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幼馴染のニート更生プログラム  作者: やわらぎメンマ
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3/14

オーバーライド

 海斗の部屋を出てから30分後。

 急な再出勤命令だけでも憂鬱だというのに、加奈が押し付けられたのは、よりによってエアコンの壊れたパトカーだった。

 真夏の熱気がこもる助手席で頬杖をつき、彼女はあからさまに不満げな顔をしている。

 開け放った窓から吹き込んでくる風も、生温いを通り越して熱い。

 ついさっきまで涼しい海斗の部屋にいたせいか、余計に身体へ堪えた。

 「おい戸石、いい加減わざとらしい鼻息やめろ。こっちまで暑苦しいだろ」

 運転席から呆れた声を向けてきたのは、加奈の先輩にあたる槙尾 翔真だった。

 「だって暑いんですもん! なんでよりによってエアコン壊れてるんですか、この車!」

 「俺に言うな。俺だって暑い」

 言葉通り、槙尾の額にもじんわりと汗が浮かんでいる。それでもハンドルを握る横顔は、加奈ほど露骨に不満を表へ出していなかった。

 その態度が妙に腹立たしくて、加奈は窓の外へ視線を投げる。

 視界の先に広がっているのは、夏の日差しを一身に浴びる田園風景。道路沿いに日陰を作ってくれそうな高い建物などなく、照り返した熱気まで車内へ押し寄せてくる。

 ひとまず暑さと湿気から気を反らすために、加奈はふときになった疑問を口にした。

 「そういえば先輩、今日早番でしたよね? なんで私が来るまで署内にいたんですか?」

 「パトカーが足りなかったんだよ。んで最後の一台をお前と一緒に押し付けられたって訳」

 「なるほど……、それは災難な」

 「他人事みたいに言ってるけど、その災難の半分はお前だからな?」

 加奈は聞こえなかったふりをして、再び窓の外へ顔を向ける。

 さっき海斗の部屋で見たニュースが、ふと頭をよぎった。

 「それより、先輩はどう思います? 今回の事件」

 「事件って決まりきったわけじゃねーだろ……」

 槙尾の声が、先ほどまでより僅かに真面目なものへ変わる。

 「でも事故って断言できるほどじゃないって言われてるじゃないですか。今回は県警の現場検証より先に、公安が現場に入ったって噂立ってるくらいだし」

 「確かに、それは妙な話だけどよ……」

 その返事を聞いて、加奈は僅かに身を乗り出した。

 自分だけが気にしすぎているわけではない。

 そう分かると、途端に好奇心が顔を出してしまう。

 槙尾は小さく息を吐き、ハンドルを切る。それまで視界いっぱいに広がっていた田園風景が途切れ、見覚えのある大学周辺の街並みへと変わっていった。

 「まぁ、事件は刑事部のジジイ共に任せとけ。俺らの任務は、現地の警備だけだ」

 「むぅ……」

 加奈はつまらなそうに、年甲斐もなく頬を膨らませる。だが、槙尾の言っていることが正しいのも分かっている。

 加奈はそれ以上食い下がるのをやめ、助手席から前方を覗き込んだ。

 やがて、見慣れた大学のキャンパスが見えてくる。

 その周囲には、普段ならあり得ないほどの人だかりができていた。

 テレビ局らしき中継車。カメラを抱えた報道陣に、大学の敷地を囲う規制線。

 つい数時間前までモニター越しに見ていた事件現場が、今度は加奈自身の目の前へ姿を現す。

 「ほれ、もう現場だ。大人しくしてろよ」

 「はぁーい」

 返事だけはいつも通り。けれど加奈は、先ほどまでのようにシートへだらしなく背中を預けることはなかった。

 無意識に姿勢を正しながら、騒然とする母校をじっと見つめていた。

 

 

 「やっと着いたぁ……」

 現場責任者の課長に声をかけてそうそう指示されたのは、正門から一番離れた西門の警備だった。

 警備を指示されたレンガ造りの門が見えてくるなり、加奈は大きく溜息を吐く。

 正門ほどの賑やかさはないと言え、加奈たちが指示された現場にもそこそこ野次馬たちがカメラを向けてる。

 「ほれ、ここからはしゃんとしてろ」

 「分かってますよ……」

 口ではそう返しながらも、加奈は制服の襟元を整える。槙尾も一度帽子の位置を直し、二人はそれまでの軽口を引っ込めた。

 そのまま業務に従事しようとした時だった。

 「あれ、もしかして戸石君に、槙尾君かい?」

 聞き覚えのある声に、加奈の足が止まる。

 振り返った先にいた人物を見て、すぐに表情が明るくなった。

 「え、有明教授っ⁉」

 「ご、ご無沙汰しています」

 驚いて声を弾ませる加奈とは対照的に、槙尾は慌てて姿勢を正し、礼儀正しく頭を下げる。

 そこに立っていたのは、二人が学生時代に世話になったゼミナールの教員、有明教授だった。

 「やぁ、本当に久しぶりだね。二人とも元気してたかい?」

 学生だった頃と変わらない笑顔。加奈もつられるように笑いかけ――途中で、その表情を曇らせた。

 「そりゃもう! 先生こそ元気――って、感じじゃないですね……」

 以前より少し痩せたように見える。目元には薄く隈が浮かび、いつもの穏やかな笑顔にも、どこか無理をしているような疲労が滲んでいた。

 「あははっ、昨日までは元気だって言えたんだけどね……」

 有明教授は困ったように笑う。

 「全く、不幸に不幸が重なるってのは、こういう事なのかね……」

 「ん? 不幸が……、重なる?」

 何気ない言葉だった。だが、加奈は引っかかった。

 今回の爆発事故だけなら、不幸が『重なる』とは言わない。

 隣にいた槙尾も同じことを感じたらしく、僅かに眉を寄せる。

 「教授、何かあったんですか?」

 有明はすぐには答えなかった。一度だけ周囲へ視線を向ける。

 警察官に大学職員。少し離れた規制線の向こうには、今も報道陣が群がっている。

 それらを確認してから、有明は声を少し落とした。

 「今回の事故の話、二人はどこまで聞いてるのかな?」

 「自分たちは、理化学研究棟のサーバー室に保管されていた化学物質が、諸々あったせいで吹っ飛んだとしか……」

 槙尾が答える。すると有明は、一瞬だけ考えるように目を伏せた。

 「なるほど……、事実ではあるか……」

 「えっ?」

 加奈は思わず聞き返す。

 ――事実『では』ある。

 その言い方ではまるで、知らされている話が間違ってはいないだけで、全てでもないように聞こえた。

 「まぁ、ちょうどよかったか――実はあらためてちゃんと、話しておきたいことがあったんだ」

 「話しておきたいこと?」

 加奈の声から、先ほどまでの軽さが消える。

 有明は何かを言いかけたものの、再び周囲へ視線を向けると小さく首を振った。

 「……いや、もう少し落ち着いた場所がいいかな」

 西門付近とはいえ、人の往来は絶えない。まして今は、大学全体が騒ぎの渦中にある。

 「君たちも仕事中だろうしね。私の話は急がないから、また落ち着いた頃にでも私のメール宛に連絡をくれると嬉しい。アドレスは大学のホームページに載ってるから」

 「わ、分かりました……。必ず連絡しますっ」

 「うん、待ってるよ」

 そう言って、有明はようやくいつもの柔らかな笑顔を見せる。

 それから何かを思い出したように「ああ、そうだ」と声を上げ、手にしていた袋を漁った。

 「ほれ、これから暑くなるだろ? これでも飲んで仕事、頑張りたまえ」

 差し出されたのは、冷えたペットボトルが二本。

 「あ、ありがとうございます……」

 「やった! 教授ありがとうっ!」

 加奈は遠慮なく一本を受け取る。掌に伝わる冷たさだけで、生き返ったような気分だった。

 「相変わらずだね、君たちは」

 有明が小さく笑う。

 ほんの一瞬だけ、学生時代に戻ったような空気が流れた。

 「それじゃあ、また近いうちに」

 「はいっ」

 有明が背を向ける。そのまま数歩進んだところで、ふと思い出したように足を止めた。

 「そうだ、戸石君」

 「なんですか?」

 振り返った有明は、何でもないことのように尋ねた。

 「君の学籍番号は、何番だっただろうか」

 「えっ?」

 あまりに唐突な質問に、加奈は目を瞬かせる。

 「H0200116、でしたけど……」

 「そうか……、ありがとう」

 有明は小さく頷く。加奈は首を傾げた。

 卒業してから一度も聞かれたことのない番号を、どうして今になって確認するのだろう。

 そんな疑問が顔に出ていたのか、有明はすぐにいつもの調子で笑った。

 「今はキャンパスもこんなだろう? 久しぶりに君が書いた卒論でも読んで、苦労させられた日々を思い出したくなってね」

 「なっ⁉」

 加奈の顔から疑問が吹き飛ぶ。

 「私ってそんな問題児でした⁉」

 「さあ、どうだったかな」

 「ちょっ、先生!」

 「ふふ、それじゃあ」

 今度こそ有明は背を向け、その場を去っていく。

 「もぉ……」

 加奈は頬を膨らませながら、冷えたペットボトルを額へ押し当てる。

 思い付きで訳の分からないことを言い出すのは、昔から少し抜けた有明教授の懐かしい個性だった。

 そんな恩師の背中が完全に見えなくなった頃。

 「なぁ、戸石」

 「なんですか?」

 不意に槙尾が声をかけてくる。その視線は先ほど有明が立ち去った方向へ向けられていた。

 「教授、なんかやつれてなかったか?」

 「それ、私も思いました」

 どうやら違和感を覚えていたのは、加奈だけではなかったらしい。

 槙尾は腑に落ちない様子で腕を組む。

 「確か今回の事故って、理化学研究棟だろ? どうして人文学の教授があんなやつれてるんだ?」

 「いや……、でも同じキャンパス内ですし……、他にも色々とあるんじゃないですか?」

 「まぁ、確かに……」

 槙尾もそれ以上の答えは出せなかったらしく、歯切れ悪く頷く。

 そんな先輩の姿を見ているうちに、加奈はふと数十分前の車内でのやり取りを思い出した。

 「先輩っ」

 「なんだよ」

 加奈はわざとらしく咳払いをすると、槙尾の口調を真似るように声を低くする。

 「“事件のことは、刑事部のジジイ共に任せとけ。俺らの任務は、現地の警備だけだ”、ですよ」

 「う、うっせー。分かっとるわ……」

 自分の言葉をそのまま返され、槙尾は気まずそうに顔を逸らす。

 加奈はしてやったりと口元を緩めると、改めて西門へと向き直った。

 今の二人に任されているのは、事件の真相を暴くことではない。

 規制線の向こうで何が起きたのかも、有明教授が何を伝えたかったのかも、今すぐ確かめる術はなかった。

 

 

 『おい、起きてるかクソハッカー』

 「うん……、起きてる」

 開口一番の罵倒にも、海斗は大して気を悪くすることなく答える。

 電話越しに聞こえてくるのは、聞き慣れた別の男の声だった。

 本名も、顔も知らない。互いに知っているのは、ネット上で使っている名前と声くらいのものだった。

 それでも海斗にとって『サイトウ』と名乗るこの男は、数少ない気兼ねなく話せる相手の一人だった。

 『お前、とうとう母校まで手にかけるクズ野郎に成り下がったか』

 「……っ、ちょっと言葉がきつくない……?」

 さすがに今度は胸に刺さった。つい数時間前までなら、いつもの悪口として聞き流せたかもしれない。

 だが、爆発した研究棟の映像を見た後では、冗談として笑えるほど軽い言葉でもなかった。

 『はんっ、知ったこっちゃねーよ。どうせまーった、奴らの言いなりになってやったんだろ?』

 否定しようとして、やめる。実際、その通りだった。

 その結果が、今朝からニュースを騒がせている。

 しばらく続いた沈黙のあと、サイトウが呆れたように息を吐く。

 『でもまぁ、これでまたお前のおかげで“ゲーム出身”のクラッカーの株、上がっただろうよ』

 その言葉に、海斗の眉が僅かに動いた。

 「……そういえばあのゲーム、まだやってんの?」

 『らしいな。掲示板は大盛り上がりだぜ?』

 「そっか……」

 海斗は短く答える。それ以上、詳しく聞こうとは思わなかった。

 『今年はいないといいな。お前みたいな奴隷に成り下がる秀才が』

 また何も言い返せない。ただ今の海斗にあるのは、確かなハッキングの力よりも、罪悪感の方が勝っていた。

 『それよりクソハッカー、一つ悲報だ』

 「悲報?」

 いつもの調子に戻った声に、海斗も何気なく聞き返す。

 『お前、狙われてんぞ』

 「はっ?」

 一瞬、言葉の意味が分からなかった。

 『言葉通りの意味だ。早けりゃ今日、お前の所に刺客が来る』

 「な、なにそれっ⁉」

 思わず椅子から腰を浮かせる。

 『ッ! お前、電話越しに叫ぶな……、鼓膜が破れるわ……』

 「それより今の、どういう事っ⁉」

 反射的に部屋を見回す。先ほど依頼主との通話を終えた時にも確認した、いつもと変わらない自分の部屋。

 けれど今度は、その景色すら安全なものには見えなかった。

 『まぁまぁ、落ち着けクズハッカー』

 「落ち着けるわけな――」

 『とりあえずお前、今すぐ東京に来い』

 「えっ……」

 海斗の声が止まる。いつもの悪趣味な脅かしなら、それで済んだ。

 だが、サイトウの声からは先ほどまでのふざけた調子が消えている。

 『詳しいことは省くけど、流石にもうお前は俺らの手に負える状況じゃなくなった。だから俺も足を洗うことにしたわ』

 「それって、どういう……」

 サイトウが裏の仕事から手を引く。その意味を理解した途端、海斗の喉が小さく鳴った。

 何度も悪態をつかれながら、それでもこれまで情報を回してくれていた男。

 そんな相手が、自分との繋がりごと断とうとしている。

 ただ狙われているという言葉以上に、その事実の方が事態の深刻さを物語っているように思えた。

 『クソハッカー』

 それまでとは違う低い声で、サイトウが呼ぶ。

 『さっさと曇ってばっかの米しかない田舎から出てこい。んじゃなきゃ、命の保証は出来ねぇからな』

 最後まで余計な一言を付け足すところだけは、いつものサイトウだった。

 けれど海斗は、いつものように言い返せなかった。

 スマホを握ったまま、机の上へ視線を落とす。

 高額な報酬に、警官募集のチラシ――そして爆発事故の記事。おまけに今度は、自分を狙っているという何者か。

 朝まで自分とは無関係だと思っていたものが、一つずつ逃げ道を塞ぐように繋がり始めていた。

 しばらくして、通話が切れる。

 海斗はしばらく黙り込んだ末、ようやく椅子から立ち上がった。



 海斗は身支度を整えはじめると、必要最低限の荷物を鞄へ詰め込みはじめた。

 この先どうなるかが分からない以上、何を持っていけば正解なのかも分からない。

 そもそも、本当に東京へ行けば安全なのかさえ分からない。

 ただ一つ確かなのは、この家に残り続けるのは危険らしい――だということだけだった。

 荷物は数えるくらいしかない。準備を終えた海斗は、そのまま部屋の扉に手をかけた。

 「そうだ……、コレ、どうしよう……」

 部屋を出る間際になって、海斗はふとデスクトップに視線を向ける。

 遅かれ早かれ、この部屋は誰かに調べられるだろう。

 当然、目の前のパソコンには、今までの“仕事”のデータが少なからず残っている。

 本来なら初期化に加えて、ハードディスクの破壊くらいはしておきたい――だが。

 「もう……、いっか」

 何がいいのか分からない。

 だけどそれ以上考えることもなく、海斗はそのまま自室を後にするのだった。



 階段を下り、玄関で靴を履こうとしたところで、背後から母親の声が飛んできた。

 「ちょっと海斗ぉ? そんな大荷物、どうしたの?」

 「……ちょっと、東京の方に行ってくる……」

 「えっ、東京⁉ またなんで急に……」

 当然の疑問だった。ついさっきまで自室に引きこもっていた息子が、何の前触れもなく東京へ行くと言い出したのだから。

 「それは……」

 刺客に狙われているから――そんなことを正直に言えるはずもない。

 かといって、この場を切り抜けられる都合のいい嘘も思いつかなかった。

 「海斗、もしかして……」

 母親が何かに気づいたように目を見開く。海斗の心臓が跳ねた。

 「東京の方にいい会社、見つけたの?」

 予想もしなかった言葉に、今度は別の意味で答えに詰まる。

 ほんの少し前、加奈から押し付けられた警官募集のチラシが脳裏をよぎった。

 「ま、まぁ……、そんな感じ」

 否定はしなかった。母親の勘違いに乗っかる形で、海斗は曖昧に頷く。

 その途端、母親の顔がぱっと明るくなった。胸の奥が、少しだけ痛んだ。

 「そ、そうだ! 母さんも行かない? ほら、おばさん家があるし、久しぶりに挨拶とか――」

 咄嗟に口から出た言葉だった。

 一人で行くのが怖いわけではない。ただ、この家に母親を一人残していくことが急に不安になった。

 早ければ今日、自分のところへ刺客が来る。サイトウの言葉が、嫌でも頭の中に蘇る。

 もし狙われているのが自分だけではなかったら――。

 「何言ってんのよ、そんな急に東京なんて行けないわよ。この後、町内会だってあるし」

 「そ、そうだよね……」

 あまりにも普段通りの返事だった。

 数時間前から爆発事故だの刺客だのと騒いでいる海斗とは違い、母親の日常は今日も昨日から続いている。

 その当たり前さが、余計に海斗の胸の奥の不安は搔き立てた。

 「なによもぉ……、まさか海斗、その年になって一人で新幹線乗るの怖いとか言うんじゃないでしょうね?」

 「い、いや……、そういう事じゃないんだけど――」

 「ほら、ならシャンとなさい」

 母親は呆れたように笑う。それから、少しだけ嬉しそうに海斗へ目を向けた。

 「母さん、海斗が自分の足で立とうとする姿なんて想像もできなかったけど、今はもう素直に嬉しいんだから」

 何も言えなかった。

 自分の足で立とうとしているわけではない。狙われていると言われて、逃げようとしているだけだ。

 それでも母親の目には、今の海斗がようやく前へ進もうとしているように映っている。

 その期待をいまさら否定することも、真実を打ち明けることもできなかった。

 「だから、頑張ってきなさい。いつ帰ってくるの?」

 「……正直、分からない……」

 それだけは、嘘ではなかった。

 「そっか。なら旅費もかかるでしょ? ちょっと待っ――」

 「いやいや! ずっと貯めてたのがあるから大丈夫だから!」

 海斗は慌てて制止する。つい数時間前、口座には三千万円もの大金が振り込まれたばかりだ。

 「そう? でもこれくらいは受け取っていきなさい」

 そう言いながら母親は財布を開き、一万円札を三枚抜き取った。

 そのまま海斗が断る暇もなく、三万円を胸元へ押し付ける。

 「息子の大切な将来ですもの。これくらいは母親としてさせて頂戴な」

 たった三万円。今朝受け取った報酬の、千分の一だった。

 それなのに海斗には、三千万円よりもずっと重く感じられた。

 「……あり、がとう……」

 受け取った紙幣を、海斗はゆっくりと財布へしまう。

 犯罪の対価として得た金とは違う。何かを壊した報酬でもない。

 ただ息子の将来を信じて、母親が渡してくれた金だった。

 だからこそ、余計に申し訳なかった。

 「ほら、電車もそろそろでしょ? いってらっしゃい」

 「うん……」

 玄関の扉へ手をかける。そのまま開こうとして、海斗はふと手を止めた。

 「そういえば……」

 「ん?」

 「さっき加奈には、僕が東京行く事言えてなかったんだ……。もし会えたら、しばらく帰れない事、伝えておいてほしい」

 「何よ、アンタからスマホで連絡取れるでしょ?」

 「いや……、これから忙しくなっちゃうと電話取る暇もないと思うし……」

 また一つ、嘘を重ねる。これから何が起こるのか分からない以上、加奈まで巻き込みたくなかった。

 ましてや相手は警察官だ。自分がどんな仕事をしていたのか知られれば、今までと同じ幼馴染ではいられないかもしれない。

 「そう……、分かった。ただし――」

 母親はどこか納得していない様子だったが、それ以上は追及してこなかった。

 代わりに人差し指を立て、海斗へ念を押す。

 「少なくとも今日の夜と、帰る日の前の晩には家に一報入れなさい。こっちにも準備ってのがあるからね」

 「わ、分かったよ……」

 今夜――自分がどこで何をしているのか。想像しようとして、やめた。

 「それじゃあ……、いってきます」

 いつもなら何でもないはずの言葉が、今日は妙に言いづらかった。

 「うん、気を付けてね」

 母親はいつもと変わらない声で送り出してくれる。

 海斗は小さく頷き、玄関の扉を開けた。真夏の日差しが、一気に視界へ差し込んでくる。

 一歩、外へ出る。背後で扉が閉じる直前、もう一度だけ家の中を振り返った。

 母親はまだそこにいた。だから海斗は、何も言わずに扉を閉める。


 財布の中には、三千万円の報酬。

 そして、母親から渡された三万円。

 どちらも同じ金のはずなのに、その意味だけはまるで違っていた。


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