リプログラム
微睡を邪魔するように、冷めたジャンクフードの臭いが鼻を突く。
嗅覚を封じるように鼻を両腕に埋めると、彼は肌に張り付いた服の湿り気に身震いした。
世間様がお盆明けの憂鬱に、肩を落としながら働き始める頃。
二十代半ばに差し掛かろうとしている青年――小高 海斗は、猛烈な頭痛と共に目を覚ました。
「あ、頭割れる……」
痛む頭を押さえながら、海斗は無意識にパソコンのキーボードに軽く触れた。
3つのモニターが並ぶうち、中央の画面がパスワードを要求してくる。
パスコードを入力し終えると、真っ新なデスクトップ画面が表示された。
世間一般でみればいわゆるニート――そう呼ばれる彼は、この一晩で約3000万円の大金を稼いでいた。
その成果を確認するために、海斗はWebブラウザを起動し、ニュースサイトのトップページに目を留める。
『【速報】大学システム乗っ取りか』
『―号外― 国立大学基幹システム クラッキング被害か』
そこには案の定、海斗の仕事が成功したと言わんばかりの表題がいくつもあった。
今回の仕事は、海斗もかつて通っていた大学の電力システムを乗っ取ることだった。
一体依頼主にとって、それが何の利益を生むのか分からない。
「……まぁ、僕には関係ない……、はず……」
海斗は自分に言い聞かせるように、ニュースサイトのページを閉じる。
十分に成果を確認できたところで、Webブラウザまで閉じかけた――その時だった。
「――えっ……」
海斗はWebブラウザのトップページに表示されている別の記事に、思わず息をのんだ。
『国立大学爆発事故 原因は火災か』
妙な悪寒に襲われながら、海斗は握るマウスに力を入れる。
詳細を確認しようと、震える手で記事のリンクをクリックしかけた時、
「海斗ぉー? 加奈ちゃんが来たわよー」
下の階から叫ぶように、母親の声が海斗の耳に届いた。
「も、もう……、今はそれどころじゃないの、にっ……」
独り言を呟きながら、ベッドで居留守を決め込もうと、海斗が椅子から立ちあがる。
「忙しそうじゃん? カイ君」
海斗は突然現れた幼馴染の姿を見止めると、男とは思えないほどの悲鳴を上げるのだった。
「もー……、そんな驚かなくていいじゃん」
少しふてぐされながら、ショートボブの彼女――戸石 加奈は、遠慮なしにベッドの縁に腰かける。
凛とした顔つきが特徴的な彼女は、幼い頃からのいわゆる腐れ縁。
そんな幼馴染に、海斗は呼吸を落ち着かせながら抗議の声を上げた。
「お、驚くに決まってんじゃんかッ⁉」
「なに? もしかしてえっちぃサイト開こうとしてたとか?」
「ん、んな訳ないでしょ!」
「ふぅーん、じゃあなに? 一生懸命パソコンなんか見てた訳?」
「そ、それは……」
思わず言い淀む。彼女から見れば、普段ゲームや掲示板にしか興味を示さない幼馴染。
そんな海斗が、熱心にニュースサイトを読み込んでいる理由――一体、どう説明すればいいのだろうか。
そんな思考を巡らせているうちに、海斗はそもそもの問題に気づく。
海斗は恨みがましい視線を加奈に向けながら、今度はこちらから問いを投げかける。
「……加奈こそなんで此処にいるの? 夜勤って言ってたじゃん」
「そっ、だから夜勤上がりに来ちゃった」
「来ちゃったって……、どんだけ暇なの……」
「暇じゃないですぅー。この街守るために、人知れずパトロール業務に従事してますぅ」
唇を尖らせながら抗議する加奈。だが彼女の言葉は、あながちただの屁理屈じゃない。
実際、加奈は警察官として働いている。夜勤明けの今だって、本来なら真っ直ぐ家に帰って眠りたいくらいには疲れているはずだ。
そんな彼女を前にして、つい数時間前まで大学の電力システムへ侵入していた自分は、一体どんな顔をすればいいのか――海斗は余計に気まずさを覚え、頬を引きつらせた。
「ってか、カイ君の方が暇人でしょ? まぁーたどうせ、夜中までネトゲでもやってたんじゃないの?」
「ま、まぁ……、そんなとこ……」
曖昧に頷きながら、海斗はそっと加奈から視線を逸らす。
ネトゲだったことにしておいた方が、今は都合がいい。
昨晩なにをしていたのか。その報酬としていくら受け取ったのか。
ましてや、その結果が今も背後のモニターに映し出されているなど、口が裂けても言えるはずがなかった。
「はぁ……、いい加減ゲームじゃなくて履歴書の一つでもさ――」
呆れたように息を吐いた加奈の声が、不意に途切れた。
その視線が、海斗の肩越しへ向けられている。
「――そのニュース、カイ君も知ってたんだ」
「う、うん……」
反射的にモニターを振り返る。
そこには閉じ損ねたニュースサイトが、先ほどと変わらぬ姿で表示されていた。
「酷いよね、私たちの母校でこんなの」
「……それは、反応に困るな……」
「あ、ごめん……、他意はなかったの」
気まずそうに眉を下げる加奈。その反応だけで、彼女が何を気にしたのかは分かってしまう。
「でもカイ君だって、ここの学生だったでしょ? 卒業してなくても」
「そう……、だね……」
「知ってる場所でこんな事件起きたのはなんか嫌じゃない?」
「うん……」
海斗はそれ以上、言葉を続けられなかった。
知っている場所だから嫌なのか。自分が関わっているから嫌なのか。それとも、その両方なのか――今の海斗には、自分でも上手く切り分けられそうになかった。
そもそも、辞めた大学に未練はない――と言えば嘘になる。順調に単位も取って、辞める理由など何一つなかったはずだった。
(なんで僕、大学辞めたんだっけ……)
自分の過去のクセに、今も海斗はいつも何処か他人事だった。
「確か学生名簿も何千件って盗まれたんでしょ? ひょっとして、私たちのも――」
――ピピピピピピッ!
突如、部屋に機械的なサイレン音が鳴り響いた。
聞き馴染みのない警告音に、海斗の心臓が跳ね上がる。
だが一方の加奈は、心底嫌そうに顔をしかめると、けたたましく鳴るスマホをカバンから取り出した。
「はぁ……、ちょっとごめん」
海斗に断りを入れ、画面を確認する。そこに表示された名前を見た途端、さっきまでの砕けた表情がわずかに仕事のものへと変わった。
「はい、戸石です」
数秒の沈黙。
「えっ、私さっき退勤したばっかりですよ?」
加奈の肩が目に見えて落ちる。
「はぁ……、分かりました……」
通話を切ると、彼女は名残惜しそうにスマホを握ったまま立ち上がった。
「ごめんカイ君、私戻らなきゃ」
「戻るって、仕事?」
「うん。あの爆発事故の件。マスコミが校門に湧きまくって、非番の応援だけじゃ足りないんだって」
「そ、そんな酷いことになってるの?」
画面の中だけにあった事件が、急に現実味を増して海斗へ迫ってくる。
「そりゃ、学部じゃなくて研究棟だしね。それなりの機密事項もいっぱいあるみたいだよ」
「機密事項って?」
「さぁ? でも私が知ってたところで、民間人のカイ君には教えられないかなぁ」
先ほどまでとは逆に、海斗が加奈をじっと見つめる。
しかし加奈は、その視線を真正面から受けてもまるで動じない。
「そんな悲しそうな顔してもだーめ。もし知りたいなら、今からでも採用試験に応募しなさい」
「……採用試験?」
言いながら加奈がカバンを漁り、一枚の紙を海斗へ差し出した。
そこに大きく印刷されていたのは、特殊警察官の募集を知らせる文字だった。
「なに、これ……」
「普通のお巡りさんとは別枠。サイバー捜査とか、特定分野の知識や技術を使って仕事する人たちの募集」
加奈の説明を聞きながら、海斗はチラシへ視線を落とす。
「その募集がもう少しで開始するんだって。カイ君、パソコン強いでしょ? ダメもとでも応募してみれば? 高卒でも応募できるみたいだし」
「加奈……、もしかしてこれ渡すためにわざわざ来たの?」
問いかけると、加奈の視線がわずかに泳いだ。
「と、とにかくっ、真面目に考えてみて。一般常識ならたーっぷり教えてあげるから」
「それ言うなら、一般教養じゃないの……?」
「教養は常識の二の次でしょ? まずはその不精髭剃って、シャンとする!」
人差し指を突きつけられ、海斗は思わず自分の顎へ手をやった。
指先に触れるざらついた感触に、反論する気力が少しだけ失せる。
「ま、まぁ……、時が来たら考えるよ……」
「絶対だからね?」
加奈は念を押すように海斗の顔を覗き込む。
その真っ直ぐな目から逃れるように、海斗は手元のチラシへ視線を落とした。
「それじゃ、バイバイっ」
慌ただしく手を振り、加奈は部屋を飛び出していく。階段を駆け下りる足音が遠ざかり、やがて玄関の扉が閉まる音がした。
途端に部屋が静まり返る。
残されたのは、モニターから漏れる白い光と、手の中の一枚の紙。
海斗は改めて、特殊警察官と書かれた募集チラシへ目を落とした。
「そんな時、ホントに来るのかな……」
同じパソコンの知識を使う仕事。けれど、今の自分とはまるで正反対の場所にある仕事。
しばらく眺めた末、海斗はチラシを机の上へ置いた。
そして、冷え切ったチキンナゲットの容器を、その上へ重ねる。
「今さら、真っ当な人生なんて……」
誰に聞かせるでもなく呟く。
返事の代わりに目へ入ってきたのは、未だモニターに表示された爆破事故の記事だった。
再びモニター前のイスに腰を預け、海斗はようやく事件の詳細に目を通す。
海斗が関与した電源喪失に始まり、サーバー室から出火、出来すぎたタイミングのクラッキング被害に、出火元に保管されていたという十数本の液体窒素のボンベの爆発――。
「なに、これ……」
どれも、海斗の知る話とは違っていた。
ブルーシートに覆われた見覚えのある建物も、規制線が張られた校門も、今はまるで知らない場所のように見えた。数年前まで通っていた場所が、今は事件現場としてモニターの中に映っている。
『現時点で死者は確認されておらず――』
そこまで読んだところで、海斗は小さく息を吐いた。
「……よかった……」
ほんの一瞬だけ、胸の奥に張りついていたものが軽くなる。だが、それだけだった。
あらためて記事を読む。読めば読むほど、疑問ばかりが増えていった。
「違う……、僕が頼まれたのは――」
海斗は記事に並ぶ文字を睨みながら、昨晩の依頼内容を頭の中で反芻する。
途端に机の上に置いていたスマホが、音もなく震え始めた。
「…………」
画面に表示された相手を見て、海斗の指が止まった。まるでこちらの疑問を見透かしていたかのようなタイミング。
一瞬だけ躊躇ったあと、海斗は恐る恐る通話ボタンを押した。
「も、もしもし……」
『やぁ、調子はどうだい?』
聞き慣れた男の声だった。いつもと変わらない、妙に軽い口調。
それが今は、普段よりも不気味に感じられる。
「頭痛で頭が割れそうです……」
『そうかそうか。そいつは結構』
「結構って……」
『それより、今朝のニュースは見たかい?』
海斗は反射的にモニターへ目を向けた。そこには今も、爆発した研究棟の写真が映っている。
「見ましたけど……」
『そうかそうか。歯切れが悪いみたいだけど、大丈夫かい?』
「気になることが多すぎます……」
『ほう、例えば?』
「……僕が受けた依頼――、ターゲットの電源を一時的に喪失した隙に、他のクラッカーに情報を盗ませるくらいは、察しがつきます」
一度言葉を切り、記事へ視線を戻す。そこに書かれた『液体窒素爆発』という文字。
数年前まで通っていた大学だからこそ、その記述にはどうしても違和感が残った。
「だけど何故、よりにもよって液体窒素のボンベなんか、電源が落ちたサーバー室にあったんですか?」
電話の向こうから、短い笑い声が聞こえる。
『ほぉ、流石、元医学部生は理化学にも通じていらっしゃる……』
「“落ちこぼれ”っての抜けてますけどね……」
自嘲気味に言い返す。だが相手は、それを否定しなかった。
『そうだね、だから君は此処にいる。君が落ちこぼれの秀才で、本当に感謝してるよ』
冗談めいた言葉のはずなのに、不思議と笑う気にはなれなかった。
『それよりも、予定していた報酬はしっかりと振り込んである。また頼むよ』
「ありがとう、ございます……」
条件通り仕事をして、条件通り金を受け取った。本来なら、それで終わる話だった。
けれど今は、口座に振り込まれた三千万円という数字さえ、妙に気味が悪く思えてくる。
『あぁ、それと、今のうちに釘をさしておくけど――』
男の声が、そこで僅かに途切れる。
『事件のことは、君が気にすることではない。それと改めてだけど、くれぐれも、“転職”にはリスクが伴うこと、自覚したまえよ?』
「――っ」
海斗の背筋に、冷たい汗が流れる。
転職――ただの言葉のはずだった。
それなのに、つい先ほど加奈から手渡された一枚の紙が、嫌でも脳裏に浮かんでしまう。
「な、なんで……、今そのこと……」
聞き返そうとする。だが、喉に張りついた声は上手く出てこない。
そんな海斗の様子に満足したのか、電話越しの男はそれ以上何も告げず、一方的に通話を終了させた。
耳元に、無機質な通話終了音だけが残される。
しばらくスマホを耳に当てたまま、海斗は動けなかった。
やがて恐る恐る端末を下ろし、部屋の中を見回す。
閉め切ったカーテン。三つのモニター。散らかった机――当然、誰かがいるはずもない。
「ぐ、偶然だよね……」
誰に確認するでもなく呟きながら、海斗はゆっくりと視線を落とす。
さっきまで気にも留めていなかったチキンナゲットの容器。その下から、加奈に渡された警官募集のチラシが僅かに覗いていた。
――転職にはリスクが伴う。
男の言葉が、もう一度頭の中で繰り返される。
海斗はチラシを引き抜くことも、捨てることもできないまま、ただ黙ってそれを見つめ続けた。




