エピローグ 2
海斗が目を覚ましたのは、約一年前の冬のことだった。
愛車を地元のスカイラインで走らせていた時、ハンドル操作を誤って道路を外れ、そのまま十数メートル下の崖へ転落したらしい。
本来なら即死していてもおかしくないほどの大事故だったという。
幸いにも一命は取り留めたものの、当時の海斗には事故そのものの記憶がほとんど残っていなかった。
現場の写真を見せられても、警察から事情を聞かれても、最初はどこか他人の事故について説明されているようにしか思えない。
潰れた車体も。崖下まで続くタイヤの跡も――自分がそこにいたという実感だけが、どうしても伴わなかった。
それでも退院へ向けた生活を続け、何度も同じ説明を受けていくうちに、ようやく自分が起こした事故なのだという現実味だけは、少しずつ持てるようになっていった。
そして、海斗が病院のベッドで意識を取り戻した時。最初に目にしたのは、見覚えのない二人の男女だった。
「よっ、やっと目、覚めたか?」
「え……、えっと……」
ベッドの横に立つ男が、安心したように口元を緩める。
その隣では、一人の女性が今にも泣き出しそうな顔で海斗を見つめていた。
「もう……、本っ当に心配したんだからっ……」
「え、えぇっと……」
二人とも、海斗を知っている。それだけは分かる。けれど、海斗の中には二人の名前も、一緒に過ごした記憶も、何一つ浮かんでこなかった。
「ん? なんだよ。もしかして俺らのこと、忘れたなんて言わねぇよな?」
答えられない。その沈黙だけで、男の表情から笑みが消えた。
「おい、マジかよ……」
「カイ君、私たちのこと、覚えてないの……?」
心配そうに女性が顔を覗き込んでくる。
カイ君。そう呼ばれることにも、何故かひどく懐かしい響きを感じた。けれど、その理由までは分からない。
「ほら、槙尾だよ、槙尾翔真。大学時代の先輩――」
男――翔真が自分自身を指差す。
「私は笹川美玖。翔ちゃんの幼馴染で、同じく君の先輩……」
「槙尾先輩に、笹川先輩……」
二人から与えられた情報を、そのまま口の中で確かめる。名前を聞いても、何も思い出せない。
大学時代の先輩と言われても、一緒に講義を受けた光景も、話した記憶も浮かんではこなかった。
「……お前、マジで大丈夫か?……」
「…………分からない……です…………」
自分が何を覚えていて、何を失っているのか。それすら、今の海斗には判断できなかった。
「はぁ……」
翔真が大きく息を吐く。
「こいつはまた、重症だな」
「翔君っ」
「っ……。すまん……」
美玖に睨まれ、翔真が気まずそうに頭を掻く。
「あははっ……」
海斗はこの場の空気を誤魔化すように笑ってみせる。けれど目の前の二人が自分を心配してくれていることは理解できても、それに見合うだけの感情を返せないことが、妙に申し訳なかった。
「まぁ、なんだ……、お前の知識借りて言えば、これがいわゆる、逆行性健忘っていうのか?」
「逆行性――健忘……」
その言葉自体は知っている。意味も理解できた。
「それって、事故以前の記憶がない状況――ってことですよね……?」
「んだよ、記憶はねぇーのに、知識だけ残ってんか……」
「そう……みたいです…………」
人の名前は思い出せない。自分がどんな大学生活を送っていたのかも分からない。
それなのに言葉は話せる。物の名前も分かる。逆行性健忘という言葉の意味さえ知っている。自分の人生だけが、綺麗に切り取られてしまったようだった。
「……ねぇ、翔ちゃん」
「んだよ?」
それまで黙っていた美玖が、不意に翔真へ声を掛ける。
「ジュース、買ってきてほしいな」
「はっ?」
「カイ君の分も、ね?」
美玖がにこりと笑う。翔真は露骨に怪訝な顔をしたものの、少しして何かを察したように立ち上がった。
「……分かったよ……」
病室の扉が閉まる。翔真の足音が遠ざかるまで待ってから、美玖は椅子ごと海斗のベッドへ少し近づいた。
「ねぇ、カイ君」
「なんでしょうか……?」
先ほどまでとは違う。僅かに緊張した美玖の声に、海斗も自然と身構える。
美玖は手元に持っていたものへ一度視線を落とした。そして――。
「この子のこと、見覚えあるかな……?」
差し出されたものへ目を落とした、その瞬間だった。
頭の奥で、何かが弾けた。
「ッ……⁉」
猛烈な痛みが頭蓋の内側を突き抜ける。海斗は反射的に頭を押さえ、そのままベッドへ身体を丸めた。
「か、カイ君ッ⁉ 大丈夫っ⁉ な、ナースコールっ――」
「だ、大丈夫……です…………」
息を整えながら、どうにか身体を起こす。
「大丈夫、ですから…………」
痛みはまだ残っている。それでも海斗は、美玖の手元から目を逸らせなかった。
何かがある。何も思い出せないはずなのに、身体だけがそう訴えていた。
「……もう一回、見せてください…………」
「ほ、本当に、大丈夫…………?」
「はい、大丈夫ですから……」
美玖は迷った末、もう一度それを海斗の前へ差し出す。
「それじゃあ、はい……」
「……ッ…………」
再び、頭の奥が軋む。
突然写真を撮られたのだろうか。困惑した表情の女の人は、ふわりとしたショートカットが印象的だった。年齢は海斗とそう変わらないだろう。可愛らしい人だとは思う。
だけどやっぱり、画像の女性は知らない人だった。
それでも今度は目を逸らさなかった。思い出そうとする。自分の中に残っている何かへ、必死に手を伸ばす。けれど――何も掴めない。
「ごめんなさい……、覚えてない……みたいです……」
「……そっか…………」
美玖が寂しそうに目を伏せる。
そして、海斗に聞かせるつもりなどなかったのか、小さく呟いた。
「本当に、消えちゃったんだ…………」
「……えっ?」
「う、ううんっ……、何にもないっ」
美玖は慌てたように顔を上げる。そのまま誤魔化すように笑った。
「そうだ、カイ君」
「な、なんでしょうか……?」
「今聞いたこと、翔ちゃんには内緒ね?」
「は、はぁ……」
理由を尋ねるより先に、病室の外から聞き覚えのある声が響いた。
「おぉーい、美玖っ! ドア開けてくれっ!」
「はいはーい」
美玖が何事もなかったように立ち上がり、扉を開ける。
その向こうには、両手いっぱいに飲み物を抱えた翔真が立っていた。
「い、いっぱい買っていたねぇー」
「こっちだってんなつもりなかったんだよ。偶然斉藤のバカが来やがって……」
「えっ? 沙耶ちゃん来てたのっ?」
「あぁ……、そろそろ奴も来るはずだけど――」
槙尾が言いかけたその時。
「せんぱぁーいッ!」
廊下の向こうから、場違いなほど明るい声が響いた。直後、翔真の脇を小柄な人影が勢いよくすり抜ける。
「ぐはっ!」
海斗が身構える暇もなかった。飛び込んできた女性が、そのままベッドの上の海斗へ抱きついてくる。
「よかったぁ……よかったよぉ……っ!」
「お前……、病人相手に容赦ねぇな……」
呆れた翔真の声など聞こえていないのか、女性は海斗の身体へしがみついたまま顔を上げる。
「先輩っ、もう大丈夫なんですか⁉」
「え……、あぁ……、うん…………」
その顔を見た瞬間。海斗の身体が、僅かに強張った。
名前は分からない。どこで会ったのかも思い出せない。それでも、その顔だけは確かに知っている。脳裏に一瞬だけ浮かんだのは、見知らぬ場所と、自分へ向けられた黒い銃口だった。
「ね、ねぇ……、一つだけ聞いてもいい?」
「なんですか?」
女性が不思議そうに首を傾げる。
「君……、斉藤さん?は、今いくつ……?」
「へっ?」
「おいおい、久々の後輩に聞くことがそれか?」
翔真の呆れた声にも構わず、海斗は答えを待つ。斉藤は困惑しながらも、指を折るまでもなく答えた。
「……21ですけど……、先輩の4つ下……」
「そ、そうなんだ……」
海斗は思わず胸を撫で下ろした。何に安心したのか、自分でもよく分からない。
「先輩……、なんでいきなりそんなことを?」
「べ、別に……、ちょっと安心しただけ……」
「? なにを安心したんです……?」
「斉藤さんが、女子高生じゃなくて……」
一瞬、病室が静まり返る。
「ぷっ……」
最初に吹き出したのは美玖だった。
「へっ?」
「あははっ! 何ですかその不安っ!」
「ほんとカイ君、変なの……」
「まだ混乱してんだろ。小高、冷蔵庫ン中に、これ入れとくから後で好きに飲めよ」
翔真が呆れたように笑いながら、買ってきた飲み物を冷蔵庫へ詰めていく。
「あ、ありがとうございます……」
「そんじゃ、こいつもゆっくりさせた方がいいだろ。俺らは帰るぞ」
「えぇーっ! 私もっと居たいですっ!」
「てめぇーは、来週二次試験だろうが。大人しく就活準備しとけ」
「むぅ……、分かりましたよぉだ」
斉藤は不満そうに頬を膨らませながらも、渋々海斗から離れる。
「それじゃあカイ君、バイバイっ」
「先輩! また遊びに来ますからっ!」
美玖と斉藤がそれぞれ手を振り、病室を出ていく。
二人の声が廊下の向こうへ遠ざかっていくと、先ほどまでの騒がしさが嘘のように静かになった。
「やっと、うるさいのが消えた……」
そう言いながらも、翔真だけは帰ろうとしない。
病室の扉が閉まったことを確認すると、それまでの軽い表情を少しだけ消した。
「なぁ小高、ちと話せねぇか?」
「小高、単刀直入に聞くが――」
先ほどまでの軽い調子を潜め、翔真がベッド脇の椅子へ腰を下ろす。
「お前、将来どうするつもりだ?」
「えっ……」
あまりにも唐突な問いに、海斗は言葉を詰まらせる。
将来。そう言われても、自分がこれまでどんな人生を歩んできたのかすら、今の海斗には曖昧だった。
「医学部出たくせしてお前、今なんもしてねぇだろ」
その事実も、目を覚ましてから教えられたものだった。大学を卒業していること。しかも医学部だったこと。
知識として聞かされれば理解はできる。けれど白衣を着て講義を受けていた自分も、医師になるため勉強していた自分も、まるで他人の経歴を聞いているようにしか思えなかった。
「まさかお前、またのめり込んでんじゃねーだろうな……?」
「なにに、ですか……?」
「決まってんだろ、お節介なハッキング――もう足洗ったんだよな?」
「……なんですか、それ…………」
聞き慣れないはずの言葉だった。
なのに――ハッキングという響きにだけ、奇妙な引っ掛かりを覚える。
「とぼけるな。そんくらい覚えてんだろ?」
本当に分からず首を傾げると、翔真もようやく冗談ではないと理解したらしい。
「お前、マジで言ってんか……」
呆れたように頭を掻き、少し言葉を選んでから続ける。
「……まぁ、実害出すとこまではやってねぇーし、いいんだか分かんねーけどよ……」
呆れた表情を浮かべながらも、翔真はその内容を確認するかのように口を開いた。
「お前、企業様のサイト片っ端からハッキングして、セキュリティーホールとその対策、ご丁寧に送り付けてたじゃねーかよ」
海斗は思わず黙り込む。知らない。そんなことをしていた記憶など、どこにもない。
なのに、翔真が説明した行為そのものは、不思議なくらい簡単に理解できた。
どうやって侵入するのか。どこから脆弱性を探すのか。見つけた穴をどう塞ぐのか。
実際にパソコンを与えられれば、今すぐにでもできるような気さえする。
「だけどお前、アレは普通にアウトだからな?」
「…………そう、ですね…………」
それも分かる。悪意がなかったとしても、許可なく他人のシステムへ侵入していい理由にはならない。何のためにそんなことをしていたのか。そこだけは、やはり思い出せなかった。
「…………はぁ……」
翔真が深々と溜息を吐く。
「……なんで医学部のお前がシステム寄りの脳みそしてんか分からねぇーけど――」
そう言いながら、翔真は懐から一枚の紙を取り出した。
「もしそっちの方に興味あるなら、これ、受けてみろ」
差し出された紙を受け取る。何気なくそこへ視線を落とした瞬間、海斗の指が止まった。
「――ッ! これって……」
「県警本部直轄のサイバー犯罪対策室――実力あるお前なら、1年くらいのブランクあったって、余裕で受かるだろうよ。実は斉藤のバカも、この試験受けてる」
「えっ……」
思わず病室の扉を見る。つい先ほど、騒がしく出ていった女性の姿が頭に浮かんだ。
「驚くのも無理ねぇーわな。アイツ、理数系って頭じゃねーのに」
翔真は呆れたように笑う。けれど海斗の意識は、もう一度手元の紙へ戻っていた。
サイバー犯罪。不正アクセス。情報解析。
並んだ文字を目で追っていくほど、不思議と胸の奥がざわつく。
理由は分からない。自分が以前、何を目指していたのかも分からない。
それでも――ここなら今の自分にも、何かできるかもしれない。そんな感覚だけが、確かにあった。
「まぁ、一応言っとくけど――」
翔真の声に、海斗は顔を上げる。先ほどまでとは違い、翔真は少し言いづらそうに視線を逸らした。
「採用側には、多少口利きしてやることくらい、できなくもねーから……」
「…………これ、ほんとに……?」
手元の紙を握ったまま、海斗は尋ねる。
「……あぁ……」
翔真の答えは短かった。自分の過去さえ分からない海斗のために、ここまで考えてくれたのだろう。その気持ちは素直に嬉しかった。
「ありがとう……ございます……」
だけど。胸の奥に、小さな違和感が残った。
せっかく差し伸べてもらった手なのだから、掴めばいい。今の自分なら、それを断ったところで誰にも褒められはしない。
それでも何故か――そこまで誰かに決めてもらってはいけないような気がした。
過去の自分がどう生きていたのかは、分からない。これから先、何が正しいのかも分からない。だけど、今ここで手にしている道くらいは、自分で選びたかった。
「だけど……」
海斗は募集要項へもう一度目を落とす。そして今度は、迷わず顔を上げた。
「これだけは、自分の力でつかみ取ります……」
一瞬だけ、翔真が目を丸くする。やがて何も聞かず、小さく口元を緩めた。
「……ふっ」
立ち上がった翔真が、海斗の肩を軽く叩く。
「まぁ、頑張れよ」
翔真はこれ以上何も言わず、そのまま病室を後にした。




