る口調で槙尾は続ける。
「戸石が課長に調書取られてる間、教授のアドレス宛にメール送ったんだ」
「え、先輩から?」
「ああ。昼間に教授が言ってただろ。落ち着いたらメール寄越せって」
加奈の脳裏に、有明と別れた時の光景が蘇る。あの時は、また後で話せるものだとばかり思っていた。
「でも教授は、その時にはもう……」
「分かってる。俺だって返事なんか来るとは思ってなかった」
「じゃあ、なんで……」
「俺だって気になったんだよ。“伝えておきたいこと”ってやつ」
昼間には意味の分からなかった言葉だった。
今になって思えば、あれはただの世間話ではなかったのかもしれない。
「だから一応送った。『今日お話しされていた件について、詳しく伺いたい』ってな」
「それで……?」
「……自動返信……なのか知らねぇけど、数分後に訳分かんねぇメールが返ってきた。『初めての暗号』なんつう、一個のふざけた名前のファイルのリンク付きでな」
「ファイル……?」
加奈の視線が、横山の抱えているノートパソコンへ向く。
「パスワードでロックされてて、ファイルは落とせなかった。さっき横山に頼んでたのがそれだ」
「それで、そのパスワードは?」
加奈の問いに、横山が肩を竦めた。
「結論言うと、ダメだったよ。五回以上間違えるとリンク自体が永久凍結される仕組みみたいで、下手に手出しできなかった」
「なるほど……」
誰かがダウンロードを試みた回数そのものを、外部で監視している。それだけでも、普通の資料とは思えなかった。
「ちなみにメールにはなんて?」
槙尾が腕を組む。
「なんてことなかったぞ。卒業パーティーをやった会場で、三日後に会おう。とだけ」
「ふしぎなものだねぇ……。わざわざ自動応答で残すことがそれ……?」
横山が首を傾げる。確かに、死後まで残るよう仕組まれた返答としては、あまりにも意味がない。
「おい横山、あと何回パスワードは試せる?」
「二回かな。正直総当たりするにも回数が足りない」
「ねぇ、先輩。一つだけ、候補の数字あるんだけど」
「な、なんだよ……」
加奈は昼間の記憶を手繰り寄せる。有明が別れ際、唐突に尋ねてきたもの。
「私の学籍番号。教授、別れ間際に聞いてきたじゃん? もしかしなくてもじゃない?」
「そういえばそうだったな……」
槙尾も思い出したらしく、表情を変える。
「それじゃあ、入れてみるね?」
横山からパソコンを借りると、加奈は緊張した面持ちでキーボードを叩く。
――H0200116。
一文字ずつ目で追い、間違いなく入力できたことを確認する。
残りの試行回数は、二回。もし違えば、あと一度しかない。
加奈は僅かに息を呑み、願いを込めてエンターキーを押した。
数秒の沈黙。
だが画面に表示されたのは、無情なエラーメッセージだった。
「だ、ダメだったみたい……」
「一番あり得そうだったんだけどな……」
槙尾が苦い顔をする。これで残された機会は、あと一度。
「ねぇ、お二人さん。一応確認だけど、その教授ってのは、加奈ちゃんの学籍番号だけ聞いてきたんだよね? 槙尾くんの興味なんてさらさらなく」
「ん? そうですけど……」
「おい、後者は余計だろ」
「なるほど……」
横山は気にした様子もなく、画面に表示されたメール本文へ目を戻す。
「――もしかして……」
「なんだよ……」
「あくまで仮説の域を出ないけど、もう一つだけパスコードの候補があるよ」
「ま、マジか⁉」
「ちょいとメールの中身、もう一回見せてみて」
「お、おぉ……」
横山はノートパソコンを引き寄せ、件名と本文を何度か見比べる。
やがて、口元に薄い笑みを浮かべた。
「やっぱり……」
「何か分かったんですか?」
「シーザー暗号、だね」
「シーザー……暗号?」
槙尾が驚いたように身を乗り出す。
「先輩、知ってるんですか?」
「聞いたことはある。確か、世界で初めての暗号ってやつだったっけか?」
「世界初ってわけじゃないけど、古典暗号の代表格だね」
横山はそう言いながら、手近なメモ用紙にアルファベットを書き並べていく。
「やり方は単純。文字列を決めた数だけずらして、別の文字に置き換える。たとえば二つ後ろにずらすなら、AはC、BはDって具合。簡単でしょ?」
「な、なるほ、ど?」
加奈は分かったような、分からないような顔で頷く。
「つまり、メール本文の内容が置き換えるルール……」
「その通り」
横山が画面上の一文を指差す。
――卒業パーティーをやった会場で、三日後に会おう。
「文面通り受け取れば、加奈ちゃんの学籍番号を、『三日後』――つまり、アルファベットだけ“三文字”、“後ろ”にずらす」
Hの三文字後ろ。
I、J、K。
「……K」
加奈が呟く。
「そう。数字部分はそのままだから、候補はK0200116」
「な、なるほど……」
「おまえ、よくそんなの思いついたな……」
「これも実力の内さ。サイバー犯罪関連の部署にいるんだからね」
横山は得意げに胸を張る。
「いや、こんなヒントだけでシーザー暗号だって分かんねぇっつの」
「あははっ、そんな硬い頭じゃあ、“ビーンズ”の一次問題すら突破できないよ? 槙尾君」
「ビ、ビーンズ、って豆?」
加奈が首を傾げる。
「あ、そっか……。君たち掲示板とか見ない人種だよね……」
横山は苦笑しながら、最後の一回を試す前に手を止めた。
「ビーンズってのは、ここ三年くらいかな? ネットの匿名掲示板で謎解きをばら撒いてるグループみたいなのがいてね。地頭がいい人間を選別してる試験みたいなものだって言われてるのがあるんだよ」
「なんのために?」
「知らない。最後まで解いた人だけが知るセカイ、ってやつじゃない? だけど――」
横山が、ほんの少しだけ声音を落とす。
「最後まで解けたって言われてる人たちは、それを境に掲示板へ出てこなくなるんだ」
「ま、マジかよ……」
槙尾は顔を引きつらせながら、横山に続ける。
「つかお前、その謎解きやった事あんのか?」
「あるよ。ネットの愉快なお仲間たちと挑戦してみたさ」
「結果は?」
「途中で弾かれた。グループで答えを共有してる参加者くらい、向こうには分かる仕組みになってたみたいでね」
横山は肩を竦める。
「で、実はさっきのシーザー暗号。あれ、初期問題で定番の解法なんだよね」
「というと?」
「これは勝手な僕の妄想だけど――」
槙尾の表情から、先ほどまでの軽さが消える。
「君たちの恩師、想像よりも大変なことに巻き込まれてたんじゃないかな?」
有明教授の死後に届いたメール。正体不明の謎解き。
確かに無関係だと切り捨てるには、あまりにも出来すぎていた。
「ま、それより肝心なのはデータの中身。開いてみようよ」
横山が再びキーボードへ手を伸ばす。
「いくよ?」
誰も返事はしなかった。
K0200116。
最後の候補を入力し、エンターキーを押す。
今度はエラーメッセージが表示されなかった。
数秒後、ロックされていたファイルのダウンロードが始まった。
「お、ホントに開いた……」
三人が揃って画面を覗き込む。ダウンロードが完了するなり、ファイルを開いた。
表示されたのは、何十ページにも及ぶ英語の研究資料だった。
「……おい、あの教授マジかよ……」
槙尾が顔をしかめる。
「な、なに……?」
「英語読めねー」
「あ、あはは……」
横で横山が呆れた声を漏らした。
先ほどまで張り詰めていた空気が、一瞬だけ緩む。
「専門用語バッカだっての! 俺はあくまで現場担当!」
「はぁ……、なら、文明の利器に頼ろうよ」
横山は呆れながら、翻訳ソフトへ資料を読み込ませる。
ほどなくして、画面上に日本語へ変換された題名が表示された。
「えっと……、『ヒトの脳内情報をデジタル信号で補完するための基礎理論』……?」
「な、なんじゃそりゃ……」
槙尾がますます怪訝そうな顔をする。
「この教授、SFと現実世界を混同してんのかな……?」
「概要読みますね」
加奈は画面へ顔を寄せる。
そこに並んでいた文章を、ゆっくりと目で追った。
「『本研究では、先行するBCI実験から得られた脳内および身体情報を基礎データとして用い、欠損した情報をデジタル上で補完するための理論基盤を構築する』……」
誰も口を挟まない。加奈はそのまま続きを読み上げる。
「『なお、本研究は日本国政府および国家情報局の協力下で実施された共同研究であり、研究内容は機密指定される』……」
読み終えても、しばらく誰も言葉を発さなかった。
「わ、訳分ねぇーけど……」
最初に口を開いた槙尾でさえ、いつもの調子には戻れていない。
「スケール……、かなりデケェーな……」
横山も画面を見つめたまま、僅かに眉を寄せる。
過去の記憶。人格情報。人工知能。
つい数時間前までなら、どれも加奈にとっては現実味のない単語だった。
けれど今、それを残した本人は死んでいる。
そして、その死者から届いたメールによって、自分たちはこの資料を見ている。
加奈は画面の中に並ぶ文字列を見つめながら、無意識に拳を握った。
「……教授……、結局何を、私たちに伝えたかったんですか……」
当然、その問いに答える声は返ってこなかった。
時間は少し遡る。
加奈たちが上長の指示を受け、海斗の自宅へ急行し始めた頃。
海斗を乗せた新幹線は、定刻通り終着駅――東京駅へ到着していた。
列車のドアが開くと同時に、海斗は周囲の乗客に紛れるようにホームへ降りる。
車内で何度も周囲を警戒していたが、海斗は自信を尾行しているような人間を見つけられなかった。
だからといって、安心できるはずもない。サイトウから告げられた言葉が事実なら、自分は今も何者かに狙われている可能性が高い。
人の流れに合わせて北乗り換え口を抜けると、海斗は人でごった返すコンコースへ足を踏み入れた。
「うわ……」
思わず、小さな声が漏れる。行き交う人、人、人。
頭上には無数の案内表示が並び、その下を旅行客や会社員、家族連れが絶え間なく行き交っている。
慣れない人の濁流に酔いそうになりながら、流れを邪魔しないよう手頃な柱の近くへ身を寄せた。
「……どこにいるんだろ……」
もちろんスマートフォンを使えば、合流予定の指示役とは連絡を取れる。
だが電源を入れれば、せっかくここまで抑えてきた電子的な足跡を自分から残すことになりかねない。
かといって、このまま東京駅で立ち尽くしているわけにもいかない。
周囲へ視線を走らせながら、次に取るべき行動を考えようとした――その時だった。
「動くな」
背後から飛んできた声に、海斗の身体が硬直した。反射的に振り返ろうとする。
「そのままだ」
動きを制するように、もう一度声が飛んでくる。
いつからいた? 新幹線の中か? それとも、東京駅に着いてからか?
必死に記憶を探るが、それらしい人影など一人も思い浮かばない。
「小高海斗、だな?」
心臓が大きく脈打った。
名前まで知られている。それだけで、答え合わせには十分だった。
「大人しく着いてこい」
一瞬のうちにいくつもの選択肢が頭を駆け巡る。
同時に腰に押し付けられた硬い違和感に、海斗は思考が飛びかける。
だが、どれを選ぶより先に、別の感情が胸の奥から込み上げてきた。
現金で切符を買った。スマートフォンも使わなかった。誰かに尾行されていないか何度も確かめた。
自分なりに考えられることは、全部やった。それでも――。
(なんだ……、結局全部、無意味じゃんか……)
海斗は抵抗することもできないまま、その場で静かに両手を下ろした。




